祟り神
冒頭から残酷な描写があります。過度に痛い表現はないですが、苦手な方はご注意ください。
――俺はそう悪い人間じゃない。
男はそう思っていた。
そう思いながら、夜をひた走っていた。
ちんけな盗賊団の一員ではあったが、大したことをしでかした訳じゃない。生きる為に必要な金や食い物を奪う過程で、ほんのささやかな殺しをしたに過ぎない。
俺はただ、飢えて狩られるより、狩る側に回りたかっただけだ。
それがそんなに悪いのか。間違っていたのか。
――断じて違う。そう、俺のせいじゃない。俺は悪くない。
背後の気配は次第に迫ってきていた。
振り向かなくても伝わってくる、圧倒的な量感。まるで雪崩に追われているような気さえした。
湧き上がる恐怖が心臓の鼓動を臨界まで押し上げ、男はさらに速く走った。無駄と知りつつ、そうせずにはいられなかった。
――ちきしょう、俺はただの下っ端だぞ!
頭目はろくでなしだった。
盗賊にしては頭が良かったが、こすからく、残忍だった。確かにあいつは殺されてもいい。
そうなって当然の悪党だ。襲う村だって、あいつが決めたのだ。
何の変哲もない辺鄙な村。
あがりは悪いが、危険もない。
――ちょろい仕事のはずだった。頭目は、あの阿呆はそう言ったのに!
最初はその通りだった。
昼の間は村外れの薮に潜んでじっくり観察。夕闇を待って忍び寄り、一軒ずつ、静かに襲う。騒がれることもなく順調に三軒に押し入って、皆殺しにしていった。
そこまでは良かった。
そこまではいつもと同じだった。
だが、この村には祟り神がいた。
薄汚い、ただの子供に見えたそいつを頭目は殺そうとした。
あいつはなんと言った?
そう、目撃者は生かしておけんと言ったのだ。
目撃者!
この周囲、数十キロ四方に他の村などない。
誰にも言えないなら何を見られようと問題ではないのに、あんな子供は放っておけば良かったのに、そうすれば――
「あがっ!」
がくん、と身体が揺れ、男は転倒しそうになった。左肩になにかがぶつかったらしい。
身体のバランスが妙に取り難かった。
まずい。今はもっともっと速く走らないといけないのに、どうなって――
「あ? あ、あああっ……?」
走りながら顔を捻じ曲げて見ると、バランスが取れない理由がわかった。
左腕がない。
左腕が肩ごとすっぱりと斬り飛ばされてしまっている。
だから、バランスが取れない。片腕しかないから、走り難いのだ。
血がびしゃびしゃ噴出しているから、貧血気味にもなっているのかもしれない。
だってあんなに、こんなに血が出ているじゃないか。わかってしまえば当たり前で、むしろ面白味さえ――
「はがっ!」
聞こえた。
今度は聞こえた。
怪物が、祟り神が、背後から鉤爪を振るう風鳴りが聞こえた。
あの鉤爪は頭目の頭をあっけなく握り潰し、鎧を着込んだ仲間達をぼろきれみたいに引き裂いてしまった。俺の右腕がたった一撃でなくなってしまっても、なんの不思議もない――
「あ……あ、あー、あー。ああ……あは、は」
不意におかしくなった。
だっておかしいだろ? この怪物は意外と親切じゃないか。
片腕じゃ走り難いからって、両方とも腕を、俺の腕を両方とも、う、うでから、血、血が、こんな、びしゃびしゃ、びしゃびしゃ出て――
「ふっ、ぐぐう……あは、あははは! あひひひひひっ!」
一旦笑い出すと止まらなかった。
笑い過ぎたのか、喉に血が溢れてきた。むせ返りながらも笑い続け、走り続けた。
恐怖に沸騰しかけている頭の片隅で、背中に注がれている怪物の視線を意識した。
「ふぐぐぐっ、はは、ははははっ!」
涙が出た。
どうしてこんなせこい村にこんな凄まじい祟り神がいるんだ。
どうして俺はこんな怪物に追い回され、嬲り殺されようとしているんだ。
悲しいのか、悔しいのか。
それすらよくわからないまま、男は涙を流し、走り、笑い続けた。
「ひひひひ、ひは、ひはは、ひひははははっ!」
もうすぐ村の外に出て――
――いやいや、出れないよ。わかっているくせに。
何故まだ殺さない? もしかすると見逃して――
――その必要がないだけさ。だって、お楽しみは長い方がいいだろ?
そうだ。怪物は楽しんでいた。長い鬣を振り乱して、愉快そうに哄笑していた。
仲間達を一人一人追い詰め、ゆっくり殺していたじゃないか。どれだけ腕が長いのか、どれだけ爪が鋭いのか――どれだけ自分が強いのか、初めて確認するかのように。
だけどだけど、でも、もしかしたら一人ぐらい、俺ぐらいは助けてく――
「ご、がはぁっ!」
自問に答える間もなく、強烈な衝撃が男の身体を宙に浮かせた。
回る視界の中で、見覚えのあるズボンと靴が怪物の前に落ちているのが見えた。
変だな。俺はここで飛んでいるのに、どうして下半身だけあそこにあるんだろう?
次の瞬間、男は頭から地面に落下した。
首から響く乾いた音が、最後の疑問を打ち消した。