SS #004 『幽霊部隊の食糧事情』
王立騎士団特務部隊には二つのセクションが存在する。
一つは表立った活動をし、市民向けの広報活動にも協力するセクション『ジリオンスターズ』。彼らは特務部隊長サイト・ベイカー指揮のもと、市民には手出しができない貴族の犯罪行為を取り締まる。
もう一つは存在自体が隠匿された極秘セクション『ジルチ』。隊員の大半は事故で死亡、もしくは長期療養中ということにされている。彼らは市民に公表できない貴族犯罪を秘密裏に処理する。その手法は非常に残忍かつ効率的で、主に関係者の暗殺によって事件そのものを『なかったこと』にしてしまう。
無限の星々が光り輝くからこそ、空の闇はより深く、暗く。
深淵の無明が存在するからこそ、星はより明るく、鮮やかに。
彼らは常に表裏一体。緊密な協力体制を整え、足並みをそろえて国家の安寧と市民生活の質の向上に尽力している。
少なくとも、建前上は。
その日も彼らは揉めていた。
「嗜好品の調達は必要急務であると考える。この件に関しては譲れない」
「そう申されましても、こちらも人手が割けません」
「メリルラント兄弟がジリオンに復帰したのだから、そちらの人員は三名増だろう。どこが足りない」
「全く足りませんよ。人員以上に事件が増えているんですから。王子の影響力を甘く見られては困ります」
「それはこちらも同じだ。王子が陣頭指揮をとれば、上級貴族の犯罪にもガンガン突っ込んでいけるからな。これまで余裕面だったジジイどもが大慌てで動き始めていやがる」
「そういうことでしたら、こちらの人手不足もご理解いただけませんか?」
「理解はできるが譲れない」
「と、申されましても……」
堂々巡りである。
ジルチは『裏の特務』という性質上、正式な経理手続きを経て物資を調達することができない。表の特務・ジリオンスターズが獲得した予算の半分がジルチの活動費である。
しかし、それでは足りない。
金額的には十分でも、『存在しないはずの人間』が十人近くも生活しているのだ。日々の食事も衛生用品の購入も、通常のルートが使えないと調達が難しい。
日々の食事は情報部の官舎からジルチの分を取り分けることで賄っている。
トイレットペーパーや洗剤は特務部隊のオフィス、宿舎、本部敷地内の各施設での使用量を少しずつ水増しし、なんとか必要量を確保している。
装備品や銃火器類はジリオンと共用。非常時に備えた各種備蓄品もジルチ、ジリオン双方で一つの倉庫を使用しているため、本当に非常事態が発生した場合、食料も消耗品も全く足りなくなるだろう。
当然、存在しないはずの人間がその辺をうろつくわけにはいかない。移動には何百年も前に造られたカビ臭い地下道や下水道を利用せねばならない。
そんな『不自由すぎる環境』での活動を余儀なくされているジルチは、時にとんでもないわがままを押し通す。
「使い走りの人員がいないというなら、お前個人の注文品ということで配達させるのはどうだ? それなら酒屋もゲートを通れるだろう?」
「無茶を言わないでください。職場にアルコールを届けさせたと知られたら、口うるさい市民団体に何を言われるか……」
「適当に隠して持ち込めないのか?」
「あなたがそれを言いますか?」
ジルチは『幽霊部隊』として姿を隠すため、事故に巻き込まれて爆死、骨の断片すら残らなかったことにされている。その『原因不明の事故』以来、騎士団本部の警備は強化されたままなのだ。たとえ特務部隊員であろうと、入り口での荷物検査とボディチェックは受けねばならない。こっそり酒瓶を持ち込むことは不可能だ。
「何も一生禁酒しろと言っているわけではないのです。一週間……いえ、せめて三日待てませんか? 三日後には酒屋の納品があります。肉の仕込みに使う赤ワインを余分に発注すれば……」
「三日も待てるか! 気晴らしにその辺を散歩することもできないんだぞ!? なんなら今からでもうちの連中の様子を見に来い! その場で回されると思うがな!」
ストレートすぎる表現に、ベイカーは天を仰いで呪いの言葉を吐いた。
そしてうんざりした顔で手帳を取り出すと、何かを調べながら確認する。
「娯楽も嗜好品もない状態で激務を強いられたことにより、隊員たちのモラル低下が著しい……ということでよろしいですね? 五段階評価で表すとしたら?」
「四から五になりつつある段階だ」
「最低限の集団生活が維持できているだけでも奇跡的、ですか?」
「正直に答えれば、とっくに一線を越えたやつもいる。詳しく聞くか?」
「いえ、結構です」
もとからゲイとバイセクシャルがいるチームなのだ。ストレスのあまり勢いでくっついてしまったとしても、何の不思議もない。
「ええと、そうですね……そちらから一人出せませんか? トニーに行かせる予定の偵察任務があります。誰とも顔を会わせません。素性を隠したまま行動できます」
「今夜か?」
「はい。任務地はミラ・メラ市です」
「乗った。キルシュに行かせる」
「では、トニーには今から買い出しに行ってもらいます。届け先は外堀の東城壁下でよろしいでしょうか?」
「遠いな」
「鍵なしで入れる箇所はそこしかありませんよ。それとも、トニーにも解除キーを教えますか? その場合、団長への報告はアル=マハ隊長にお願いすることになりますが?」
「む……やむを得ん、妥協する……」
「オーダーは?」
「ビールとウイスキーと煙草。銘柄はなんでもいい」
「了解です。任務の指令書は後ほどポールに……いえ、アレックスに届けさせます」
「そうしてくれ。あのクソガキに援助交際を持ち掛けられそうで怖い」
「ですよね?」
そんなこんなで話し合いは平和的決着に至り、トニーは使い走りをさせられた。
その日の夜のこと。
急な予定変更で夜のスケジュールが丸ごと空いたトニーは、宿舎で読書をして過ごしていた。
今夜は一人。ほかの隊員たちは皆地方任務か貴族のパーティーに出ていて、宿舎には住み込みメイドのカレンしかいない。
カレンは好き嫌いがはっきりした女性なので、彼女との遭遇頻度は隊員によって異なる。ロドニーとマルコは毎日のように顔を合わせているため気付いていないようだが、彼女はトニーの前には滅多に姿を見せない。
気配は感じるので、間違いなく宿舎内にはいる。が、ほとんど目撃することがない。
トニーは本を読みながら、考えるともなしに考えていた。
そんなに嫌われるようなことをしたかな、と。
確かに、会ったところで特に話すことはない。しかしあまりにも遭遇率が低すぎると、避けられているようで悲しくなってくる。
「……なんでだ……??」
目つきが怖いとか言葉遣いが悪いとか、そういった理由で嫌われるなら理解できる。それは自覚しているし、あえてそのように振る舞っている。基本的に仲の良い特務部隊だが、それでもここは力がモノを言う男社会なのだ。舐められたらそこまで。『後輩』でも『部下』でもなく、使い勝手のいい『下っ端』扱いされるだけだ。
チョコは隊長にも副隊長にも気に入られているし、誰とでも合わせられる器用さがある。
ゴヤには霊的攻撃という特殊能力に加え、『団長の息子』という最強のカードがある。
レインには『陸上生活が可能な海棲種族』という、超希少種ならではの強みがある。
ならば自分は?
考えるつもりはなくとも、ふとした瞬間に考えてしまう。
自分にあるのは負けん気の強さと火力だけ。その火力も、これまでは絶対に誰にも負けない自信があったのに――。
「……あんな野郎に……」
マルコ・ファレル・アスタルテ。彼はトニーの前に突如として現れた、高く強固な壁だった。
王子という身分で頭脳は明晰、剣の腕は人並み以上。未知の敵にもひるむことなく挑み、そうかと思えば『話し合い』という平和的手段を好んで用いる。
腕力だけで生きてきたトニーには絶対に真似できない『犯罪被害者への支援活動』などを行い、現場に出ない日には王立大学法学部卒の経歴を生かして広報課のアドバイザーのようなこともしていて――。
「……クソ! なんで、あいつは……っ!」
マルコは強い。しかし、争いを好まない。
その『戦わない』という選択は、マルコが『別の手段』を持ち合わせているからこそ浮上する選択肢の一つである。
彼は何もかも持っている。だから戦わないことを選択できる。
自分は何も持っていない。だから戦い、勝ち続けなければならない。
戦って、戦って――勝って、勝って、勝ち続けてきたのに。
いつのころからか、舌打ちと藪睨みが癖になっていた。人から嫌われる原因がそれだと分かっていても、今更これはやめられない。やめればトニーは自分の人生を否定することになる。
読みかけの本を乱雑に放り出し、トニーはソファーから立ち上がる。
ひと暴れしたい。
ちょうどそう思ったところだった。
「トニー! すぐに支度しろ! 今から出るぞ!」
ベイカーはリビングルームに駆け込むと同時にそう言って、鞄と上着を投げ捨てる。全速力で駆けてきたのだろう。ひどく息を乱したまま説明を始めた。
「ミラ・メラ市で抗争が始まった。一方は例のブローカーだが、もう一方の所属が分からない。両方押さえるぞ!」
「キルシュ先輩は!?」
「建物内に取り残されている! 急げ!」
「はい!」
二人は装備を整え、宿舎を飛び出した。
現場は混乱を極めていた。
元よりその建物を拠点としていたブローカーと、その協力組織。彼らは取引相手ではあっても仲間ではなく、行動にも連絡体制にも連携が見られない。けれども数だけは多いため、人海戦術によって強引に押し切ろうとしている。
対する襲撃者側は、ブローカーと協力組織の戦闘員たちが一堂に会していることを知らなかったのだろう。殴り込みをかけるには頭数が足りない。それでも無駄に射程と破壊力のある改造武器を持たされているため、戦力としては対等に近い。
飛び交う怒号、弾丸、攻撃魔法、火炎瓶、石、空き缶、その他諸々。
作戦も陣形もあったものではない。双方の戦闘員はただの傭兵なのだ。軽い顔合わせ程度で現場に出ているため、敵味方の識別すら怪しい。とにかく『敵らしき人間』に攻撃するだけのひどい乱闘騒ぎになっている。
ベイカーとトニーは情報部の馬車に便乗する形で現場入りし、あまりのひどさに絶句した。
「今突入すると隊員が無駄に負傷する可能性がありますので、総出で規制線を張っています。周辺道路、地下通路、下水道などは完全に封鎖しています。奴らはどこにも逃げられません。ヤクザ者同士でつぶし合わせて、疲弊したところを取り押さえます!」
ミラ・メラ市の騎士団支部長はそう言って胸を張ってみせるが、それは最悪手だ。情報部と特務部隊は、それこそが黒幕の狙いだと知っている。
貴族案件を担当する特務部隊が動くということは、既に取引先を把握しているということ。つまりこの現場は、特務の動きを察知した貴族が傭兵部隊を雇い、ブローカーとその協力組織の口を封じようとしているところである。
「トニー、幹部連中の顔は覚えているな?」
「はい」
「生かしたまま捕えたい。できるか?」
「……やってみます」
はいと言えないことが辛かった。
気配を消して偵察にあたることも、敵のアジトを徹底的に叩き潰すこともできる。しかしトニーの能力ではターゲットの生け捕りは難しい。トニーの魔法はほとんどが爆発か火炎放射なのだ。強火力での一撃必殺を『最善手』として生きてきたトニーには、生け捕りは勝手が違いすぎる。
やらねばならない。
それは分かっているのだが、脳裏にちらつくのはもっともいけ好かない男の顔だった。
マルコだったら迷わず「お任せください」と答え、名乗りを上げて、正面から堂々と突入するだろう。
彼にはそれができるだけの能力と、相手が怯むほどの高い身分がある。
この場においては、恐らくそれこそが『最善手』で――。
マルコにできることが自分にはできない。
そんな悔しさが顔に出てしまっていたのだろう。ベイカーはトニーの頭をつかんでワシャワシャと掻きまわし、乱れた髪を直しながら優しい声音で言う。
「生け捕りが苦手なのは俺も同じだ。俺は情報部と一緒に裏からこっそり入る。表の連中は任せたからな。俺たちが中に入りやすいよう、派手に暴れて注意を引き付けてくれ。できるな?」
「……はい!」
ベイカーは自分を信頼してくれている。
今ここでベイカーの役に立てるのはあの男ではない。自分だ。
そう思ったトニーは、自信を取り戻すと同時に腹の底から力が湧いてくるのを感じた。
沸き起こる苛立ちも、納得できない気持ちも、心に溜まった澱のようなものも。すべてを炎に変えて焼き尽くす。それがトニーの戦い方である。ほかの戦い方なんて、彼の辞書には載っていないのだ。
四時間後、ようやく最後の一人が捕縛され、ミラ・メラ市での騒動は終幕を迎えた。
ブローカー、協力組織、傭兵それぞれに死傷者が出ているが、幹部クラスは全員口が利ける状態で拘束できた。これで問題の貴族も退路を断たれることとなるだろうが――。
「隊長、あの……」
「なんだ?」
「戦闘員と武器をこれだけ集めていたということは、この連中は近いうちに『切られる』ことに勘付いていたのでは……?」
「ああ、俺もそれを考えていた。建物内の荷物が、どれもこれも移動用にまとめられていたし……」
「今夜中にでもこの拠点を捨てて、どこかに移るつもりだったのでは?」
「可能性はあるな。しかし、だとするとまずいぞ。口封じを考えるのは貴族の側だけではないからな」
「問題の貴族の家もミラ・メラ市内ですよね? 俺が様子を見に……」
「いや、駄目だ。連戦はさせられない。休め」
「俺はまだやれます!」
「無理をするな。情報部もミラ・メラ支部も動いている。今後のことはそちらに任せよう」
「ですが……」
「トニー」
「はい」
「限界以上に働いてみせることが『努力』や『忠誠心』ではない。お前はすぐに忘れるが、俺を心配させないこともお前の大切な仕事の一つだぞ? 休めと言われたらおとなしく休んでくれ。お前が倒れてしまったら、俺の手が届かない獲物は誰が仕留めてくれるんだ?」
うん? と小首をかしげて顔を覗き込む。
背中を守るのは誰だ、とは言わない。防御はマルコの十八番だ。
共に戦うのは誰だ、とも言わない。ベイカーと肩を並べて戦えるのはロドニーだけだ。
自分に与えられる役割は索敵、陽動、突撃。それはベイカーの狙う獲物を残らず仕留めて持ち帰る『猟犬』の仕事であり、ほかの誰にも真似のできない『自分だけの特技』である。
誰かと比べる必要はない。
お前はお前の仕事に誇りを持て。
言外に語られるベイカーの思いに、トニーは強く胸を打たれた。
静かに頭を下げ、言葉を絞り出す。
「ありがとうございます……!」
普通の口調で答えようとしたのだが、わずかに声が上ずってしまった。
うれしい気持ちを正直に見せるのは恥ずかしい。けれどもうまく隠し切れない。
そんな不器用な部下の肩をやさしく叩き、ベイカーはサッと踵を返す。
「先に戻って、しっかり寝ておけよ。明日は明日で別の任務があるんだからな」
ひらりと手を振り、ベイカーは治安維持部隊のほうへと歩いていく。
ド派手な戦闘は終わった。あとは各セクションの責任者と担当事務員たちが事後処理について話し合うだけだ。トニーが現場にいても、何の役にも立ちはしない。
トニーはもう一度頭を下げ、ベイカーの指示通り本部に帰還した。
誰もいない宿舎に戻り、トニーは気付いた。
リビングに投げ出されていたベイカーの鞄と上着がない。自分が放り出していった本も、ソファーの上に適当に転がしていったクッションも、すべて綺麗に片付けられている。
「……カレンか……?」
そこでトニーはハッとした。
カレンが住み込みメイドになってから、宿舎の中はいつでもこざっぱりと清潔に保たれている。それまではその辺に隊員の私物が放置されているのが普通だったのだが――。
「いつも片付けてくれているのか……?」
ハウスキーピングメイドの仕事は共用部分の清掃と聞いていた。廊下や浴場の清掃作業だけを行っているものと思っていたが、どうやらカレンはそれ以上のことにも気を遣っていてくれたようだ。
気付いた瞬間、トニーは恥ずかしくなった。
嫌われるようなことをしていたのではない。
好かれるようなことをしていなかっただけだ。
ロドニーもマルコも使用人のいる生活に慣れている。日常的にねぎらいの言葉をかけることで感謝と信頼を示し、使用人たちの仕事に対するモチベーションを維持・向上させているのだ。それは現場でベイカーがトニーにしたのと同じことだ。カレンの気遣いに気付く度、感謝と労りの言葉をかけていたに違いない。
トニーは時計を見た。
もう日付が変わっている。カレンは就寝しているだろうし、もし起きていたとしても、ほかの誰もいない日にろくに会話もしたことがない男が部屋を訪ねていっては、彼女を怖がらせるだけだろう。
トニーはメモにメッセージを書き、カレンの部屋のドアに挟んでおくことにした。
〈ありがとう。散らかしたまま出て行ってごめん〉
たったそれだけの文章を綴る間に、トニーは五回も全身を掻き毟った。
恥ずかしいやらこそばゆいやら、体中がむず痒くて仕方がない。
しかしその感覚は、不思議と不快でなかった。いや、それどころかむしろ――。
「……読んでくれるといいな……」
感謝の気持ちを伝えることが、こんなにうれしいことだとは知らなかった。
その晩、トニーは久しぶりに楽しい夢を見た。
それから数日後のことである。トニーに再び『お買い物ミッション』が言い渡された。ただし、今回は一人ではない。
「レノさんとセイジさんに同行……ですか?」
「ああ。ちょっと地球まで、『レアアイテム』の買い付けに行ってもらいたい」
「ええと……また百円ショップのラーメンどんぶりですか?」
「いや、今度はアニメキャラか何かが印刷されたレジャーシートがいいな。安っぽければ安っぽいほどいい。貴族連中はああいうものを見たこともないから、『超レアな地球みやげ』として珍重してくれる」
「はあ……そういうものですか?」
「ああ、そういうものだ。数も種類も気にせず、とにかく売り場にあるだけ全部買ってこい。『特務部隊長からのちょっとしたプレゼント』として、それらしい連中に出鱈目にばらまくぞ」
「それらしい連中に、ですか? 協力者への謝礼に使うのではなく?」
「それだと楔が打ち込めない」
「楔……ということは、貴族同士で腹の探り合いをさせると?」
「そうだ。先日の連中とつながりのある貴族に『超レアな地球みやげ』を渡せば、『自分は仲間とバレていないのか?』と、こちらの反応を探るような行動をとるだろう。逆に自分だけが渡されなければ、『次のターゲットは自分ではないか?』と不安に感じて何らかのアクションを起こすはずだ。どうせなら芋蔓式に収穫してやろうじゃないか。なあ?」
不敵に微笑むベイカーに、トニーも唇の端を釣り上げてこう答える。
「元手のかからない釣りですね」
「いやいや、かかっているとも。今日一日、モフモフわんこが俺の足元から消えるんだぞ? これ以上ないくらいの損失じゃないか」
「隊長」
「なんだ?」
「変身しても?」
「許可する。来い!」
トニーは黒犬に変身し、何のためらいもなくベイカーの腕の中にダイブした。
人間の姿で生活しているが、基本的には犬なのだ。飼い主にはモフモフ・ワシャワシャされたいのである。
その後二人はレノからの『早くしろコール』がくるまで、延々とじゃれ合っていた。
地球での『お買い物ミッション』はおおむね順調に進み、残るはジルチ隊員らの嗜好品、『カニカマ』と『鯛入り笹かまぼこ明太チーズ味』のみとなった。
カニのようでいてカニではない謎の食品と、もはや何が主役か分からない盛りすぎ食品だ。ネーディルランドには存在しない不思議な食感のそれらは、普通のスーパーマーケットとご当地アンテナショップとで取扱商品が違うらしい。三人はキャリーカートとスーツケースをガラガラゴロゴロと引きずって、銀座の人込みをかき分けていく。
移動の途上、トニーはセイジとレノから妙な話を聞かされた。
「主な食糧調達先は地球?」
「うん、そうだよ。と言っても、俺たちが地球の食料品ばかりを食べているわけじゃなくて……」
「こういうのが大好物だという情報部員が何人かいるんだ。だからこれをやる代わりにお前の分をこっちによこせ、と」
そう言うレノが引くキャリーカートには大量のカップラーメンが積まれている。これは世界八十か国以上で販売されている超有名・大人気インスタント麺である。ネコ科人間のピーコック曰く『塩辛すぎてちっともおいしくない』という代物だが、地球人類の中には一日三食これだけで十分だという者もいる。トニーも何度か食べたことがあるが、どれだけ考えても麺の上にのっている角切り肉のようなものの正体がわからず、思い出すたびにモヤモヤした気持ちになってしまう。
「ええと……ジルチには情報部経由で食事が届けられていると聞いています。余分に取り分けられても、食べきれないのでは? 騎士団の食事メニューはかなりの量ですし……?」
「いやいや、そんなことはないんだなぁ~」
苦笑するセイジに続き、ため息交じりのレノが説明する。
「情報部の官舎に配達される食事のカロリー量は事務職員レベルで栄養計算されている」
「えっ!? それは……特務の半分くらいですよね!?」
「その通り。情報部は『戦闘要員』として登録されている人数が極端に少ない。諜報活動で本部の外に出ている連中の分をうちに横流ししているんだが、コード・ブルーとコード・レッド以外は書類の上では事務職員とされているため、身体的負荷が非常に軽く計算されている。一日当たりの摂取カロリーは平均して2,500kcal以内だ」
「背脂マシマシ豚骨スタミナチャーシュー麺一杯分しかないんですか!?」
「足りないだろう?」
「はい、全然! あの、では、どうしても足りないときはどうしているんですか……?」
「狩るね」
「狩る」
「できるだけ食べ応えのありそうなのを」
「食べ応え」
「本部内で派手な攻撃魔法を撃つわけにいかないから、サイレンサー付きのライフルとかで狙い撃って……」
「ライフルで……何を?」
「鳥とか、トカゲとか……本部の敷地内にはそのくらいしかいないからな」
「……大変ですね……?」
「ああ……よもや『幽霊部隊』になることが、これほど大変なことだったとは……」
レノのボヤキに、セイジも頷く。
「はじめのうちは、みんな軍用レーションでも問題ないと思っていたんだよ。でもひと月も持たなかったんだ。毎日毎食同じような味付けばっかりだと、いい加減うんざりしてきて……」
「こっそり抜け出して市内の食料品店で買い物をしていたんだが、何度か行くうちに店の従業員に顔を覚えられてしまってな。『どこの貴族の兵隊さんだい?』なんて聞かれたりで……いや、あの時は本当に困った。咄嗟にベイカーの名前を出してしまうくらい焦った」
「それは……まあ……」
トニーは曖昧に言葉を濁した。
ベイカー家の私兵隊は国内最強と呼ばれている。なぜならば私兵隊の全員がベイカーと同じ雷獣族で、各小隊は兄弟や親類のみで編成されているからだ。もともと身体能力の高い雷獣が潤沢な資金で軍備を整え、最高のチームワークで襲い掛かってくるのだ。誰がどう考えても、絶対に勝てない。
有名すぎる私兵隊の名前を騙ってしまったせいで、レノはその店に行けなくなってしまった。セイジやほかの隊員らも、それぞれ別の店で似たようなことがあったのだという。
あっという間に近場の買い物スポットが消滅し、気晴らしに飲みにいける居酒屋も一軒、また一軒と消えていった。そして『幽霊部隊』発足から二年半、ついに地球以外の食糧調達先がなくなった。
ジルチの厳しすぎる現状を聞かされ、トニーはベイカーの意図に気付いた。
彼らの境遇を正確に理解して物資調達に協力できるのは、おそらく自分しかいない。
貴族として何不自由なく育ったロドニーとマルコは論外だし、グレナシンやハンクは辺境特有の『毎日同じ物しか食べられない環境』に順応しすぎている。彼らではジルチメンバーの感じている不自由さが理解できないだろう。
また、気持ちを理解できても買い物要員として動けない隊員もいる。チョコは見た目が派手すぎて秘密の出入り口に近づけないし、ゴヤも市内では顔が知られすぎているため、こっそり移動することが難しい。
そして困った事に、気持ちを理解することも買い物に行くことも可能だが、要望通りの物を調達できない隊員がいる。レインは海棲種族、キールは王室御用達の老舗ジャム屋の長男坊だ。食事や嗜好品に関する水準が特殊すぎるか、洗練されすぎているか。庶民感覚の『ジャンクな酒とつまみ』を買って来いと言われても、あの二人には庶民の平均的な嗜好品が分からない。
ジルチはジリオンの最強の味方。彼らの苦境を、このまま放置することはできない。
しかし、マニュアル化した命令で決まった物を定期的に届けたのでは同じことの繰り返しだ。彼らのニーズに合ったものをその都度調達して届けることで、ジルチとジリオンの友好的かつ円滑な協力体制を維持していきたいところである。
トニーは意を決し、こう申し出た。
「レノさん、セイジさん。よければ、今後も物資調達に協力させていただけませんか? その……こうしてお話できる機会に、ジルチが請け負っているミッションについても、いろいろ聞かせていただきたいですし……」
嘘ではない。トニーとしては、ライバル視しているマルコが知りえない『現場の情報』をできるだけたくさん仕入れておきたいのだ。身分の高い人間だからこそ知りえる情報もあるだろう。しかしすべての事件において、より多くの情報は現場の人間たちの間でやり取りされている。マルコを出し抜けるチャンスがあるとしたら、今、この瞬間こそがそれだと思った。
「いいのか? いや、俺たちはそうしてもらえると嬉しいが、こちらの活動をサポートしてくれても、君個人の実績として記録に残らないんだぞ? 本当にいいんだな?」
「プライベートに費やす時間を削ることになると思うけれど……?」
「かまいません。通常任務なんて、いつだって秒速クリアですから。オフィスに戻って昼寝している時間のほうが長いくらいです」
「ほう、強気だな!」
「いいね、そういうの。無駄に仕事しているフリをする奴より好きだ」
「では……」
「ああ、よろしくな」
「遠慮なく呼び出させてもらうよ」
トニーは二人と固い握手を交わす。
ジルチの参謀、バルタザール・レノ。
無欠のオールラウンダー、セイジ・ラザロフ。
己の力以外の何も持たなかったトニー・ウォンは、この瞬間、最強の味方と『突破口』を得た。しかし、彼自身がこの日の決断の大きさを自覚するのはまだ先のことである。
「あの、ところでレノさん……」
「うん? なんだい?」
「はじめからずっと気になっていることがあるのですが……」
「言ってみたまえ」
「ものすごく挙動不審なトカゲとミサゴがついてきている気がするのですが、その……どうしたら……?」
「気にするな。人間には見えていない」
沈痛な面持ちのレノに続き、セイジも小声で耳打ちしてくる。
「久しぶりに地球に来たら高層ビルや自動車だらけになっていて、まだ理解が追い付いていないみたいなんだよ。そっとしておいてやってくれ」
「は、はぁ……」
古代アフリカの自然神だったオニプレートトカゲと古代エジプトの天空神ハロエリスに、銀座数寄屋橋のスクランブル交差点は刺激が強すぎたらしい。怯えた動物そのものの挙動でヒョコヒョコ、ペタペタと歩き回り、人込みに戸惑って右往左往している。
人間のような表情筋は存在しないはずだが、二柱は誰がどう見ても『困り果てた顔』をしていた。
「……これが神獣か……」
マルコには神々の加護があるが、よくよく思い返してみれば金魚と亀だ。小学校の教室の隅で飼育されている動物の、ほんの少し上等な奴らである。
マルコにはあって、自分にはないもの。
それは列挙していけばいくらでも思い当たるだろう。だが、実はそんなものは、たいしたことではないのかもしれない。
だって、金魚と亀じゃあないか。
トニーはこの瞬間以降、あっさり、さっぱりと物事を割り切れるようになった。
「っと、しまった。のんびりしすぎたかな? レノ、時間大丈夫か?」
「うん? ……ああ、そうだな。少し急ごうか」
「え、あの、レノさん? トカゲがついてきていないのですが……」
「気にするな、あれでも神だ。迷子になったくらいで泣いたりしないさ」
「え、ええと……そう……でしょうか……?」
「行くよ、トニー」
「あ、はい!」
首をかしげながらも、トニーはレノとセイジに従った。
レノを見失ったトカゲが号泣し、銀座がゲリラ豪雨に見舞われたのはわずか五分後のことであったという。