三十八話:――とあるおはなし⑤
結局、天津が訪れてからずっと俺は眠れなかった。
遅くても明日には、送還の魔法を発動させなければいけないことを考えると、今日はいろいろと忙しい一日になるだろう。眠れなかったことは、相当大きなリスクになりかねない。
「……冷静に考えてみると、この家三日で空き家になるのよね」
今日の予定を考えていると、ヒョウゲツがそんなことを言い出した。両手にはトーストと目玉焼きが挟まれたサンドがあった。
差し出されるそれを一つ手に取って、俺は一つ頷いた。
……確かに、異世界から地球へ帰るならば、この家を建てる必要もなかったのかもしれない。尤も、建てる時には明日にでも地球に帰る、などとは考えていなかったからしょうがないことなのかもしれないが。
それはさておき。
「にしても、決行が明日になるとはな」
「まぁ、腐ってもあの宗教って国教だから、それだけ兵力も持ってるんでしょ。そうじゃなかったら、今頃サトウの仲間たちが追い払ってるはずだもの」
天津に具体的に数はきいていないが、それでもあのクラスメイト達が窮地に立っているのだからそれなりの数の兵士が周辺を包囲しているのだろう。
教会での事件でこそ、洗脳されていたが故の直線的かつ読みやすい戦闘を行っていたが、意識がある状態でのクラスメイトは、この世界でもトップクラスの戦闘能力を持つ集団になるだろう。
まして天津がその統率を取っているのならなおさらだ。
「さすがにそれだけの数の人間を相手にするのも骨だしな」
「そうよね。手っ取り早く元の世界に戻るのが一番だと私も思うわ」
自分の席にも朝食を置いたヒョウゲツが、身を乗り出してきて俺の手を手で包み込んできた。――炊事のせいか、ひんやりとしていて気持ちいい手だ。
「もちろん、一緒にね」
そう笑顔を浮かべるヒョウゲツの顔を、なぜか俺は直視できなかった。
◇
いろいろ忙しい、といっても、行うべきことの大半は儀式に必要なものの調達だった。一部を除けば大体は街の市場に売ってあるものなので、難易度自体は低い。ただ店を回る時間があるので忙しい、というだけである。
というわけで、俺とヒョウゲツは手分けして素材を購入していく。途中お金が足りなくなったら、教会事件の時に倒した魔物の素材を売り払って用立てた。
そうして六時間が経過し、買い物の九割が終了する。太陽が傾いていて、空の端っこに、にわかに茜色が滲み始めていた。
少し休憩してもいいか、と判断した俺は、途中に在った公園のベンチに腰を下ろした。
「……明日か」
一息ついて思い出すのは、どうしたって明日の送還についてと――昨日の天津の言葉。
”ヒョウゲツさん一人で作戦を決行するわけじゃない”
確かにそうだ。この作戦の要がヒョウゲツと俺というだけであって、そこには決してクラスメイトの存在がないわけではない。
全体から見れば微々たるものではあるが、それでもかけがえのない役割をクラスメイトのみんなは持っている。
だから何なのだろう、と一晩なやみ続けて、ふと今日この時までの俺の軌跡が頭に浮かんだ。
ランク上げのために今考えると馬鹿げたスピードでクエストをクリアしたり、冒険者になってワイバーンを倒したり、洗脳されたクラスメイトを助けに教会に潜り込んだり――。
その傍らには、いつもヒョウゲツの姿があった。いつもヒョウゲツは笑っていたり、怒っていたり、悲しんでいたりなんだったりはしていたけど、それでも俺を助けてくれた。
そのことにはもちろん感謝してるし、今思い返せば敵だった俺に、一時的とはいえ、どんな感情を抱いていたとはいえ、よく協力してくれたな、と不思議に思ったりはした。――結局一目惚れだから、っていう理由で収められちゃったけど。
今や、俺は隣にヒョウゲツがいないようなことを考えられないほどに、ヒョウゲツの存在が大きいものになってしまっている。勿論だけど、この世界に居る限りはヒョウゲツは、死が俺たちを分かつまでずっと隣にいてくれるだろう。
「……なるほど。そういうことか」
そして俺は察した。
俺の懐疑の理由は恐怖。万が一、億が一にでもヒョウゲツが隣にいない現実が発生しうるから、俺は作戦に対して信用を寄せることができない。
ヒョウゲツのことだから失敗はしない。そうは考えるけれども、ヒョウゲツの理論に一つでも穴があって、それを突かれるような形で失敗してしまったら。
そんな悪い妄想が、俺を縛っているのだ。
「……あら? どうしたのサトウ、こんなところで」
「………ヒョウゲツ」
「なんだかいつになく弱弱しいわね。どうしたのよ――って、目が真っ赤じゃないのよ!」
……不甲斐ない俺に涙をしていたのを、その言葉で初めて知った。
無様だった。無力だった。
「……何があったかはわからないけれども、私で良かったら話を聞くわよ?」
「ヒョウゲツが……?」
「当然でしょ? 私はサトウの……その、恋人だから」
その言葉に、胸の奥がジン、と滲む感触を覚えた。
同時に、ひょっとしたらヒョウゲツならば、俺の悪い妄想を打ち払ってくれるだけの何かを示してくれるんじゃないんだろうか、と淡い期待を抱いた。
あれだけの作戦を提示したヒョウゲツだ。きっとそれは容易だろう。
「……実は」
そして、俺は打ち明けた。自分の胸中を。
それをヒョウゲツは、ただただ聞いてくれていた。そして、俺の話が終わった直後に、一言だけ。
「一つだけおかしいところがあるわよ」
と、まるで理論に矛盾が発生しているから指摘した、とでも言うように、冷静に、当然の様に言葉を紡いだ。
疑問符を浮かべる俺。そんな俺のほほをヒョウゲツは手のひらで包みながら、太陽のような笑みを浮かべた。
「確かに、私は送還魔法の行使の補助をするわよ? 立案者だから、一番の功労者になるかもしれないわね」
そこまで言って。
「でも、何もそこにいるのは私だけじゃないわ」
「……じゃあ、誰が」
「誰がって、サトウ以外にいないじゃない」
当然である、と言わんばかりの表情で、そう言った。
……俺が?
「私だけじゃ、確かに成功率は九割九分がいいところだと思うわ。でも、サトウが一緒にいてくれれば絶対に失敗しない。私は確信をもってそう言うわ」
「……へ?」
「だって、サトウは私を唯一淘汰し得た存在よ? 世界ナンバーワンと、ナンバーツー、並び立ってできないことがあったら、それこそ死者蘇生くらいじゃないかしら?」
そこまで言ってのけたヒョウゲツは、一回だけ、大きく息を吐きだした。そして、俺を抱きしめながら耳元で、小さく呟く。
「私はサトウを信じてる。サトウとの未来を信じてる。二人が力を合わせれば、出来ないことは何もないって。寧ろできないことなんて、私たちの前からしっぽを巻いて逃げていくって」
だから。
「だから、二人で」
細く、だけど力強く、その言葉は紡がれた。
俺の心に強く響いたその言葉は、天津の”一人で作戦を決行するわけじゃない”という言葉で生まれた不安を振り払い、次いでだと言うように、俺の心の疑念を払ってくれた。
……そうだ。今まで俺たちはどうやって過ごしてきた?
クエストは、二人で協力し合って回数を重ねた。ワイバーンは、二人で競い合って討伐した。教会事件だって、協力して解決へと持って行った。
俺はいつだって一人じゃなくて、ヒョウゲツと一緒だった。
理解していたことのはずなのに、なぜか俺は忘れてしまっていた。
こんな、基本的なことを。
「……ごめん。ごめん――!」
「何に謝っているのかはわからないけれども、とりあえず許すわ」
でも、とヒョウゲツは、俺を更にきつく抱きしめながら、喜色を滲ませてことばをつぶやいた。
「明日も、そしてこれから先も。私が隣にいて、サトウが隣にいるってことを忘れちゃったら、ただじゃ済ませないから」
ヒョウゲツの尻尾が、俺の背中を戒めるように叩いた。
「じゃ、もう原因は解決したわね? 買い物に戻りましょう?」
「……ああ!」
そうして、俺とヒョウゲツは買い物へと戻った。
足取りは軽く、希望のように。




