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鯊太郎のカタカナ語短編集  作者: 鯊太郎
9/21

インセンティブ

 4月1日、今年大学を卒業したての若い社員達がこの会社にも入って来た。会社の門の脇には紅白の桜の木が一対、その花びらを風に散らしている。


 「今度我が営業2課に来ることになった沖田君だ。取り敢えず半年間、皆んなもよろしく頼む」

 近藤係長の言葉に続いて、新人の沖田君が挨拶をする。

 「沖田と言います。まあ取り敢えずは半年間、宜しくお願い致しますよ」

 通常ならば多少違和感を覚える、この「半年間」という区切りをつけた挨拶に、社員の皆も一様に頷く。


 それというのも22世紀に入り、世の中では更に少子化が進んだ。その結果、企業に対する就職希望者の絶対数はほんの僅かで、就職する側にとってみると超売り手市場という就職活動形態が存在するようになった。

 つまり世の中では、このように大学を出たばかりの新人サラリーマン達が、取り敢えず半年間だけ自分が希望する企業に仮入社してみて、就職先を選択するというシステムが構築されてしまったのである。

 会社はこの半年の間、新人歓迎会や社内旅行やらと、様々な手を使ってこの仮新入社員達の引き留めに努めるわけだが、それでも新人達はもっと条件の良い企業を求めて出て行ってしまう。

 つまり、それ程就職者にとってはどの企業からも引き手数多というわけなのである。


 それでもこのシステムが成り立つ理由のひとつとして、「不退社保証制度」というものの存在がある。

 すなわち半年後、この仮入社期間を経て、その会社へといったん入社した後は、おいそれと個人の都合などで簡単には退社できないというシステムである。

 もしそれでも退社しようものならば、その会社に対して多額の賠償金と「判別不適格者」の烙印が押されてしまうことになるのだ。

 つまり、自分で会社の善し悪しを判別できない人間であるという落伍者の証である。

 一度その烙印を押された者は、このような社会の中であっても容易には雇ってもらえない。もし就職できたとしても、その給料は通常の十分の一以下ということになってしまうのである。

 だからこの時も、新人の沖田君は一見横柄な態度を取っているように見えても、それはそんな自分に対しこの会社がどんな態度で反応するのかを見極めるためでもあったのだ。


 そんな中、一人の女性社員が彼に声を掛けて来た。

 「沖田君、2課で経理を担当している芹沢と言います。これから領収書とか溜まったら、私のところに持ってきてね」

 一瞬でその場が明るくなるような声のトーンである。

 他の社員と見比べても、彼女の華やかさは群を抜いている。というよりも、澱んでいるような他の社員とは、到底同じ職場の中に居るとは思えないほどなのである。

 既に経理を担当していると言うことならば、当然彼よりも歳は上と言うことになるわけだが、そんなことを微塵も感じさせない。

 スラッと伸びた脚にくびれたウエスト、化粧は薄いもののピンク色のルージュをさした唇が何ともチャーミングである。しかし極めつけは何と行っても、その吸い込まれそうな黒目がちの瞳であろう。

 沖田君はひと目で、彼女に心を奪われた。

 

 帰り際、沖田君は彼女の机を尋ねる。

 「あのう、芹沢さんは当然彼氏なんかいますよねえ?・・・」

 「・・・・・」

 椅子に座った彼女は、沖田君のことを少し上目がちに見つめる。その困った顔が、また何とも可愛い。

 「現在募集中よ。沖田君も立候補してくれる?・・・」

 少し顔を恥ずかしそうにと赤らめる。

 

 沖田君は足早に会社の門を抜けると、道端で思わずガッツポーズをとる。その拳の上にと、桜の花びらが一片舞い落ちて来た。

 「おっ、ラッキー! 明日から楽しくなりそうだなあ」

 彼は心からそう思った。



 それから半年、沖田君と経理の芹沢さんとの仲は少しずつだが進展しているようにも見えた。

 そうは言っても、もちろん初デートはおろか、まだ手を握ったこともない。

 ある日の昼休み、沖田君は思い切って彼女に告白をした。

 「芹沢さん、どうか僕の彼女になってもらえませんか?・・・」

 彼女はあの時と同じように、仄かにお顔を赤らめる。

 「でも沖田君は、もうすぐこの会社から出て行ってしまうんでしょ?」

 「えっ!・・・」

 沖田君は、明日がその半年目に当たると言うことを思い出した。つまりは明日までに、この会社へと就職するか否かを決めなければならないのである。

 「もちろん僕は君のために・・・」

 「いや、私のために会社に残るなんて言わないで」

 今すぐにでも、こんな彼女を抱きしめたいと思う気持ちをグッとこらえる。

 「明日、またこの時間にこの場所で・・・」

 沖田君はそれだけ言い残すと、早速営業2課へと戻っていった。もちろんそれは、彼の気持ちをこの会社へと伝えるためである。


 次の日の昼休み。

 晴れてこの会社の社員となった沖田君は、勇んで彼女の元を尋ねた。

 その胸には、この会社の真新しい社章が誇らしげに輝いている。

 (これで、僕もこの会社の一員になれたというわけだ!)


 「芹沢さん!・・・」

 ところが、どう見ても三十過ぎの黒縁のメガネをかけた小太りな女性が顔を上げた。何故かいつも彼女が座っていた椅子には、今日は別の女性が座っているのだ。こう言っては失礼だが、とても彼女とは比べようもないような女性である。

 「あのう、昨日までこの席に座っていた芹沢さんという美しい女性は?・・・」

 「ああ彼女? もうこの会社には居ないわよ」

 面倒くさそうに答える。

 「えっ?・・・」

 (もう会社には居ないって、いったいどういうことなんだ?・・・)

 「それにここ、もともとあたしの席だし」

 そう言いながら、その女性は机の引き出しを指さす。そこには『土方花子』というネームプレートが。

 (本当だ、確かに『土方花子』と書いてある。今まで気づきもしなかったな・・・)


 「毎年半年間だけ貸すことになっているのよ、あたしの机」

 今度は、何やら含み笑いをしているように答える。

 「へっ?・・・」

 「彼女、今頃はこの会社からの契約料もらって、後期から始まる違う会社に行ってんじゃない?」

 「契約料?・・・」

 「そう、つまりは貴男みたいに、この会社を受けた仮新入社員を正式社員へと導いた報酬ってことね」

 「はっ?・・・」

 「彼女美人でしょ、だからあちこちの会社から引っ張りだこなのよ」

 「・・・・・」

 「つまりは彼女、会社にとって仮新入社員を引き留めるための最終兵器ってわけね」

 「そ、そんな・・・」


 「まあ、明日からは領収書とか溜まったら、私のところに持って来るのよ。ちゃんと処理してあげるから・・・」

 黒縁のメガネ越しにニタっと笑うと、その女性は僕に掌を広げて見せた・・・



【語彙】

インセンティブ:動機、刺激という意味。

人のやる気を起こさせる、または目的を達成させるための刺激・動機付けとなる事象・事柄などの総称。


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