七山 遠と笹河 桜
三時限目を告げるチャイムが鳴り終わってから、一部の生徒たちは、
教師が来るのを今か今かと待ち構えていた。
ほんの10数センチほど開かれたドアには、チョークの粉をたっぷり吸った黒板消しが挟まっていた。
この学校の国語の教師は温厚とも気弱ともとれる性格で、
あまり生徒に対して強く言えるようなタイプの人間ではない。
それゆえに、こうした馬鹿げた悪戯の標的にもされ易かった。
何も知らずにドアを開けた人間は、
たちまちのうちに上半身を真っ白く染め上げられるだろう。
そして、咳き込み慌てふためきながらも、必死に犯人を捜し始めるに違いない。
そんな様子を、誰もが容易に想像できた。
そしてその時が来るまで、「主犯達」は静かにドアを見つめ待ち構えていた。
しかしドアを開けたのは、国語の教師ではなかった。
かといって、別の教師が間違えて開けたわけでもなかった。
その女子は、これから起こる波乱を前に身を縮めて黙り込んでいる生徒たちを気にも留めない様子で立ち上がり、
すたすたと前の方へと歩いていった。
そして静かに黒板消しを抜き取りドアを閉めると、そのまま黒板の脇へ歩いていった。
ぶおおおん......
という、クリーナー独特の喧しい音が、教室内の妙な沈黙の中で響きだした。
彼女の行動に口を出す生徒はいなかった。
「お楽しみ」を邪魔された一部の生徒達は、彼女に明らかに不満を持ちながらも、
彼女の後姿すらまともに見られず、
「なんだあいつ」と互いに怪訝な顔を見合っていた。
粉を抜き終わり、黒板消しをもとの場所へ置こうとしたところで、
ガラガラとドアが開かれた。
「笹河、とっくにチャイムは鳴り終わってるぞ。席に着きなさい」
「……すみません」
それだけ言って、
彼女-笹河 桜は席に戻った。
そして、教室内は堰を切ったように騒がしくなった。
授業が終わっても、桜へ向けられた畏怖と嘲笑の混じった視線は途切れることはなかった。
桜は席を立ち、後ろのロッカーに向かって歩いていった。
ただそれだけの、何でもない行動のはずなのに、
その瞬間、クラスの多くの人間が一斉に桜に注意を向け始めた。
まるで、これから彼女がロッカーからナイフを取り出し、誰かを殺そうとでもしているようだった。
そんな視線を背中いっぱいに受けながら、桜は小さくため息をついた。
その時、ふと、肌寒い視線の中に混じって、それらとはまた別の眼がこちらを見ている事に気が付いた。
眼の主は、桜から少し離れた席にいた。
暗い群青の髪を伸ばし、左の耳にピアスを開けたその男子は、静かにこちらを見ていた。
桜は人の名前を覚えるのが苦手で、クラスメイトの半分近くは苗字も曖昧だった。
しかし目立つ外見のおかげか、辛うじてその男子の名前は記憶に残っていた。
彼の名前は、確か、……
七山 遠だったはずだ。
遠は、桜と目が合ったことに気付くと、すました顔をして眼をそらし、
腕を枕にして机に突っ伏した。
よく見る光景だったが、その行動に桜は妙な違和感を覚えた。
僅かに首をかしげると、今度はさっきの"黒板消しトラップ"を仕掛けた男子達と目が合った。
彼らは最初の数秒はにやにやと笑っていたが、
徐々に軽く睨むような顔に変わり、程なく桜に背を向けた。
昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴る頃には、3時限目の出来事は桜も含めほとんどの生徒の記憶から消え去っていた。
桜はバッグから赤い布で覆われた小さな弁当箱を取り出した。
中身はおにぎりが2つと卵焼きやトマトなどのちょっとしたおかずだけ。
食べ盛りの学生としてはかなり少ないが、桜としてはこれで充分だった。
おにぎりのラップをちまちまと剥がしていると、両手にビニール袋をぶら下げた少年が教室に入ってくるのが視界の端に映った。
特に考えもなく眼の隅で追っていると、
少年は遠の突っ伏している机の前で止まり、しばらく様子を伺っていた。
そして、すっかり寝入っていた遠の頭をいきなりビニール袋でぼこぼこ叩き、体をゆさぶり始めた。
「かなたかなたかなたーっ!! 昼食べるぞーーっ!!えいえいっ」
「あーもうわかってる…わかってるっ……」
遠はしばらく寝たままの姿勢でビニール袋とボクシングを続けた末に、
両腕をグッと伸ばしその勢いで立ち上がると、
少年と共にのろのろと廊下へ出て行った。
桜は開かれたドアをしばらく眺めた後に、ふと気がついた。
今までは気にしていなかったが、
思えばあの少年は毎日のようにこの教室に来て、遠にちょっかいをかけている。
自分が遠の名前を覚えていたのは、不良のような目立つ外見のせいではなく、
あの少年が毎日こうやって彼の名を呼んでいたからかもしれない。
「……って事があったんだよ」
「へー…すごいねえ、その女の子」
遠は、屋上で遥斗に3時限目に起きた事を話して聞かせていた。
「ああ、びっくりしたね。
ああいう強さってやつは、人として尊敬するよ」
「この歳になってそんなことする男子も男子だけどね…
ところで、その子は何て名前なの?」
遠はパンの袋を破く手を止め、あちこち記憶を探ってみた。
「たしか、笹河…」
微かな記憶から苗字だけは取り出せたが、そこまでだった。
「…なんとか」
「ナントカ?」
「下の名前は知らん」
「ええっ、人として尊敬しておいて?」
「うるせえ、それとこれとは別だ」
遠は遥斗の批判の目を避けるように、パンの袋を破く作業に戻った。
「俺はあいつと話したことは無いし、」
そして、ふと思った。
「―あいつが誰かと話してる所を見たこともない」
「(…木村、久野、小山、」
帰りのHRが終わり、生徒達のはけ始めた教室で、遠は教卓に置いてある座席表を見下ろしていた。
「相賀、佐久間、…笹河)」
目線を少し上げて机の方を見てみると、そこには椅子に座り込み、頭を掻きながらノートとにらみ合っている彼女がいた。
遠は彼女の机の横を通り過ぎ、少しだけ白紙のノートに目を留めてから、教室をあとにした。
彼女がそれに気づいた様子は無かった。
あるいは、気づいたところで彼女にとってはどうでもいいことだったのかもしれない。
「(笹河 桜)」
その名前を頭の中で鈍く反響させながら、遠は遥斗の待つ階段へと歩いていった。
「…………」
桜は、遠が去ってからも真っ白なままのページを眺め続けていた。
鉛筆を指にかけてみたが、特に何を描こうという考えも浮かばず、ただ何もない中空に筆先を滑らせていた。
しばらくそうしているうちに、桜はそんなわけのわからない事をしている自分に無性に苛立ち、
目の前の白紙をグチャグチャに塗りつぶしてやりたいような衝動に駆られた。
桜は両腕に力を込め、見えない何かをぐっと掴むように指を強張らせ、身震いするほどの衝動を抑え込んだ。
「……っはぁ」
桜は絞り出すように息を吐いて、机の引き出しにノートを入れ、鞄に筆箱を放り込んだ。
ガチャガチャと音を立てながら、遠は差し込んだ鍵をぐりんと回した。
「お邪魔しまーっす!!」
「たーだいまっと」
そう言ってドアを開けた二人に返事をする者はいなかった。
そう言ってドアを開けた2人を出迎える言葉はなかったが、いつもの事だった。そもそも、この家には遠以外の人間は住んでいないからだ。
遠は幼い頃に両親をなくし、以来ある組織に拾われ「ある仕事」をしながら生計を立てている。遥斗も概ね同様で、2人は時たまお互いの家に訪れては、それぞれの手伝いをして過ごしていた。
具体的に何を手伝うかといえば、
例えば買い物の付き合いだったり、
例えば風呂洗いや洗濯などの家事だったり、
「………っぐあーーー!!!あと5だったのに!!」
「いやぁー、ちょっと引きが悪かったねぇ…」
…たとえば暇潰し(ゲーム)のお供だったり。
「くそー…これで47回目だぞ」
コントローラをクッションの上に投げ置きながら、遠は少しヤケ気味にこぼした。
「半分まで削るとどうしても気抜けちゃうよねー… あ」
遥斗も背後に手をつき、呻きながら軽くのけぞった。
その拍子に、壁に掛けてある時計が逆さに目に入った。
「もう5時半かぁ」
それを聞いた遠は頭を掻く手を止めて、「やっべ」と呟いた。
「くそぅ、急いで夕飯作んなきゃだ…だるいぞちくしょう……」
6面のボス戦で消耗した身体に鞭打ち、なんとか立とうともがき、腕立て伏せの出来損ないのような動作を繰り返していた。
見かねた遥斗が、
「うーん、遠も疲れてることだし…… ここはひとつ、遥斗ママがご飯を作ってあげちゃおっかなー?」
と提案すると、
「いや、いい」
「えっ………!!」
一瞬で否定された。
途端にすいっと立ち上がり、キッチンへ向かい始める遠の後を、遥斗は戸惑いながら追いかけた。
「え、な、なんでよー?疲れてるんでしょ?ゆっくり休んでてくれてもいいんだよ?」
そう言いながらペンギンのように上半身を揺すっている遥斗に、遠は振り向いて一言。
「だってお前料理できないじゃん」
ぐさぁっ!!
「え、な、なん、そん、な、こと」
「どうせアレだろ、お前今でも俺がいない時はハンバーガーとホットチョコレートで朝昼晩済ませてるんだろ」
ぐさぐさぁっ!!!
「そ、そそそんなことないし!簡単なやつなら作れるようになったし!!」
「……カレーの作り方は」
「わかるよ!!
…えーと、まず鍋に水を入れる」
「ほう」
「で、そこにカレーを入れる」
「…袋は?」
「入れたまま!」
「やっぱ俺が作る」
「わーーーっ!嘘!冗談!冗談です!!ちゃんと知ってますから!!」
ーその後20分に渡る必死の説得の結果、結局、夕飯カレーは遥斗が作ることになった。
その翌日、遠は謎の腹痛を訴え学校を休んだ。
遥斗は何事もなく登校してきたが、その日は一日中落ち着かない様子で教室を歩き回り、しきりに「やっぱマズかったかな」などと呟いていたという。
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2年4組で行われる席替えは、
生徒達が好きな席を自由に決められる方式だった。
その日も生徒達はこぞって後ろの方の席を奪い合い、彼方此方でじゃんけんやら話し合いやらが勃発していた。
その喧騒の中で唯一、ある場所だけが、廃墟のように静けさを保っていた。
ひとつ、またひとつと座席表が埋まって行く中、不自然に空いた穴がある。「何故そこを避けるのか」と聞けばきっと、皆口を揃えて「わざわざそこを選ぶ理由が無いから」と答えるだろう。実際、数ある席の中から、笹河 桜の隣をわざわざ選んで座る理由を持っている生徒は一人もいなかった。
結局、その穴は最後まで埋まらず、
今日たまたま腹痛で休んでいた男子生徒がそこへあてがわれる事になった。
「あっ遠!大丈夫だった!?」
「…遥斗……」
翌日、片手で腹を抑えながら階段を上ってきた遠を発見した遥斗は、主人を見つけた犬のように真っ先に飛んでいった。
「…遥斗、俺の休んだ理由が分かるか」
「えっ」
遠の言葉を聞いた途端、遥斗の足がぴたりと止まった。
「え、えーと」
「俺の休んだ理由が分かるな?」
ほんの少し語気を強め、遠が詰め寄る。
「…やっぱり豚肉?」
「あーたーりーだ、この野郎!!
あーれだけ言ったのに、ちゃんと火ぃ通さないから俺はこんな目に遭ったんだ!」
「わーーっ!!ごめんっ!ごめんなさーいっ!!」
遥斗に一通り怒りをぶつけて落ち着いてから、遠は教室へ向かっていった。
「よお、七山!」
昨日まで遠が座っていた席には、既に先客がいた。
「……そこってお前の席だったっけ?」
「は? あ、あー、そうか、お前昨日休んだのか… 席替えしたんだよ」
「ああ、そういうことか…
今の俺の席わかる?」
そう聞かれた男子生徒は少し辺りを見回し、やがてある一点に目を止めると、少し苦々しい顔で遠に目配せをした。
遠がその方向を見てみると、そこには、虫を睨むような目つきでノートに向かっている笹河 桜の姿があった。
「…笹河の隣?」
その言葉に、男子生徒は気まずそうに頷いた。そして、「最後まで空いてたから」とか「お前が休んだのも悪い」といった弁明をはじめたあたりで、遠はようやく事情を察知した。
「(…なーるほどね、厄介払いってやつか)」
遠が自分の席にどっかりと座り込むと同時に、ホームルーム開始のチャイムが鳴り響いた。
思い思いの騒がしさの中で、七山 遠はいつも通りに机に突っ伏し、寝息を立てていた。
HR終わりのチャイムに反応し、ありったけの力を眉間に込めて薄目を開けた遠は、ちょうどこちらを見ていた桜と目が合った。
遠はたまたまだと思い、滑るように目を逸らした。
相手の方も同じようにしたが、しばらくして
またちらちらと視線を感じ、もう一度振り向いてみると、今度はきまりが悪そうに少し下を向いた。
「…何?」
呟くとも問い詰めるともとれる言葉を受けた桜は少しだけ視線を外しながら、
「ピアス付けてるんだ、と思って」
と呟いた。
「…あー、」
遠は左耳にかかった髪を指でくるくる巻きながら、目を泳がせた。
「左側だけだよ。別に校則違反じゃあないだろ」
「そうだけど…」
そこまで言うと、桜は遠の耳と顔を交互に眺めた。
「…何でもない」
そして、見限るような表情で机に向き直った。
遠はしばらく納得のいかない顔をしていたが、やがて元のように机にうずくまった。
その日2人はそれっきり、言葉を交わすことは無かった。
次の日、桜はいつものように、校門が開くと同時に校舎に入り、静かな教室で一人、白紙のノートとにらみ合っていた。
紙の端に芯の出ていないシャーペンを立て、
小さく円を描く様に滑らせる。
右往左往するペン先を見つめながら、桜は軽く頭を振った。
そうすることで、不思議と思考がすっきりとしてくるような気がした。
カチカチとシャーペンの芯を伸ばし、桜は再びノートに向かった。
しばらくして、教室のドアを開く音が、その中に人などいないかのように遠慮なく響いた。
入ってきたのは、遠だった。
机の上に重そうなバッグをどん、と横に置き、それを枕にして寝ようとしていた遠は、またもこちらの行動を眺めている視線があることに気づいた。
遠が何か言う前に、今度は桜の方から口を開いた。
「今日はピアスしてないんだ」
「…ああ、教師にバレて色々言われたくないからな」
そう言って、遠は左の耳をくりくりと揉んだ。
「…ごめん」
「は?何が」
唐突な謝罪に、遠は思わず振り向く。
その先には、下を向き、どこへ行っていいのかわからないというような様子の桜がいる。
「違反でもないのに、文句みたいなこと言って」
「 別にいいよ。お前は正しくて、俺が変なのは、間違ってない」
「…ごめん」
「……」
遠は鼻でため息をつくと、いつも通りにバッグを枕にしてすうすうと寝息を立てはじめた。
「もーっ、かなた!早めに出たならそう言ってよ!待っちゃったじゃん!!」
「悪い、言い忘れた」
昼休みの屋上で、遠は遥斗の抗議を甘んじて受けていた。
いつもは二人で合流してから登校するのだが、今日はいつまで経っても表れない遠を待ち続けたせいで、遥斗は一時限目をごっそりと切る羽目になったのだ。
「…怒ってる?」
「は?」
今までぷりぷりしていた遥斗の声のトーンが、突然落ちた。
「いや、一昨日のこと、まだ根に持ってるのかなって…」
「ああ、生焼け肉?別に気にしてねえよ」
「…そっか、ならよかったんだけど…」
遥斗は、「ならなんで先に行っちゃったの?」とは聞けなかった。
教室に戻った遠は、次の授業の準備を済ませると、自分の机へと歩いて行った。
手持ち無沙汰になった遠は、しばらく時計を眺めていた。そのうちに秒針を追うのが苦痛になり、なんとなく、桜の方へと目を向けた。
自分へ向けられた気配を感じた桜は、ペンを動かしていた手を止め、ノートをぱたりと閉じたが、遠の方を向き話し掛けてはこなかった。
「勉強?」
「暇つぶし」
遠の問いに、桜は振り向きもせず答えた。
「暇してるのか」
「…」
今度は、答えは返ってこなかった。
しばらくしてチャイムが鳴り、5限目の授業が始まると、桜は閉じたノートをカバンの奥深くへと埋め込み、別のノートを引っ張り出した。
「ごめん遠、今日用事あるから、先に帰るね」
「おう、またな」
遠は申し訳なさそうに手を振る遥斗を見送ると、右手に持っていた箒をくるくると回しながら、ロッカーの方へと歩いて行った。
同じタイミングで塵取りをしまっていた桜は、何も言わず遠から箒を受け取ると、それも一緒にロッカーの中へ掛けた。
教室掃除の当番はもちろん2人だけではない。
遠達の学校では、36席を6つの班に分け、一週間ごとに班をローテーションして掃除当番を割り振る仕組みである以上、本来は6人が参加しているはずである。
しかし、帰りのHRのあとで、しかも教師の見張りも無しに、律儀に掃除などをする生徒はそういなかった。
「あいつらに「残れ」って言わなくてよかったのか?」
遠はバッグに教科書とジャージを詰めながら桜に問いかけた。
「言ってもどうせ聞かないし、無理やりやらせても真面目にするわけない」
桜は一冊のノートとペンを机に残し、他の教科書を丁寧にバッグに差し込みながら答えた。
「まあ、確かにな」
遠は自分の周りの席の顔ぶれを思い返した。確かに、学校や教師に媚びるような人物は思い当たらなかった。
「だから最初から、1人でやることにしてる。その方が早いし」
「…邪魔だったか」
「そういうわけじゃないけど…」
桜は遠の方を向き訂正しようとしたが、簡潔に伝える言葉が見つからず、言いあぐねているうちに、結局次の言葉を切り出すタイミングを見失ってしまった。
しかし、諦めと罪悪感の混じった気持ちで遠の方を掠め見ると、遠はまだ話の続きを待つように、こちらをじっと見つめていた。
桜はもう一度、言葉を探し始めた。
「…ごめん、強がった。本当はみんなに残れって言う勇気が無いだけ。…七山が残ってくれて、ほっとしてる。」
「そうかい」
桜の言葉を聞き終えた遠は、それでもまだその場から動かず、桜の目の奥を見ていた。
そして、心の中で頷き、再び口を開いた。
「やっぱりお前は強いよ」
「…バカにしてる?」
「バカにしてるように聞こえるか?」
「……ありがと」
桜は少し悩んでから言葉を返し、呆れたように視線をそっぽに向けた。
1度目をつけられた獲物は、そう簡単に獲物の枠から外れることは無い。
気の弱そうな国語教師も例に漏れず、一部生徒たちの毎週の「暇つぶし」相手としての地位を確固たるものにしていた。
白やピンクのチョークを黒板に突き立て、グリグリと意図のない線を引いては、その上から黒板消しを押し付け、その粉を吸わせていく。
しばらくすると、落ち着いた藍色だった布は、すっかり桃色混じりの白に染まってしまった。
そして、チャイムが鳴ると同時にそれを教壇側のドアに挟み込み、急いで席へ戻っていった。
その一部始終を「懲りないな」と思って眺めていたのは、笹川桜だ。
しかし、そうは思いながらも、桜はニ度もそれを邪魔しようとは思わなかった。
一度止めても聞かないなら、何度やったところで同じことだ。
桜は見て見ぬ振りをした。自分にできることは、もう全部やったのだから。
ガラ、と音を立ててドアが開いた。
桜はこれから起こることを予期し、反射的に目を閉じた。
「ぶっ」
聞こえてきたのは、くたびれた中年の悲鳴ではなく、つい最近にも聞き覚えのある声だった。
「あーっ!
おい七山ぁ、何してんだよ!」
男子生徒の、呆れと笑いの入り混じった声が響く。
「こっちのセリフだてめえ!髪ギシギシになっちまったじゃねぇか!!」
遠が自分の頭をべしべしと払いながら、男子生徒に抗議を仕掛けた。
男子生徒が笑いながら「悪かったって」と言うのとほぼ同時に、再びドアの開く音がした。
「何してるんだ七山、授業始まってるぞ」
「………うい」
教師から見えないように顔を逸らし、口と手の動きで「覚えてろよ」と伝える遠を見て、他の数人の生徒と共に、桜も思わず笑ってしまった。
遠は席に着くなり「はあ」とため息をつくと、背中を大振りに曲げながらバッグに手を突っ込み、ノートと教科書を取り出した。
机の上に顔を半分戻すと、ぽん、と頭に何かが触れる感覚がした。
「まだ粉付いてる」
そう囁きながら、声の主は遠の頭を軽く払い、髪の先に残っている赤と白の混じった粉を揉み取った。
「さんきゅ」
遠は目だけで桜の方を見ながら、礼を言った。
返事は返ってこなかった。
「…そういえば、昨日言ってた子の名前、わかったの?」
屋上の縁に腰かけ、昼食のパンが入ったビニール袋を緑色の地面に置きながら、遥斗が口を開いた。
「ん?ああ。出席簿見たらわかった」
遠は地べたに座り、缶コーヒーの蓋に爪を掛けながら答えた。
「ふーん…それはよかったねえ」
遥斗は遠の言葉を聞きながら買ったばかりのパンの袋の端を切ろうとしていたが、なかなか切れず、自分の八重歯の鋭さを頼みにしようとしているところだった。
「貸してみろ」
遠は浅く歯型のついた袋を取り、上下のビニールをそれぞれ両手で摘んで一息に引っ張ると、込めた力の強さにはあまり見合わない小さな音を立てて勢い良く開いた。
「ほら」
「おおっ、ありがとー!」
遥斗は両手でそれを受け取ると、遠に向かってにっと笑いかけた。
「そういえばさ、この前中古で買ってすごい面白かったやつ、なんだっけ」
「『シュガースクリーム』の事か?」
「あーーっ、そうだ、それ! それの続編がもうすぐ出るらしいんだよね」
「へえー、マジか。また割り勘して買うか……」
5分前のチャイムが鳴り、遠が教室に戻ると、隣の席に桜はいなかった。
軽く辺りを見回してみたが、彼女の姿は見つからない。
遠は特に深く考えることもなく昼寝に伏したが、桜は5限目の授業が始まっても戻ってくることは無かった。
「あれ、笹河は?」と教師が問いかけたが、答えられる生徒は誰もおらず、女子の誰かが
「保健室」と小さく呟くと、その場にいる多くの人がその言葉になるほどと同調し、流れていった。
結局、授業が終わっても桜が帰ってくることはなかった。
帰りのホームルームの時間になっても、遠の隣の席は空いたままで、担任も特に何も言及しないまま連絡を始めた。
「かなたーーーっ!帰ろっ!」
「おう」
いつものように教室の出口で待っていた遥斗と合流し、二人は階段を下りて行った。
しかし、遠は、玄関までもう少しという所で、足を止めた。
「ん?どうしたの、遠」
「……」
遠の視線を止めた先には、『保健室』の札が掛かっていた。
「…遥斗、悪い」
「え?」
「ちょっと教室に戻ってくる」
「忘れ物?待ってるよ」
「いや、ちょっと違う。先に帰っててくれ」
「? わかった……」
「やっぱり、まだいたか」
遠が保健室に入った時には、桜はベッドの縁に座っていた。
「…どうしたの、七山」
「バッグ持ってきた。机の中に入ってたのはそのままにしてあるけど」
「あ……ありがとう」
遠は、少し戸惑いながらバッグを受け取った桜を見ながら、普段は保険医の先生が使っている椅子に腰かけた。
「ごめんね、手間かけさせて」
「別にいいよ」
桜は受け取ったバッグを床に置き、上体をベッドの上に軽く投げ出した。
「…どっか悪いのか」
遠は、机の上にあった体温計でペン回しをしながら聞いた。
「そうじゃなくて…たぶん、単なる寝不足」
「…寝不足?」
「なんか最近寝付けなくて。部屋にいても落ち着かないというか」
桜は擦り合わせている自分の両指を眺めながら言葉を続けるが、遠がいつからかこちらの顔をじっと見つめていることには気がつかなかった。
「…なんだろうね、その時寝ちゃったら、寝てる間に日が昇って、
起きたらもう朝で、ああ学校に行かなくちゃーとか、着替えなくちゃとか、忙しくなるんだなって思うと、なんだか寝るのがもったいなくなっちゃって…」
桜はそこまで言ってから顔を上げ、遠が自分のことを見ていたことにようやく気がついた。
独り言を話しているような気持ちでいた桜はなんとなく気恥ずかしくなり、遠から目を背けようとしたが、そうするより早く遠の口が開いた。
「学校行くの、嫌なのか」
「え…」
桜は、すぐには答えられなかった。
答えは出ていたが、それが口に着くのを躊躇った。
きっと七山は、自分がわざわざ言わなくとも、答えをおおよそ知っている。
知っている上で、あえて本人の口から聞く事で、答え合せをして楽しんだり、バカにしたいのかもしれない。
…なんだか遊ばれているみたいで嫌だな。
それなら、やっぱり言わずにおこう。
……でも、実際に口に出してみたら、それはそれですっきりするのかも。
…きっとするんだろうな。
言ってみようかな。
でもなんかいざ言おうとすると難しいな。
本当に今言うべき事かとか、いろいろ考えちゃうな。
やっぱりやめようかな。
…でも、一回言おうとしたせいで、言葉がもう胸まで登ってきてる。なんだか喉がムズムズする。
…言っちゃおうかな。
言いたいな。
一回くらい。
笑われたって…まあ、あんまりよくないけど、それはその時に考えよう。
知らず泳がせていた視線を戻すと、遠は、変わらずこちらを見ていた。
桜は上体を起こして、口を開いた。
「学校…」
息を吸った。
そしてゆっくりと吐いた。
「…正直、けっこう面倒くさいかな」
「………」
「………」
「……………」
「………っふふっ」
笑い出したのは、桜だった。
睨めっこに負けたような、少しの悔しさと心からの可笑しさが入り混じった表情で、桜は笑い出した。
気がつくと、遠も笑っていた。上がる口角を抑えようとしても自然と持ち上がってしまうというような、控えめだが楽しそうな笑い方だった。
「ちょっとお、何笑ってんの」
「いや、なんか…面白くて」
「もう…… ふふふっ」
桜が家に帰ってきたのは、夕暮れももうすぐ沈もうかというくらいの時間だった。
親に「ただいま」とだけ言って、桜はさっさと自分の部屋に歩いていき、ドアを閉めると、電気もつけずにベッドの上に仰向けに倒れこんだ。
沈みかけた日の他に明かりのない桜の部屋は、薄暗く、静かだった。
そんな中でじっと横になっていると、不思議と気分が落ち着いた。
帰ってからやるべき事は多くあったが、今日はいつもより身体が重い。
5限に出ていない分いつもよりは元気なはずなのに、どうしたことだろう。
この部屋から出るのも、身体を持ち上げることすらも、とにかく面倒だ。
少しだけ、休もう。少しだけ。
ゆっくりと息をついていると、手足の感覚が徐々に薄まり、薄暗がりに溶けていくような感じがした。
その感じは指先から徐々に胴体に向けて昇っていき、最後には胸を残して、身体のほぼ全体の感覚が溶け消えていった。
「(ああ、このままだと、
眠っちゃうなあ。)」
桜が遠に語った寝不足の理由は、概ね本心から出た言葉だった。
しかし、語った理由の他にもう1つ、桜にとって明確な理由があった。
誰に言っても解決などするはずがなく、また真面目に取りあう人も恐らくいない明確な理由。
「(ーー夢が怖いなんて、人に言ってもしょうがないけど)」
気がつくと、桜は見慣れた教室にいた。
桜の他には誰もいない教室には、中心に1セットの机と椅子があるだけで、他の机はなかった。
桜は何の疑いもなくその椅子に座ると、いつものようにバッグからノートを取り出した。
何も書いていない、罫線も引かれていないまっさらなノート。
桜は、そういうまっさらなノートに落書きををするのが趣味だった。
ノートを開き、何も書かれていない1ページ目が現れる。桜は筆箱を取り出し、2.3本あるシャーペンのうち一本を引き抜いた。
シャーペンのお尻をカチカチと押し込み、顔を出した芯の先をノートの上にそっと乗せる。
桜の手が止まった。
桜の身に、特に何かあったわけでは無かったが、止まった。
自分の他に誰もいないこの空間のどこかから、笑い声が聞こえるような気がした。
甲高い笑い声、ひそひそとした笑い声。
諸々あったが、何で笑っているのかまではわからない。
もしかしたら、その笑い声は幻のもので、実際はそんな音など存在しないのかもしれない。何しろ、この教室にいるのは自分一人なのだから。
ただ、
なんとなく、この教室は、居心地が悪かった。
これという理由もなく、ただ漠然と、居心地が悪かった。
そんな空間に、桜はたった一人で座っていた。
じっと座っているうちに、笑い声だけでなく、今度は視線まで感じるようになってきた。視線の主を視界に捉えたわけではないが、それでも確かに感じるほどの強く刺すようなものだった。
視線の主を確かめようと一瞬顔を上げかけたが、主を本当に見つけてしまって目が合うのも嫌なのですぐに伏せた。
たった一人でいながら、桜は身動きが取れなかった。
雑音交じりの沈黙に阻まれて、その場から動くことも、周りを見渡すこともできなかった。
こんな状態が何時間、何日続くのだろう。
ふと、そんな疑問が桜の中に芽生える。
それは存在を認めたその瞬間からむくむくと育ち、まるで蔦のように桜の胸に絡みつき、
気道を、喉を、肺を締め付けてくる。
桜は思わずシャーペンを取り落とし、胸を押さえた。
何日も換気をしていない部屋のような息苦しさが徐々に強くなり、鼓動が早まる。
ざわざわざわざわ、どくどくどくどくどく
鼓動は一層強さと速さを増し、留まるところを知らない。
いつしか、笑い声も遠のき、視線よりもなお強く、桜の頭には鼓動だけが地鳴りのように響いていた。
鼓動の震えは脳にまで達するような感覚で、桜の視界をぐらりと歪ませ、明滅させた。
ちかちかとした世界の中に、桜は一瞬、怪物の姿を見たような気がした。
ストロボのコマ送りのようになった視界の端に、数コマだけその怪物は映った。
それは徐々に増えていき、気づいた時にはすでに桜の周りを取り囲んでいた。
一ツ目の、夕焼けに引き延ばされた人影のような、どこか歪な怪物。
それらは瞬きの度に増殖し、桜を包み込む黒いドームを形成しつつある。
桜は直感で悟った。
これに完全に包まれたら、自分は終わりだ。
悟っていながら、桜はその席を立つことができなかった。
大きすぎる鼓動から来る耳鳴りのせいか、それとも明滅する視界のせいか。
どちらにしろ、桜は動けなかった。
桜は、広げていた白紙のノートを、静かに閉じた。
怪物は、突然ぴたりと動きを止めた。
笑い声も唐突に止み、鼓動の音だけが残された。
桜は、鼓動に混じって、遠くから足音が近づいてくる事に気が付いた。
その足音は小さく、何の変哲もない、ぺたぺたとしたものだったが、桜はまるで自分の名を呼ばれた時のようにハッキリと、その音を聞き取ることができた。
足音は教室の前で止まった。
と同時に、前のドアがガラガラと開いた。
「やっぱりここにいたのか」
「…え?」
入ってきたのは、七山 遠だった。
傘を片手に持ち、私服というにはどこか堅苦しい印象を受けるコートを着て、遠は教室に入ってきた。
「夢の中でも学校か。真面目だな」
「…やっぱり、ここは私の夢の中なの?」
「そうだ」
「じゃあ、なんで七山はここにいるの?」
「お前を助けるため」
「助けるって、何から」
「この悪い夢から」
――『「夢」から助ける』なんて、ずいぶん曖昧で、よくわからない言葉だな、と桜は思った。
しかし遠は、そんな曖昧でよくわからない言葉を、まるで決まりきっている答えであるかのように、まっすぐに、桜にぶつけてきた。
だから桜は、「無理に決まってる」とか、「何言ってるの」とは言わずに、聞いてみた。
「信じていいの?」
返ってきた答えは単純だった。
「信じるだけでいい」
桜は、その言葉に従うことにした。
「目ぇ閉じてろ」
桜が目を閉じた瞬間、瞼の向こうから強烈な光を感じた。
同時に、大砲でも撃ったかのような、凄まじい轟音が鼓膜を震わせた。
思わず目を開けると、桜の視界を覆いかけていた怪物のドームに、巨人に引きちぎられたかのような、大きな穴ができていた。
「出てきな」
桜は机の上を通り、ドームの外へ出ながら、後ろを振り返った。
影の怪物は声にならない悲鳴をあげながらのたうち回っている。
「こいつは…何なの?」
「人の心の傷に住み着いて広げようとする怪物だ。こいつを倒せば嫌な夢も見なくて済むようになる」
「倒せるの?」
「そのために来た」
遠は、元の形状を取り戻そうともがいている影の怪物に向き直ると、左手に持っている傘の先端を上に向けた。
そして、風を裂くような音を鳴らしながら、斜めに振り下ろした。
傘は、鈍い光に包まれたかと思うと、次の瞬間、巨大な銃に姿を変えた。
「なあ、笹河」
遠は、呆気に取られていた桜に声をかけた。
桜はハッとして、影の怪物に注意を向けつつ答えた。
「何?」
「こいつ、どのくらい強いと思う?」
遠は、銃の先で怪物を指し、問いかけた。
桜は、改めて、空けられた穴をほぼ塞ぎ終えた「影の怪物」の姿をじっと見てみた。
細長い人体のようなシルエットで、人間であれば頭の部分に目玉が一つ付いている。
真黒な全身は、よく見ると、影というよりは、黒い布を全身に纏わせているような質感だ。
手にも足にも指のようなものは無く、また関節も存在しないかのように常にくねくねとのたうち回っている。
桜が怪物の目を見ようとすると、怪物の目は桜の視線から逃げるようにして身体中を動き回り、最後には背中の方へ行ってしまった。
改めて見たその姿は、なんだか、
――「…あんまり、強くなさそうだね」
「だよな」
遠は、「あんまり強くなさそうな怪物」の頭に銃口を向け、軽く引き金を引いた。
「七山、すごいね」
「ん?何が」
二人は、怪物もろとも吹き飛ばされ、半壊してしまった教室を出て、廊下を歩いていた。
「私、あの…怪物? に、小6くらいの時から悩まされてたの」
「……」
遠は、俯いている桜の隣を歩きながら、黙って聞いていた。
「それを、あんな簡単に倒しちゃって。私なんかより全然強いじゃん」
「違う」
「え?」
桜は顔を上げ、ふいに話し始めた遠の顔を見た。
「俺があいつを簡単に倒せたのは、笹河が『俺が勝つ』って信じ切ってたからだよ」
「……『信じるだけでいい』って言ったのは七山でしょ」
そう言って、桜は怪訝な顔をした。
「それが大事なんだ。もし笹河が『七山じゃ勝てない』って思ってたら、あいつはもっと手強くなってたし、下手したら勝てなかった。
あいつはそういう存在なんだ」
「ふうん…」
桜はあまり納得がいっていない様子で、怪訝な顔を続けていたが、やがて口を開いた。
「あの怪物は、心の傷に住み着くんだっけ」
「そうだな」
「……がっかりした?」
遠が怪訝な顔をする番だった。
「…何が?」
「私のこと『強い』って言ってたから。
心に傷を持ってるような弱い人間で、ちょっとがっかりしたかなって」
そういって、桜は少し笑った。楽しそうとも悲しそうともとれる微笑みだった。
遠は、桜から一瞬顔を逸らし、「はあ」と息を吐いてから、再び向き直した。
桜が何か言いかけたが、遠は構わなかった。
「俺はお前にがっかりなんてしてない。」
桜は、遠がそれ以上の事を言うつもりはないのだと悟った。
しかし、その言葉だけで十分に伝わった。
だから、桜は答えた。
「…ありがと」
―――「あっ」
廊下の途中で、桜は急に立ち止まった。
「どうした?」
「バッグ、教室に置いてきちゃった」
真剣な顔で呟く桜を見て、遠は思わず笑ってしまった。
きっと睨みつけてくる桜に、遠も少し真面目な顔になって言葉を返した。
「大丈夫だよ、夢なんだから。実物は家にあるだろ」
「……あ」
ぽかんとした桜の表情を見て、遠はまた笑ってしまった。
―――――――
翌日、桜が教室に入ると、そこにはいつになくだらしない姿勢で寝息を立てている遠だけがいた。
桜は遠の安眠を妨げないように、少しだけ机を離し、昨日机の中に置き忘れた白紙ノートを取り出した。
しかし1ページ目を開いた瞬間、桜は思わず「ひゃあっ!!!」と悲鳴をあげた。
そのページの端には、消しゴムほどの小さなサイズではあるが、なんとも厳めしく、禍々しい髑髏が落書きされていた。
誰のいたずらかと思い辺りを見回してみるが、周りには遠しかいない。
すると、桜の悲鳴で目を覚ましたらしい遠が、ノートを見て一言呟いた。
「ああ、それやったの俺だ。
――いてっ!?」
「このバカっ!びっくりさせないでよ!!」
「いてっ…ごめんって…悪かった…てててっ」
遠は、半分寝ぼけたまま、桜の鉄拳を受け流したり流し損ねたりしながら、ひたすらに謝った。
「まったくもう…… あっ」
ひとしきり制裁を加え終わり、ノートに向き直った桜は、ふと思い出して遠の方を見た。
「七山、そういえば」
遠はブレザーを自分の頭に被せ、寝息を立て始めたところだった。
「……(まあいっか)」
桜は心の中で呟いて、シャーペンを取った。
「(『夢に遠が出てきた』なんて言っても、だから何って感じになるしね)」
第3話・おわり