第二章 妖王の朝
6月7日 午前5時09分 鳳屋敷
鳥が囀りを始めだす頃、その男は目を覚ました。
「……ふむ、どうやらもう時間か」
無愛想面の男は布団から起き上がり、背筋を伸ばして深呼吸をする。
部屋の中はかなりの殺風景であり、時刻を告げる物は一つとして無い。それでも大凡の時間を把握しているのは、これが日々の習慣である故だろう。
「……外は雨か」
男は気怠そうに立ち上がると、障子を開けて縁側を歩く。そこから見える景色は小雨の所為もあって、まだ少しの暗闇と寒気を保っていた。
居間の前へと辿り着くと、割烹着を纏った若い顔立ちの女性が微笑みながら立ち迎えていた。
「おはようございます。朝餉の用意が整っておりますよ」
「ああ」
男はその女性に軽く返事をして、居間の中へと足を踏み入れる。
「ほう。流石、時雨だ」
部屋の中心に置かれた漆仕立ての黒い食卓の上には日々変わらず、白い湯気を浮かべている味噌汁を始め、煮物、焼き魚、新香――朝から豪勢な和食が並んでいた。と言うのも、男は和食しか受け付けない質である。
男は食卓の前にどっかりと腰を降ろす。同時に、先程の時雨と呼ばれた女性が手際良く米櫃の中から丁寧に白飯をよそい始めた。
「飯量はいつも通りで宜しいですか?」
「ああ」
男は米の盛った碗を受け取ると、もう片方の手でテレビのリモコンを押す。
「雅俊様。食事時にテレビを見るのは行儀に反します。そもそも……」
「貴様は己の祖母か?」
時雨は延々と説教と垂れ出していた。現代ではその様な習慣は既に淘汰されているのだが、思想がかなり古臭い為、雅俊にとっては年寄りの小言同然であった。
「あら? この場所はもしかして……」
突如、時雨は説教を止め、今しがた自身で否定をしたにも関わらず、テレビに対して意識を傾ける。
「……こいつは」
雅俊はあまりの呆れに文句を言う気も失せ、同様に視線を移した。するとそこには大勢の人間と共に、鳳凰学園の正門が映し出されていた。
「――今朝未明。某県紫苑市内の三ヵ所で三人の遺体が発見されました」
それはまさしく殺人事件の報道であった。
「これらの遺体には大量の血液が不足しており――。尚、その被害者の一人は、市内の学園に通う十五歳の女子生徒だとの事です」
映像が画質の一段と劣ったものに切り替わる。そこでは壮年女性が声を張り上げて「まゆぅぅぅっー!」と叫び泣いていた。
「ふむ。昨夜の犠牲者か。どうせなら、傀儡化した方が、死体も残らず良かったろうに」
「生徒の遺体を処理なさらなかったのですか?」
「ふん、己が直接手を掛けたのならばそうしているが、生憎、此の件は部外者だからな。それにしてもこの一月で、急激に周りをうろつく下種共が増えたな」
「はい、恐らくは闇の王族が介入しているのでしょう」
前妖王を失い、没落の道を辿った一族にとって現妖王討伐は最重要事項だが、今日《こんにち》のヴァンパイアでは雅俊は勿論、時雨一人の相手ですら務まらない。過去の妖勢力というのは実質上、妖王であった不死帝一人の存在によって成り立っていたと言っても過言では無いからである。それ程までにその力は凄まじかった。
『再生』の性質。ヴァンパイア種――特にヴァンパイアロードは他種を凌駕する治癒能力が備わっているが、一定のダメージを与えてしまえば奴等であろうと消滅はする。しかし、稀に能力に特殊変異を起こす者が存在する。その一人が不死帝であった。
彼者に生者必滅の理論は存在しなかった。例え木っ端微塵に吹き飛ばされようが、首を刎ねられようが、生存の意志がある限り肉体は幾度と無く再生を起こす。それ故に、周りからは畏怖の念を込めて『不死帝』と呼称されていた。
「くだらん。奴がいない今、無駄な足掻きだ」
雅俊はさっさと飯を平らげ、職務に勤しむ為の支度を整えると、玄関まで移動する。
「もう、行ってしまわれるのですか? 事後処理は代理に任せるのでは?」
背後から時雨の問う声。雅俊は素顔を易々と曝せないので、緊急時の対応は全て学園長に一任している。つまり、わざわざ時間を遵守して記者会見に臨む必要も無い。
けれども雅俊は時雨の方には振り向かず、そのままに答えを返した。
「――ああ。響希が時間に五月蠅いのでな」