第二章 少女の朝
6月8日 午前4時30分 イギリス ハワード邸
その少女の一日は、機械の鶏が鳴く所から始まる。
「……ん」
少女は寝返りを打ちながら、堕落気味に手探りで鶏冠のスイッチをオフにする。時間は朝の四時半。一般の学生ならまだ夢の世界に滞在している時間だろうが、少女はその身分に当てはまらない。
「ふぁ……ううん」
欠伸をしながら小さな両手で目を擦る。本当はもう少し寝たいと思ってはいても、そうはいかない。名家出身の母親が時間にとても厳格であるからだ。
「うん……。まだ眠いけど、ママが怖いし……」
少女はベットから渋々と身体を起こし、その場でパジャマと下着を脱ぐと、備え付けのシャワー室へと向かった。
朝のシャワー室は年中構わず冷えている。シャワーの蛇口を捻ると、まだ暖まりきれていない水が足先を濡らし、少女を思わず驚跳させる。だが、ほんの数秒後にはすぐに暖かいお湯が出てきて、眠気を全て洗い流した。
シャワーを浴び終えた少女は、外壁に備え掛けていたバスタオルで身体を拭い、制服へと着替え始める。しかしそれは年頃の女性が着用する学生服ではなく、只の真っ白なローブ。それも若者向けの凝った現代風なデザインではなく、年配の偉人が纏いそうな無骨な代物であった。
少女は普段通りの制服に着替え終わると、一階へと足を運ぶ。
リビングに入ると、同じローブを纏っている金髪碧眼の男性がモーニングタイムを閲読しながら、横着にもトーストに噛り付いていた。
「おはよう、パパ。食べるか、読むかどっちかにして。ママに怒られるよ」
少女の声に気付いた男は、顔を上げるとすぐに白く並びの良い歯をキザに輝かせる。
「おはよう、マイハニー。何でボク達はこんな朝早くからわざわざ集会に参加しなくちゃいけないんだろうね。いっそ、魔術師組合なんかの幹部なんて辞めちゃえば、家族水入らずで、常にイチャイチャ出来るんだけどね」
発言から責任感の無さが窺えるが、父親は一応、魔術師組合の幹部を務めている。
「本当に、パパは軽薄なんだから。もうちょっと、しっかりした方がいいよ」
「うわっ、厳しい言葉だね。でもそこのところ、最愛のママに似てきたなあ」
「えっ……。似てるって、あそこまで酷くないと思うけど」
少女の両眉がへの字に変形する。母親に似ていると言われた事に、気が触ったのだろう。
「へえ、誰が酷いですって?」
だが、背後から威圧的な声が発せられた時、少女の表情筋がそのままに硬直した。
「………………」
少女の額から冷汗が垂れ落ちる。そしてまるで油の切れた機械の如く、ぎこちなく後ろへと振り返ると、額に血管を浮かべながら仁王立ちをしている『赤髪紅眼の鬼』と視線が合った。
「……えへへ。ママ、おはよう」
噂をすれば何とやら。少女は笑って誤魔化そうとするが、母親の表情は眉一つ変わらない。
「うーん。今日は鬼神と仁王のコラボレーションだ。アジアの文化は本当に素晴らしいね」
「なっ、パパ、傍観に徹するつもりじゃ……」
どうやら父親は母娘の間に介入する気は更々無いらしい。しかし呑気を装ってはいるが、その額にはじっとりと油汗が浮かんでいた。
見捨てられた少女は命惜しさに、現状の解決策を思い付かせようと必死に脳へ鞭を打つ。
「で、誰が酷いのかしら」
「ち、違うよママ。パパのだらしなさが酷いって言ったの。さっきも、新聞読んでトースト食べながら……幹部辞めるとか言ってたから……」
「げっ」
少女が咄嗟に自分の父親をスケープゴートに仕立て上げると、母親は直ぐに目標を替え、鬼の形相で父親を睨みつけた。
「ア、アカネ。こ、これには理由があるんだよ……」
「幹部を辞める理由なんて、聞く耳持ちませんっ!」
――問答無用。
母親の怒声と共に右手から蒼白い炎が上がり、それは弁明を聞き入れる暇も無くして、大蛇の如く父親を頭から飲み込んだ。
「ぎゃああっーー!! 熱いよー!」
犠牲となった父親はもがき苦しみながら、シャワー室の方へ一目散に駆け出して行く。
少女は父親が去った方向へ謝罪と感謝の頭を下げる。それは親を犠牲にまでして得られた九死に一生であった。ちなみに加害者も親ではあるが。
「しまった。今日は集会日だというのに。幹部をつい半殺しにしてしまったわ……」
母親は今更になって後悔したのか。ボツボツと何かを呟いていた。
「まあ、しかたないわね。今日はあなた一人で行きなさい。わかったわね」
結局、母親は割り切った笑顔を浮かべ、少女に向かって優しくそう言い付けた。
「……は、はい」
その穏和な態度の裏に明らかな脅迫の念を感じていた少女は、朝食を早急に済ますと、逃げるようにして家を飛び出して行った。