神様からの贈り物
「ご馳走さまでした」
小さく口の中で言うと、斜め前に座った同僚にくすり、と笑われた。
「偉いわねぇ、ちゃんと挨拶して」
「何となく、言わないと気持ち悪いんですよ」
佐野家では「いただきます」と言って、「はい」と言われなければ食べられなかったし、「ご馳走さま」には「お粗末様」と必ず返ってきたものだ。多少子どもっぽいかなぁと思うこともあるが、悪い習慣ではないだろうし、二十六になった今も続けている。
弁当を大判のハンカチで包んでいると、同じくランチを終えたらしい人たちが賑やかに帰ってきた。
あー。至福の時間も終わって地獄の午後かー。
歯磨きしてーメイク直してー。ぎりぎりだな。
「佐野さん、これ今日中にやっておいて」
ぼんやりと人の波を見ながら残りの休憩時間の計画を立てていると、反対側から書類の束を差し出された。
…まだ昼休み中なのに仕事の話を振るたぁ無粋な奴め。
「はい。わかりました」
束を受け取りながら、橋田課長から漂ってきた香りに、ちょっと眉を寄せそうになってしまう。
―――これは、営業のアイドルと噂される柚木さんの臭い。
橋田課長は四十代前半。俳優と言っても良いくらい色気のあるイケメンで、線の細いお美しい奥様と幼稚園に通う男の子の三人家族…だったはず。年賀状に家族写真がついてたし。
へらり、と適当な笑顔を浮かべながら、内心は苦笑いしかない。
…頭悪いなあ。昼間からいちゃこらしたりして。
どんなに気を付けたって、人目はあるものだ。じきに噂になるだろう。
奥様は元々この会社にいたそうだから、社内の情報もどこかから伝わるだろうな。
煙草を吸ってごまかしたつもりだろうけど、全然だめだ。特に胸元あたりから柚木さんの臭いが強く立ちのぼっている。
あー、迷惑迷惑。人の不倫事情なんて知りたくもなかったよ。
嫌な気分を無理矢理押しやって、手早く歯磨きとメイク直し。席に戻って、午後用のマスクを装着。
それにしても。今日中のデータを昼過ぎに渡すとか、無計画過ぎるでしょうよ。
女といちゃこらする前に渡してってくれりゃいいのに。
マスクをしているのをいいことに、盛大に口をひん曲げながらデータ入力をすることにした。
―――ギフテッド、ということばを皆さんは聞いたことがあるだろうか。
ギフトが語源で、神様から与えられた生まれつきの才能やそれを持った人のことをそう言うらしい。
その定義で言うと私は確かにギフテッドなのだろう。
ただし、そのせいで非常に生きにくい、ない方がきっと良かったであろう迷惑な贈り物。
私は昔から飛びぬけて鼻が良かった。
かくれんぼは誰よりも強かったし、「お父さんお花の臭いがする」と口にして家庭内戦争を引き起こしたこともある。
会社の廊下を歩いたら、直前に歩いた人が二人くらいまではわかるし(それ以上は臭いが混ざる)、トイレの個室に入っても前に誰が使ったかわかってしまう。
ただ、鼻が良いというより、嗅覚による記憶力が良いだけかなと私自身は思っている。
人が持っている元々の体臭、愛用の柔軟剤、好んで食べる物、香水、家の臭いなどがすべて混ざってその人の臭いは形作られている。
私はどうも、その臭いの形を覚えるのが得意らしいのだ。
一度この人の臭い、と覚えたらなかなか忘れない。ただ、柔軟剤からシャンプーまで一度にすべて取り替えられたら再認はできないけど。
長年、こんなことは誰にでもできることだと思っていた。ちょっと特殊なことだと気づいたのは就職してからだ。
普通の人は、落とし物の臭いをかいでも持ち主は当てられないし、トイレに行っても直前のお客さんが誰だったかはわからないものらしい。
でも、そんな話をしてもウケを取れるわけじゃないし、自慢になるほど特殊な能力でもないので大抵は黙っている。
大体、おやあなた昨日はお泊まりですね、とかお腹の調子は大丈夫ですか、なんて言われたくないよね。私だってそんなこと知りたくもないんだけどさ。
人の秘密を拾わないようにというエチケットから、エッセンシャルオイルを希釈したものをマスクの内側につけて、家以外では装備している。何度も臭い酔いして、ときには吐いてしまいながら身につけた自衛手段でもある。
私が働いているのはステンレスの会社だ。
ステンレスでできたものは水筒から窓枠まで作っており、私は業務部に所属しており、営業部からまわってきた発注書にしたがって工場に発注をかけることが主な仕事だ。営業部の人は悪筆が多いので、もはや業務部というより怪文書解読部でいいのではないかと時々思うほどだ。
面倒な仕事は多いが、直接関わる人は限られているので、とても気楽。
鼻が人よりちょっと良い私には、苦手な臭いが結構ある。知っているものなら避けようもあるが、新しく関わる人が多いと苦手な臭いに出会う可能性も上がってしまう。
部長は三日おきにしか石鹸の臭いがせず、課長は若い女の臭いを日替りでつけているが、幸い直接害があるような苦手な臭いではない。残業もほどほど、有休も取りやすい、居心地のいい会社である。
翌日出勤すると、石鹸の臭いのする部長に呼ばれた。
おや部長、昨日は入浴日でしたか。私は常識的なんで、風呂は毎日入った方がいいなんて言いませんよ。なので、ぬるい眼差しくらいは許してほしい。
「佐野さんにさ、本社から来た新人さんを任せたいんだけど」
「はぁ…」
うちの会社はステンレス業界では大きい方で、東京に本社、地方に支社が十二ある。
本社採用になった新人さんは、いずれかの支社で研修を三ヶ月行うのが決まりだ。元々地方出身の社長の方針らしい。
「でも、私が教えられるのは発注業務くらいですけどいいんですか?」
入社五年目とはいえ、私がスキルを磨いてきたのは事務ばかり。営業や経理のことなんて、さっぱりわからない。
「あ、大丈夫。週変わりで各部署まわってもらうから、うちの部にいるときにちょっと気にかけておいてくれればいいくらいだよ」
しかも転職者なので、年も近いらしい。ちょっとホッとした。
「本社から参りました向井悠一と申します。三ヶ月間よろしくお願いします」
向井君がぺこりと頭を下げると、近年まれに見る大きさの拍手が起こった。
主に独身女子社員によるものだ。やった! イケメン! と心の万歳三唱が聞こえる。
だが、私にとっては、顔面の出来は二の次三の次だ。
何よりも大事なのは臭い。一緒に働く、しかも私が気にかけて過ごさねばならない相手が、受け付けない臭いだったら耐えられない。口呼吸にも限界があるし、鼻栓だってツライ。
たかだか臭いで、と思われるかもしれないが、本当にダメなのだ。
記憶力が良い分、いつでもいつまでもその臭いが鼻の中で再現できるのでつらさも倍増だ。
この向井君とやらは、どんな臭いなんだろう。
どうか、耐えられるものでありますように。
全体での挨拶を終えた向井君が、こちらに歩いてきた。
初めて会う人の臭い―――ファーストスメリングはいつもすごく緊張する。
「向井です。よろしくお願いします」
「……あ、はい。よ、よろしくお願いします。佐野です」
―――え。
どういうこと?
どもりながら挨拶を返した私の頭の中で、?マークがどんどん増えていく。
こんなことってあるの? それとも私がおかしいの?
「少しでも多く吸収できるよう、頑張ります」
にこり、と向井君は笑ったが、笑い返そうとした私は完全に失敗した。
―――この人、臭いがない。
それは、記憶にある限り、生まれて初めての出来事だった。
向井君は、期待の新人と本社でも言われているそうで、物覚えがとても良い人だった。
私が忙しさにかまけて早口で説明したことも一度で飲み込み、忘れない。この書類をまとめておいてほしいなと思えばもう完成間近だし、内容も文句のつけようもない。
「さすが向井! ずっといてほしいくらいだな」
仕事の鬼と言われる先輩も手放しで向井君を褒めるほどだ。
「ねぇ、向井君は柔軟剤何を使ってる?」
ある日どうにも気になって訊くと、向井君はきょとんとした。
「えっと、部屋干しでも臭わないっていうグリーンのパッケージの…」
ああ、それは私も愛用している。
外国製のものより控え目な香りがいいよね。
でも、向井君からはその柔軟剤の香りがしない。
「じゃあ、シャンプーは?」
「朝ドラの女優がCMしてる…って、俺なんか臭いますか?」
うわ、どうしよう、と言いながらスーツの袖や襟元をクンクンする向井君。
「いやいや、違うよ。ごめんね、変なこと訊いて」
むしろ臭いがしないから訊いたとも言えず、曖昧に私は笑った。
私は毎日こっそり向井君の臭いをかいだが、彼はいつも無臭だった。
好きな食べ物を訊いても、肉類と乳製品、と返ってきたので、特に臭いの少ない食事をとっているわけでもなさそうだ。
それに、向井君がコーヒーを飲んでいればコーヒーの臭いはする。だが、飲み終わってしまった向井君からは何の臭いもしないのだ。
おかしい。
ますます意味がわからない。
あー、気になる。
朝は何食べたんだろ?
ボディソープはどこのを使ってるんだろ?
どこにいても向井君のことが気になってしまう。
だってフロア中に臭いは溢れているのに、向井君の周りだけ、ぽっかりと無臭の空間があるのだ。
あー、気になる。なんなんだ、この不思議現象。
「ねーねー、向井君ってさ、どんな臭いする? 私わかんなくってさ」
「えー? あえて言うなら石鹸の臭いがするくらい? てか、未来が臭わないってどしたの。風邪?」
ランチのときに、隣の部署の真里に訊いてみたら、あっさり石鹸の臭いと言われてしまった。
「ええー?! なにそれ! 石鹸って牛の絵が描いてあるやつ? それともレモンの形の? 羨ましぃい!!」
私は毎日こっそりクンクンしてても、何も臭わないっていうのに。
「意味わかんない。あんたも向井狙いなの?」
「やー。特にそういう訳じゃ。なに食べたかとか使ってる石鹸の種類とかには興味があって、今どこにいるかが気になるだけ」
何せ臭いで探せないからね。急に背後に立たれたりするとすごくびっくりして挙動不審になるんだよね。
「……色々、ツッコミたいところはあるけど、それはもう恋でいいんじゃない」
「いやいやいや、そんな馬鹿な」
恋ってのはもっと、胸がキュンとしたりどきどきしたりするやつでしょ。
「じゃあ、明日初めて向井から臭いがしたとしよう。それが柚木の臭いだったら?」
「……嫌」
そんな俗な臭いはやめてほしい。もっと高尚な、お釈迦様の池に咲く花の香りのような……。あ、別に柚木さんの臭いが嫌いなわけじゃないんだけどね。あくまでもイメージの問題だ。
「十分、嫉妬だと思うけどね。相手のことをいつも考える、気づいたら目で追う、多くのことを知りたい、自分より親しい・詳しい人がいたら羨ましい…。恋でしょ」
真里はうんざり顔だが、私は首をかしげるばかりだ。
これは恋なのだろうか?
むしろ、変ではないだろうか?
相手の臭いがしないことが気になって仕方がない、というのはどっちなんだろう?
自分の気持ちに正確な名前をつけられないまま、向井君が研修期間を終える日がとうとう来てしまった。
今まで、一度も向井君から何かの臭いがしたことはない。
ひどく残念な気持ちと、俗な臭いがしなくて良かったのだという安心感が私の中にあった。
「向井君、三ヶ月間お疲れ様でした。本社に戻ってもバリバリ働いて下さい」
乾杯、と声が重なって、グラスが掲げられた。
私はあまりお酒は飲まないが、飲み会の雰囲気は好きだったりする。
意外な一面が見られたり、こういう席でしか聞けない話が聞けたりするのが面白い。
…できれば、向井君の意外な一面(臭い)も知りたかったけど。
向井君はさっそく営業部の美人さんたちに囲まれている。やに下がったりしないところが、さすがイケメン。モテ慣れてるよね。
あ、柚木さんが携帯を出した!
え、向井君は会社のピッチを出してきた!
柚木さんはとても悔しそうに柳眉を寄せている!
面白すぎる攻防に、にやにや笑いをかみ殺すので必死だ。ついついお酒もすすんでしまう。
「すいません、水二つ下さい」
酔いがまわるとウォッチングが疎かになるので、そろそろ水を挟んでおこう。
ついでにさっきから目元が白くなってる部長の日本酒を水と入れ替えておくか。万一このあたりで吐かれたりしたら、私の鼻が危険だ。弱いくせに冷酒に手を出すとは相変わらず無謀な奴よの。
水を飲みながらゲソの唐揚げをつまんでいたら、いつの間にか向井君が隣にいた。
「うぉ! びっくりしたぁ」
「あはは。佐野さんまたびっくりしてる」
向井君はそんなにお酒が強くないのか、頬も首元もすでに赤くなっている。口調もいつもより砕けているような気がする。
―――それでも、何の臭いもしないけど。
「あ、またその顔」
「え? 何?」
首をかしげると、向井君は手元のグラスを傾けた。芋焼酎かな? グラスの中では確かに芋の香りがするのに、向井君の唇を通っていくともう何の臭いもしない。
「佐野さん、俺と話してると、いつもすげぇ寂しそうな、残念そうな顔するんですよ」
「……そ、うかな」
それは、そうだろう。
向井君の臭いを私だけが感じられない。他の人の臭いは嫌ってほど飛び込んでくるのに、どんなに頑張っても向井君の臭いはしない。すごく寂しくて、残念なんだ。
「俺、佐野さんと仕事できて楽しかったです。佐野さんが寂しそうな顔すると、すげぇ気になったけど、時々笑ってくれるのが嬉しかったです」
「……ありがとう。私も、楽しかった」
いつもよりも親しげな笑顔に、思いがけず心臓が踊り出す。
それ以上なんと言っていいかわからず、にこにこしあっているうち、向井君は別のグループに呼ばれて席を離れていった。
臭いのない空間が移動していくのを感じながら、これで終わりなのかと思ったら急に寂しくなった。
―――でも、最後に嬉しいことばをもらえたから、良かったか。
これが恋だったのか、変だったのか、もう確かめる術はないけれど。
もう少し、話がしたかった気がするけど。まあ、いいか。
二時間ほどの宴会が終わり、二次会に行くグループと、帰る人たちに自然と分かれていった。
私はバーやスナックの類は鼻的にあまり行きたくないので、〆の牛丼でも食べて帰ろうかな。むせかえる香水の臭いより、断然牛丼の臭いだ。
堀ごたつの隅に置いていたバッグを取り出そうと屈むと、隣の席の座布団の上にハンカチがあることに気づいた。
「…男物、だね」
綿100%の、青いストライプが入ったハンカチ。
几帳面な人の持ち物らしく、しっかりアイロンがかけられている。
「あー、忘れ物? 俺預かろうか」
「いえ。持ち主わかるので、届けてきます」
幹事が声をかけてきたが、私は首を振った。
ハンカチは大抵ポケットに入っているから、割と強く臭いがついている。
手に取ったときに、すぐ誰のものかがわかる程度には。
店を出ると、二次会へ向かう最後尾に、ハンカチの持ち主を見つけた。
「ハンカチ、忘れてたよ」
後ろから声をかけると、向井君が振り返った。
「……やっぱり」
ハンカチと私を何度も見比べて、向井君は何とも言えない、でもとても嬉しそうな顔をした。
「え? やっぱりって?」
「すいません、俺、佐野さんと行きます!」
私の問いには答えず、先に行く二次会チームに向井君が叫んだ。
えー?! とか、まさかー! とか、悲鳴や驚きの声が上がる。
「佐野さん、行こう」
「は、え、なになに?」
全く状況がつかめずおろおろする私を、向井君が引っ張る。
「未来ー! でかしたー!」
後ろの方で、真里の快哉が聞こえた気がした。
向井君に連れられてきたのは、オレンジのランプが目に優しい、落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。
私は店のおすすめだという本日のブレンドを頼み、向井君はカフェオレを頼んだ。乳製品好きって言ってたもんね。
「えっと、ちょっと状況がわかんないんだけど」
運ばれてきたブレンドをすする。酸味が強いすっきりとした味。挽きたてらしく風味がしっかりしている。酔いざましにはぴったりだ。
「佐野さん、鼻が良いんですね?」
同じくカフェオレに口をつけた向井君が出し抜けに訊いてきた。
「え? 鼻?」
「最初は、カンがいい人なのかなと思ってたんですよ。でも段々違うなって思って」
私は向井君のことをずっと気にしていたが、向井君も私のことをだいぶウォッチングしていたらしい。
業務部長に三日に一回ぬるい視線を送ること、人の居場所や持ち物をぴたりと当てること、人の多い場所や新規な人との触れ合いを好まないこと。
「……随分、見られてたんだね」
「俺、気になりだすととことん調べたくなるんですよ」
成績を褒められた子どものように、向井君は笑った。元々下がり気味の優しい目尻がさらに下がって、かわいい顔になった。
「俺、やっぱり佐野さんが寂しそうな顔をする理由が知りたかったんで、わざとハンカチを置いていったんです。きっと俺のだってわかって追いかけてきてくれるって」
「えぇ~?! 私引っかけられたってこと?」
親切心なんて出すんじゃなかった。幹事にそのまま預けておけばよかった。
いやでも、私も向井君ともっと話したいと思ってたんだから、これはラッキーなのか?
甘い臭いのカフェオレが、向井君の喉を音もなく通って行く。
「…それで、教えてもらえませんか」
「……向井君の、臭いがしなかったから」
早口の上、声が小さかったらしい。え? と向井君が少し身を乗り出してきた。
「だから! 向井君の臭いだけは何もしないの! 何を食べても、走って汗をかいても、無臭なの!」
言いながら、なぜかとても恥ずかしくなった。
特に誇らしくもないギフテッドだが、こんな穴があるなんて思いもしなかった。
なぜ向井君の臭いだけしないのかが、全然わからない。
悔しい。
「え。それは今も?」
「飲んでるカフェオレの臭いはするけど、飲み込んじゃったら向井君からは何の臭いもしない」
マジで、と向井君は目を見開いた。
マジです。こんなことで嘘ついて、誰が得するんだ。
向井君はしばらく顎に手をあてて何かを考え込んでいたが、やがて顔を上げると、いつになく真剣な顔をしてじっとこちらを見てきた。
「佐野さん、俺の臭いに興味がありますか?」
「………」
答えは、間違いなくイエスだ。三ヶ月間そればっかり考えていたんだから。
でもこの問いにイエスと答えるのは、いろいろ終わっている気がするのはなぜ。
妙齢の女子として、イエスって言っちゃいけない気がする。
私は人よりちょっぴり鼻が良いが、決して臭いフェチではないはずだ。
「俺、佐野さんのことが気になって仕方ないんです。臭いがわかるせいだと思うんですけど、人の体調不良とかにもすぐ気づいてフォローしてますよね? さっきも部長のグラス取り替えてたし」
聞いている内に、顔が熱くなってきた。
人の体調不良をフォローするのは、放っておくと自分に害が及ぶからだ。体調を崩すと人の臭いは大抵きつくなるのだ。体調が悪い人を早めに休ませたりするのは、優しさからじゃない。
「私、そんないい人じゃないよ。優しいんじゃなくて、自分のためにやってるんだし」
「あなたのため、って人が世の中一番信用ならないんですよ」
向井君はニヤリ、と口角を上げた。そうすると甘い顔が途端に男っぽくなるから不思議だ。
「佐野さん、雰囲気で察するとか苦手そうなんでハッキリ言いますけど。俺、佐野さんのこと好きです」
「………は」
はあ? と訊くことさえできず、妙な音が口からもれた。
すき? 隙…? 好き?!
「な、なんで」
急速に認識した二文字に、顔面崩壊を起こしそうだ。コーヒーを飲んでいたので、マスクもしていないし、どうしよう。絶対、絶対、変な顔してる。
しどろもどろな私を見て、なぜか向井君はとてもうれしそうだ。
「最初はホントに興味本位で見てたんですけど。見てる内にどんどん佐野さんの良いところを見つけちゃって、気付いたらすげぇ好きになってました」
「…っ」
ストレートなことばに、まじまじと向井君を見返すと、向井君は目元も首元も真っ赤だった。
一瞬、酔いのせいかと思ったが、さっきまでは赤くなかったから、違う。
「俺の知的好奇心と、佐野さんの知的好奇心、どっちが先に満たされるかわかりませんけど。俺と付き合ってもらえませんか?」
「……どういう告白してんの……っ」
私の震える声に、とても満足そうに向井君は笑った。
―――かくして、その日から、私が向井君の臭いを感じるための実験と、向井君が私の生態を解明する研究が日夜行われることになったのだった。
……なんてね。
お読みいただき、ありがとうございます。