(後編)青空の星
二人きりになると、思いのほか簡単に輝美は折れた。
でも、話を聞いてもそれは輝美の激しい思い込みであって、啓介が輝美を諦める理由になどならなかった。
これまでに手に入れたヒントは少なかったが、輝美の過去は容易に想像できたし、結果その想像も概ね合っていた。
「中学の時にね、初めて彼氏が出来たのよ。クラスでも人気の男の子で、あたしすっごく嬉しかった。でもね、初めてのデートの待ち合わせに来なかったの……てっきり、からかわれたんだって思って怒って帰ったんだ。そしたらね、冬道のスリップ事故に巻き込まれて死んじゃったんだって……すごく驚いて……その後の事はあまり覚えてないの。覚えてるのは、彼のお母さんが『あの子は星になったんだ。空で見守ってくれてるんだ』って泣きながら話してた事。それ以来、夜空を見るのが癖になっちゃった……」
「確かにそれはショックだったろうと思うよ。でもな、皆未来を歩いてるだろう。お前だけそのまんまでどうするんだよ」
啓介の言葉に、輝美は力なくふるふると首を振った。
「あたしもそう思った。それでね、高校の時に告白してくれた後輩が居て、いい子だなとは思ってたから付き合う事にしたの」
「まさかそいつも――?」
「ううん。元気だよ。元気なはず。部活の後輩でね、冬休みの合宿先で夜散歩に誘われてね、待ち合わせ場所に行ったらいないの。呻き声が聞こえて、捜したら怪我して倒れてたんだよ。雪で滑って転んで大木に突っ込んじゃって……足の骨折っちゃって」
まさか――と啓介は思った。だが輝美は真剣な顔で話し続ける。
「あたしの所為だって思った。きっとあたしと付き合うと、男の子が不幸になるんだって。だから後輩ともすぐ別れた。最初は納得してくれなかったけど、心を鬼にして断った」
「それで? その後相手はどうなった?」
「怪我も治ったし、二年の時にひとりだけスタメンになったんだよ! あ、あたしバレー部だったんだけどね。バレー推薦で大学にも行ったし、今はVリーグで活躍する選手なんだから! オリンピックだって期待できるかもね!」
自分が別れたから相手の未来が拓けたのだと胸を張って言う輝美に、啓介は大きな溜息をついた。
「な、なによ!?」
「あのなぁ、怪我は治療すりゃ治るの。振られてヤケになって部活にのめり込んだらそりゃスタメン入りもなるだろ」
「何よ失礼な! あたしの母校、強くて有名で毎年県代表で国体でもインハイでもいいとこまでいくんだからね!」
「何の話だよ!!」
啓介は頭痛を感じ、こめかみを押さえた。
確かに初めて出来た彼氏を亡くしてしまったのは悲しい出来事だった。が、後の事は完全なる思い込みだ。これが原因で六年間散々拒否されてきたと思うと泣けてくる。だが、輝美は至って本気なのだ。その時、啓介がある事に気付いた。
「つまり、俺が不幸になったら困るんだな?」
「は? それこそ何の話よ」
眉根を寄せて聞いてくる輝美を、啓介は飛び切りの笑顔で見返した。
「お前と付き合った男は不幸になるって、そう思ってるんだろ? だから俺とは付き合えない。て事は、俺が不幸になるのは見たくないって事だ。それは俺が好きって事だろ?」
「はぁ!? 馬鹿も休み休み言いなさいよ! だ、誰があんたなんて……っ」
火がついたように一瞬にして顔を赤くし、うろたえている輝美の様子は図星を指されたとしか思えない。
自分の思いは一方通行では無かったと確信し、啓介は更に笑みを深めた。
「な、何よ! なんで余裕ぶって笑ってるわけ!? あたし啓介と付き合うなんて言ってないからね!?」
そうなのだ。つまり、輝美の悩みや想いは分かったものの、まだ恋人同士ではない。立ち位置に変化はないのだ。だが片想いではないと知った啓介はそんな事で怯む男では無かった。
「条件を寄越せ」
「な、何のよ?」
「俺が、お前のその凝り固まってガッチガチになってる思い込みをぶっ壊してやる。それで、正式な恋人になる。どうしたらお前は未来が見れる? 何でも良い。何でも、お前の願いを叶えてやる」
ぽかんと口を開けて啓介を見る輝美の目が、縋るようなものに変わった。
それを見て啓介は一歩進む切欠を掴んだと知り、逸る思いを抑えて輝美が口を開くのを待った。
――青空に浮かぶ星を見せて。
啓介は耳を疑った。
星は夜だからこそ見えるものだ。それを昼間青空に浮かぶ星が見たいと輝美は言う。
「夜に星を見ると、どうしても思い出しちゃうの。あの時デートの約束をしなかったら……とか、断ってたら……とか。だから、夜じゃなく真っ昼間に真っ青な空の下で星が見たい」
そんな無理難題を言って来る。
「お前はかぐや姫か!」
かぐや姫の出て来る求婚者も、無理難題を押し付けられ苦悩したはずだ。確かズルをして似たような物を用意した人物も居たはずだが……。
「大きな天文台貸しきって高性能の天体望遠鏡で見せてくれるのは無しよ」
心を見透かされたかのような輝美の言葉に、啓介は項垂れた。
「無理ならいいのよ。あたしだって、啓介には幸せになって欲しい。こんな面倒な事情抱えた女じゃなくてさ、啓介なら御曹司だしイケメンだし? もっと素敵な女性が似合うよ」
目を伏せて唇を歪めてそう話す輝美は、啓介にというよりはまるで自分に言い聞かせているようだった。
「時間をくれ」
その言葉に輝美は顔を上げて啓介を見た。言葉の意味を図りかねてか、その瞳は戸惑いに揺れている。
「輝美への気持の整理のために時間をくれって言ってるんじゃない。必ず、お前の願いを叶えてやる。さっき、そう言ったろ?」
「だけどっ!!」
そんなものは存在していないのは輝美にもわかっていた。それでも、呆れるでも怒るわけでもなく啓介は叶えると言う。自分の中に巣食う恐れにも似た感情から、本当に解放してくれるかもしれない……そう思えて、素直に頷いた。
* * *
それでもこれは待たせすぎなのではないか……あの約束からもうすぐ半年が経とうとしている。
今は夏真っ盛りでテレビでは連日熱中症に対する注意が呼びかけられていた。
そんな中、ジリジリと焼け付くような太陽の光を浴びてランチの為に近くのカフェに向かって歩いていた輝美は、首筋に流れる汗の感触に顔を顰めて小さなバッグを探った。
「ん?」
ハンカチを捜していた指がブルブルと震えるスマホに当たった。
仕事中マナーモードにしていたのだが、解除するのを忘れていた。三度、四度と振動を続けるそれを見てメールではなく電話だと気付いた輝美は慌ててスマホを取り出した。
画面には“斎賀啓介”とフルネームで表示されている。だが、愛称でも名前のみの呼び捨てでもない、そのそっけないフルネーム表示を見て輝美の心臓はドクンと大きく打った。
「スイマセン、先輩。ちょっと今日抜けます」
先を歩く数人の社員に声をかけると、何事かと不思議そうに振り返る同僚が居る中、千香子だけが訳知り顔で両手で大きな丸を作り、同僚達を急かして遠ざかって行った。
「も、――もしもし?」
少し声が上ずったような気がして慌てて整える。あれから半年は輝美が避けるまでもなく、啓介と二人きりで会う機会は少なかった。
サークルメンバーとの集まりは相変わらず定期的に誰からともなく提案され、そして確実に実行されているが、そんな時に顔を合わせるくらいだ。
そんな日は今までのように口説こうとする事もなく紳士的な態度で輝美を家まで送ってくれるだけだった。
残念だとか寂しいとは思わないようにしてきた。だが、どこか肩透かしをくらったようなそんな気持ちがしていたのは事実だった。
「有給はどれ位残っている?」
「はぁ!?」
挨拶もなくそれか! と思ったものの、頭の中でざっと計算する。有給は数回しか使っていないので結構な日数が残っていたはずだった。
「ちゃんと見なきゃ分からないけど、二十日以上は残ってたはず。でもこの夏少し使う予定よ」
「何でだよ?」
啓介の声が突然不機嫌になった。
「節電対策だよ。なるべく交代で夏休みをとるようにって紙が貼り出されててね。この機会に久しぶりに田舎でのんびりしようかと――」
既に希望日は伝えて申請は通っている。家族にも昨日電話でそう伝えたばかりだった。一瞬、啓介にも報告すべきなどうか悩んだが、そのような関係でもない。と作りかけだったメールを破棄したのである。
「却下。輝美、パスポートあるよな。期限まだ残ってるか?」
「えっ? ちょ……なんでよ! もうお父さんに連絡しちゃったんだけど!」
「夏休み後半にちょろっと顔出すだけにしろ。で? パスポートの期限は?」
「まだ三年あるけど……」
文句を言おうと口を開きかけたが、啓介からすぐさま別の質問が飛んだ。
「明日は定時で上がれるか?」
「はっ? う、うん。大丈夫だと思う」
「じゃあ、その時間に合わせてそっちに行く。パスポートを忘れるなよ」
そう言うと啓介からの電話は切れてしまい。輝美が発した文句は啓介の耳に届く事無く、照り返しの強いアスファルトの上に落ちていった。
翌日、自主的に残業をして啓介を待たせてやろうかとも思ったが、輝美にもどこか会いたい気持ちがあったのだろう。定時になるとパソコンの電源を落とし、更衣室に向かった。
更衣室の姿見で身だしなみをチェックすると、輝美はロビーへと急ぐ。
「輝美」
長身で色素の薄い髪を清潔に整え、化粧品メーカーの研究室に勤めている為か、美肌が自慢の啓介は女性の目を惹く存在だ。
スーツを完璧に着こなし、ロビーの応接セットのひとつに座っている姿はまるでドラマのワンシーンのようだ。
ロビーで出くわした女性達はその様子を気にしていまだロビーに留まっている。
そんな中、当の啓介は周りの様子も気にならないのかよく通る綺麗な声で輝美の名を呼び手を軽く上げた。
ロビーに居た女性達の視線が輝美に突き刺さる。それを感じて、輝美は自然と頬が緩むのを感じた。
(うわー、うわー。これが優越感ってヤツかな)
だが、そんな小さな優越感はすぐに打ち砕かれることとなる。
輝美が啓介の姿を見つけて小走りでやってくると、啓介は立ち上がって右手を出した。
「え?」
「パスポート。昨日言ったろ。まさか忘れたのか?」
「持ってきたわよ!」
言いながら鞄から出したそれを、啓介がスッと抜き取る。そうして代わりに薄い茶封筒を押し付けた。
「コレ、ちょっと預かるから。夏休みは来週からだろ? 休み初日の午前出発だから、遅れるなよ」
「は? 出発? 何の事よ?」
輝美の頭の中はクエスチョンで埋め尽くされた。だが、啓介はもうドアに向かって歩き出していた。
「何って、青空の下で星を見たいんだろ? 叶えてやるから絶対来いよ。それまでパスポートは預かる」
そう言い残すと、颯爽と出て行った。
残された輝美は慌てて茶封筒を開く。中には印刷された紙が一枚だけ入っていた。
そこにざっと目を通す。
(出発は七月二十二日。成田空港に午前八時集合。行き先は――パリ、シャルル・ド・ゴール空港――!!)
自動ドアに目をやるが、既にそこに啓介の姿は無い。
そっと印刷された文字を撫でた。
「なぁんだ。彼女じゃないじゃん」
「取引先が書類届けに来たって感じ?」
周りから聞こえるそんなヒソヒソ話は今の輝美の耳には入ってこなかった。
(ここに、本当に私の怯えを打ち砕く星はあるのだろうか……)
* * *
当日、チェックインの時間ギリギリにやってきた啓介は酷く疲れた顔をしていた。
「悪い。ギリギリになった。じゃあ行こうか」
「うん……。大丈夫? 調子よくないんじゃないの?」
「ああ、うん。最近徹夜続きだったからな。でも大丈夫。機内で寝る時間はたっぷりあるから」
そう言った啓介は実際かなり疲れが溜まっていたのだろう。離陸と同時に眠ってしまった。
食事が運ばれてきた時に何処に行けば星が見れるのかを尋ねたが、啓介は答えてくれなかった。
「こーゆーのはさ、サプライズじゃないと意味無いだろ」
そう言われると益々気になる。が、啓介の口は堅く、啓介が起きている僅かな時間はお互いの近況報告で終わった。
十二時間のフライトを終え、パリに降り立った輝美は期待に胸を膨らませていた。それは胸にしっかり抱えられたパリのガイドブックを見ても分かる。
だが、それを見た啓介は苦笑して申し訳無さそうに言った。
「悪い。近くのホテルに泊まるだけで、明日の朝には国内線に乗って移動なんだ」
「え!? ここまで来てパリ市内に行かないの? マカロンは? エッフェル塔は? ヴェルサイユ宮殿は!?」
「いや、ヴェルサイユは市内じゃないけど……あー、目的が早く達成できたら戻って来るから。な?」
「じゃあせめてどこに向かうか教えてよ」
「んー。まぁ、いいか……マルセイユだよ」
マルセイユだ。そう啓介は言ったが、確実にマルセイユから離れているのではないか――そう輝美は考えていた。
マルセイユ空港に着くとレンタカーが用意されていた。そこから出発してもう一時間以上も経っている。
過ぎ行く景色は段々のどかなものとなり、青い空に濃い緑が眩しかった。
「気持ちいいねぇ。湿気も少なくて、こんなにいいお天気なのに暑くない。むしろ爽やかだね」
目的地を聞いても啓介は答えてくれない。それなら、と輝美は旅を楽しむ事にした。
やがて、視線の先の緑の中に乳白色のゴツゴツした岩山が見えてきた。
車はその岩山に向かって進んで行く。
そうして辿り着いたのは、そそり立つ岩山に囲まれた小さな村だった。
「ここ……?」
「そう。ここ」
一旦車を停め、遠くからその村を見渡す。
目の前に広がる街並みは、まるでおとぎの国に迷い込んだかのようだった。
どの家も、くすんだオレンジとも赤とも取れる暖かな色の屋根を被り、敷き詰められた石畳は今にも馬車が駆けてきそうだった。
「キレイ……!」
輝美の心からの言葉に、啓介は顔をほころばせた。
「気に入ってくれた?」
「勿論だよ! なんて街? それともまだ内緒なの?」
「ここはムスティエ・サント・マリだよ。プロヴァンスで最も美しい村に選ばれている場所のひとつだ。さ、行こう」
ムスティエ・サント・マリ――輝美はそっと呟いた。
啓介はまるで知った村かのように迷い無く歩みを進める。
どうやら村の奥に向かっているようだった。
盛夏とは思えない爽やかな風を感じながら通りを歩いていた輝美の目は、初めて訪れるヨーロッパの家並みに釘付けだ。
ポツポツと見かける観光客向けのお店は陶器を扱ったものが多く、ここは陶器で有名な村なのだと知る事が出来た。
「陶器が有名なの? すごく可愛い陶器のお店がたくさん。後で行きたいな。ねぇ、啓介見て。通りの名前が書いてあるプレートも陶器で出来て……あぁっ!!」
輝美の目にあるものが飛び込んできて、思わず大きな声をあげて先へ行こうとする啓介の腕を引き寄せた。
「わっ! どうした?」
「星! 星がある!」
輝美が指し示したプレートには、通りの名が書かれておりその上には金色に輝く大きな星が描かれていた。
「あー……」
啓介が困ったような表情をして頬をかいていたが、このプレートを見て輝美の期待は大きく膨らんだ。
「もうすぐそこだよ。行こう」
啓介が差し出した手を、輝美はしっかりと握ってまた歩き出した。
そうして辿り着いたのは村の奥にある広場だった。そこは一際高い岩山が二人を見下ろしている。
「ほら、星だ。見えるか?」
「えっ?」
驚いて空を見渡すが、高い建造物が無いそんな場所で見えるのは真っ青な空と所々に点在する綿菓子のような雲だけだった。
「どこ? どこにあるの?」
「ちょっと待って」
すると啓介が肩にかけていた一眼レフを手に構えて輝美の背後にまわり、何も無い空に向けた。
輝美の頭上で、ジー、ピピッ、ピッと電子音が響く。そのままいくつか操作をすると、輝美を抱え込むように両腕を下ろしてカメラを輝美の目線に持ってきた。
「そのまま視線上げて」
すると液晶画面をを見た輝美の目が見開かれた。
「――星……」
そこには、真っ青な空の中央に大きな金の星があった。
「人工的なのでごめんな。でもな、この星には大事な意味が込められてるんだ」
「どんな?」
輝美の声が少しかすれていたが、啓介はそのまま話し続けた。
「この星は、昔十字軍に遠征して捕虜となった騎士が、無事ムスティエに帰りついた時には故郷に星を飾ると誓ったものなんだ。そうして実際この星は飾られた。つまり――」
「つまり?」
「この星は、“生”の星だ。生きてるって証なんだ。お前は人は死んだら星になるって信じてるんだろう? でも、これは逆なんだよ」
「うん……」
輝美の声はすっかり涙声になっている。言葉にならないもどかしさからか、何度も何度も頷いた。
「お前にとって、俺がこの星のような存在になれればいいと思ってる。お前が夜空の星を見てちょっと切なくなっても、俺がそれごと全部ひっくるめて一緒に生きる。だから、結婚しよう」
「まだ付き合ってもいないのに……」
啓介の腕の中で、輝美が笑みを漏らした。もう涙声ではない。
「うるさいな。今このタイミングだって思ったんだよ。で? 返事は?」
すると輝美は腕の中でくるりと反転し啓介に向き合った。その表情は晴れやかで、啓介は自然と笑みを返した。
輝美は更ににっこり笑うと、いきなり啓介の胸倉をつかみ思いっきり引っ張って啓介の唇にかみつくようにキスをした。
いつの間にか二人の周りには他の観光客も集まり、キスを続けるふたりをはやしたて、心からの拍手を送った。