(前編)夜空の星
「おー! すっごい満天の星空だねぇ。ホラ、啓介見てみて!」
アルコールが入って少し覚束無い足取りで上を向いたまま歩く二宮輝美を、斎賀啓介は慣れたように手を取った。
「コラ。真上見すぎだ。危ないだろ」
「だーいじょーぶだよー。ホラホラ、すっごいよく見える!」
「あっぶね。あんま仰け反んなって!!」
繋がれた手によって足運びが安定した輝美はそれに安心したのかもっとよく見ようと空を仰ぎ見てふらりと後ろに倒れかかり、慌てて伸ばした啓介の腕に支えられた。
「おー。危なかったー」
輝美はすぐに身体を起こしたが、背中に回された啓介の腕はそのまま上に移動して輝美の肩を抱いた。
優しく肩を包み込む大きな手を、輝美は黙って受け入れる。
ぴったり寄り添ったその姿は、傍から見るとお互いを想い合う恋人同士に見えるだろう。そう考えて、啓介の胸に苦いものが込み上げた。
「なんか有名な星座とか分かるんだろ? 俺にも教えろよ」
胸の苦さを吹っ切るようにそう問いかけると、輝美は少し寂しそうに笑った。
「知らないよ。だってさ、ここからよく見える明るい星は星座になってるわけでしょう? でもさ、その間に小さい星はいっぱいあるんだよ。お天気の時にしか見えない星も、お天気の時ですら裸眼じゃ見れない星も。明るい星ばっかり注目されてさ、その子達が可哀相じゃん」
輝美は珍しくしんみりした口調でそう言うと、寒そうにマフラーに顎を埋めた。
静寂が二人を包む。
輝美の足取りも今はしっかりとしているが、それでも啓介の腕を解く事はなかった。
「なぁ……いい加減俺と付き合おうよ」
もう何度言ったか知れないこの台詞がピンと張り詰めた冬天に吸い込まれるように消えた。
大人しく肩を抱かれたまま隣を歩く輝美は一瞬足を止めたが、聞こえなかったかのようにそのまま歩を進める。
その様子を横目で確認すると、啓介はふぅっと大きく息をついた。
それは氷点下を報じられた夜に一際大きな白い息となって吐き出される。失望の大きさが視覚に訴えてくるようで、啓介はぎゅっと目を閉じた。
「なぁ。輝美は……」
「そーんなにいっぱい言ってたらさ、なんかもう挨拶みたいだよね」
輝美は啓介に向かって努めて明るく笑うと、また空を見上げた。空気の悪い都会の夜空でも冬には比較的星が綺麗に見える。二人のそんなやり取りを、無数の星が見守っていた。
もう何度告白して、何度断られただろう……啓介も一緒に星空を見上げてそんな事を考えていた。
啓介が大学でたまたま見かけて一目惚れした相手は同じ敷地内にある短期大学部の学生だった。即行情報を集めて部長という立場を最大限利用して同じサークル仲間になったのはそれから一ヵ月後。すぐにお互いを「輝ちゃん」「啓介」と呼ぶようになって、これはもうイケるでしょう! そう舞い上がってしまったのも仕方のない事だったかもしれない。
だが、そこからが長かった。
出会いは二十歳。その時、輝美は一つ年下の十九歳だった。今啓介は二十六歳。輝美は二十五歳。
短大を卒業して先に社会人となった輝美だったが、サークル仲間の縁は切れず啓介達が卒業してからも誰かの家に集まったりしていて、今日もその帰り道だった。
飲みに行こうと言えば、他に予定が無い限りは了承のメールが返ってくる。
休みの日に誘っても同じだ。旅行ですら二人きりでなければOKの返事が来る。
二人の関係は、性別を超えた親友のようだった。――啓介の恋心さえ無ければ。
「挨拶なんかじゃないって、分かってるだろ」
言葉の通りだった。輝美はいつも笑って受け流し話を逸らすが、啓介の輝美への想いは風化するどころか日々鮮明に、より大きくなってくる。これに限っては“キャパシティー”なんて無いんじゃないかと思える。まさに無限大とも思える想いだった。
だから挨拶と言われても仕方が無い位に口にしたその言葉ひとつひとつには、全部しっかり想いが詰まっている。
時間さえかければ分かってくれると思っていたが、いまだにスルリスルリとかわされる。正直啓介は途方に暮れていた。
「――わかんないよ。そんなの。啓介はなんであたしじゃなきゃ駄目なの?」
「だから……それだって何度も言ってるだろう。好きなんだよ。それ以外何の理由がある? お前じゃなきゃ駄目だって、この六年って時間が証明してるだろう!?」
「これからもって、言える?」
いつもだったら「またまたー。具合でも悪いんじゃないの?」などと言って笑い出す輝美だったが、この日は違った。
話を逸らす事なく、語尾を荒げて啓介を問い詰める。
「ずっと好きだって言えるの!? いなくならないって、啓介は約束できるの!?」
輝美の口から飛び出した言葉の違和感に啓介はすぐに気付いた。
当の輝美も気が付いたのか、顔を歪ませて饒舌だった口をきゅっと噛み締めると顔を背けた。
だがそれを簡単に許す啓介ではない。少し乱暴に輝美の二の腕を掴むと力ずくで自分の方に身体を向けさせた。
背けられたままの顔が赤らんでいる。寒さもあるだろうが、その表情は明らかに喋りすぎた事を後悔していた。
「誰の事だ? “啓介は”って言ったろ。お前の前からいなくなったのは誰だ? ずっと一緒にいるって約束したヤツがいるのか!?」
啓介の胸の中では感情がまるで嵐のように荒れ狂っていた。
聞き出してソイツを殴ってやりたい。輝美の心の中に長く居座っている存在への嫉妬。自分の六年間の想いを少しも信じてくれていない悲しみ。
様々な思いに、思わず腕を掴む手に力が入る。が、次の瞬間啓介の手から力が抜け、腕が自由になった輝美はそのまま駆け出した。
どんどん離れて行く輝美の後姿を、啓介は見る事が出来なかった。それだけ自分の腕の中で見せた表情が啓介に大きな衝撃を与えていた。
「あいつ……泣いてた……」
* * *
「泣いてた? 輝ちゃんが?」
サークルの時からの仲間のひとり、林美羽が驚いたように問い返してきた。
あの日から三週間。あれ以来輝美は飲みの誘いも仲間内での集まりにも顔を出さなくなっていた。
電話には出るが「忙しいから」と言われるし、メールは無視。そうなると、さすがの啓介も凹むというものだ。
そんな時輝美の親友でもある美羽が啓介を心配して連絡をくれた。
「ああ……今までと違う感触だったから、俺も焦ったかもしれない。輝美があんなに恋愛から目を背ける原因が知りたくて、ちょっと強引だった……」
「それ……夜だった?」
てっきり自分の強引なやり方が頑なにさせたのだろうと思っていた啓介は、美羽の反応に驚いたように顔を上げた。
「夜? あ、あぁ……ホラ、前回皆で鍋会やっただろ? あの帰りだよ。夜十時過ぎくらいかな」
「そう……あの日って晴れてたよね」
「ああ。あいつ、星見るの好きじゃん? その時もずっと見てたな」
「…………」
「……どうした?」
「斎賀先輩は、人は死んだら星になるって、信じる?」
その言葉に啓介はドクンと強く打つのを感じた。
「――どういう事だ」
啓介の声のトーンが一転して低くなる。
その声を聞いて、美羽は輝美が何も話していない事を知り、フッと息を吐いた。
「――私は、信じてるの。私、両親が居ないでしょう? 叔母さんがそう話してくれたのよ。それ以来、夜が怖くなくなったの。空に沢山ある星の中から、パパとママが見守ってくれてるって感じて安心できたんだ。そしたらね、その話をしたら、輝ちゃん『あたしと一緒だね』って言うの」
「あいつの親は生きてるだろう!?」
啓介は一度だけだが田舎から遊びに来たという輝美の両親を見た事があった。
輝美によく似た快活な母親と物静かな父親で、既に結婚している兄夫婦と一緒に住んでいると記憶していた。
「ごめんなさい。それ以上は輝ちゃん本人に聞いて?」
「そうするよ。ごめんな、ありがと」
電話を切って、そのまますぐに輝美にかけたが数回のコールの後メッセージセンターのアナウンスに切り替わった。
「くそっ。俺がこのまま諦めるなんて思うなよな……!」
* * *
「お疲れさまー」
「あ、ハイ。お疲れ様です」
背後から突然声をかけられ、輝美が思わずビクリと身体を震わせて後ろを振り向くと、そこには苦笑いを浮かべた先輩が立っていた。
「どうしたのよー。輝美ちゃんらしくないじゃない? あんなミス」
「うわぁぁー。ほんっとスイマセン!」
この日の輝美はミスを連発した。受けた電話の伝言を上司に伝え忘れたり、製品番号を間違って発注したり――輝美の様子をおかしく思っていた先輩社員のフォローでなんとか事なきを得たが、輝美としては謝っても謝りきれない。
深々とお辞儀をした輝美のハーフコートのポケットからミスの元凶がまた震えだした。
昨晩から啓介からの連絡が絶えない。電話もメールも全て無視しているが、増えていく履歴に胸騒ぎがしてどうにも落ち着かない。
(忙しいって言ってからここ最近は電話も減ってたのに……)
昨晩着信に気付いた時点で既に六件も着信があった。何事かと五通届いていたメールを開封すると詳しい事は書かれていない。
『電話、出れないのか?』
『話したい』
『明日時間あるか?』
『会って話がしたい』
『もう寝てるのか? おやすみ』
これだけではどうして突然啓介が連絡攻撃を仕掛けてきたのか分からず戸惑ってしまい、電話に出るのが怖くなっていた。
そして今もまだポケットの中でブルブル震える電話を無理矢理無視していた。
突然またソワソワし始めた輝美を前に、三年先輩で既婚者の松本千香子は男絡みだとピンときた。
「輝美ちゃん……男ねっ!?」
「は、はぁ!?」
突然目を煌かせた先輩に輝美は及び腰になるが、他人の恋愛に首を突っ込みたいお年頃の千香子が放してくれるはずがない。
「今日のこと、悪いと思ってるなら付き合って! 旦那今日出張なのよ! 女子会やろう、女子会! 酒の肴は輝美ちゃんのコイバナ!」
「えええ! 女子会って二人でするもんですか!? しかも今の言い方だとあたし確実に生贄じゃないですか! 楽しくない!」
だが既に獲物は捉えられ、腕がガッシリと掴まれている。小さなビルの小さなロビーでのそのやり取りは、別フロアで働く他者の社員の目を引き段々視線を集めてきた。輝美はやっとそれに気付き、腕をとられた格好のまま出口へと移した。
自動ドアが開き、冬の乾いた冷たい空気が頬に触れる。
「これ以上嫌がったら目立つわよ。それに――」
「そ、それに?」
「このまま一人になっても鳴り続ける携帯に悩まされるわよ?」
――完敗だった。確かにこのまま一人になっても啓介を思い出し眠れぬ夜を過ごすだろう。それならその時間を少しでも先送りしたかった。
一瞬途方に暮れたような目をしると、輝美はコクリと頷いた。
今年の冬は特別空気が冷たい。通りに出るとビル風により、一層強く吹き付ける。二人はそれを知っているので身を縮こまらせて歩き出した。が、覚悟していた冷たい風はすぐに緩んだ。「あれ?」と思ったと同時に二人の頭の上から声が降ってきた。輝美は違う意味で背筋が冷えたが、既に遅かった。
「そこまで避けられても困るんだ。こっちも切羽詰ってるんでね」
誰の声かなんて、聞かなくても輝美には分かっていた。今このタイミングで目の前に現れる人物など一人しか居ない。
「輝美」
なかなか顔を上げない輝美に焦れたように啓介が名前を呼ぶ。
「う、うるさいな。今日は先輩と女子会なんだもの。啓介となんて話してる時間――」
「あります! どーぞどーぞ連れてってください! 私なんていつでもいいですから!」
「ちょっと先輩ッ!」
しっかり掴んでいた腕を放してぐいぐいと啓介に押し付けようとする千香子に抗議の声を上げるが、そんなものは今の千香子には到底効き目は無かった。
啓介という存在がこの場にこのタイミングで現れたことに千香子はすっかり興奮してしまっている。今の千香子に、啓介は白馬の王子様に見えているのだろう。
「明日! 明日ね! 話は明日たーっぷり聞かせてもらうから! いいわね!?」
有無を言わせず輝美の身体を啓介に押しやると、離れる間際に至近距離でそう凄んで千香子はあっという間に去って行った。
「輝美。オイ、こっち向けよ」
千香子に掴まれていた腕は、今啓介に掴まれている。千香子の者とは違う大きくて力強い手に掴まれていて振り払うこともできない。
それでもなお輝美は啓介の前から逃げ出す方法を考えていた。
(そうだ――会社の前で待ち伏せだなんてストーカー行為もいいとこだ。そう騒げば啓介だって手を離してくれるに違いないわ)
少し可哀相だけれど――そのほんの少しの躊躇で啓介が先に行動に移してしまった。
「頼むよ! 俺を捨てないでくれよ!」
「ストー……! は? アンタ何言ってんの?」
「君にとってたとえ俺が三番目の男でも、それでもいいから!!」
その言葉にこっそりと二人を窺っていた野次馬がざわざわと騒ぎ出す。
「ちょっ……止めてよ! 人聞きの悪い! ――わ、わかったわよ! 行くから!」
啓介の口が更に言葉を発しようとしたのを見て、慌てて輝美は制止した。
すぐにでもこの場を立ち去りたかった輝美は、啓介があけた助手席のドアからさっさと乗り込み、顔を隠すようにバッグを抱え込んだ。
車に乗せる事は容易では無いだろうと考えていた啓介はこれを見こっそり笑みを浮かべた。
「ひどい。明日から会社でじろじろ見られたらどうしてくれるのよ!」
運転席に乗った瞬間から輝美に文句を言われたが、啓介は何処吹く風だ。
実際、今日会って話せるのならどんな事でもするつもりだった。情けない男を演じるくらい恥ずかしくも何とも無い。
「電話に出ないお前が悪い」
「……忙しかったんだってば」
「定時に上がって先輩と食事に行ける程度にな」
分が悪いと思ったのか、今度は押し黙ってしまう。隣で頬を膨らませ不機嫌を隠そうともしない輝美だが、啓介にとっては誰よりも愛しい存在だ。三週間ぶりに会えた事で啓介は上機嫌だった。
確かにやり方は強引だったが、それでも助手席の輝美からは怯えは感じられない。啓介が輝美に害を成す事はないと分かっていて安心しているのだ。その証拠に行き先が何処なのかも訊ねてこない。
啓介は、自分がこの六年で輝美が安心して彼女自身を丸ごと預けられる存在になっていることを知っていた。そこに“男”として頼られている事も感じ取っていた。だが、なぜか輝美は一歩を踏み出さない。すぐ目の前で啓介が両手を広げて待っていると知っていてもだ。
だがそれは今日まで――。
啓介は今日輝美が踏み出せない理由を全て聞きだすと心に決めていた。
8月20日深夜:ご指摘いただきました誤字、修正しました。
なぜ『けっこん』の一発変換が『血痕』なの……うちのPC……。
と、ちょっぴり落ち込んだ出来事でした。
血生臭い誤字で申し訳なかったです(汗)