第十二話:余韻と喧騒
暗闇が辺りを覆いつくす中で、ある一点だけが煌々と輝いている。
空中に浮かんだ発光体がその周囲だけを照らしており、その他の場所は漆黒の闇に支配されている。
灯りの周りには室内だというにもかかわらず外套を身に付けた二人の男が向かい合う形で椅子に座っていた。
一人は頭まで外套を羽織っておりその顔を覗くことは出来ない。それでも纏う雰囲気は只者ではないことを告げるには充分すぎるほど高圧的で、しきりに机を指で弾くように叩いている。
もう一人も外套に隠れて顔を確認することは出来ないが、外套の隙間から垣間見える赤褐色の髪がやけに印象的である。
「それで、奴は見つかったのか?」
赤褐色の髪をした男が端的にもう一人の男に訊く。
机を叩き続けていたもう一人の男は指を動かすのを止めると、冷ややかな目で目の前の人物を睨み返す。
「見つかったことは見つかったが。……シリウス、どうしてそこまでしてそのラーグという少年を追い続けるんだ」
「お前が知る必要はない、キース。これも全てデュナス様の命令だ」
「けっ! 何でもかんでもデュナス様かよ、お前は。情報をあげたんだから理由くらい教えてくれてもいいだろうが」
キースと呼ばれた男は不機嫌な様子を隠そうともせずに自分の正面に座るシリウスに食って掛かる。
元々この二人の仲はあまり良くはないが、今回はデュナスの指示があったのでお互いに仕方なく同行しているのだった。
「――――ラーグ・バーテンは半龍種の生き残りだ」
「半龍種だと……?」
その言葉を聞いたキースは過去を思い返すように瞼を閉じていたが、何かを思い出したのか唐突に醜い笑い声を上げた。
「ああ……”あの”忌まわしき種族か」
そう言うとキースはおもむろに自分の胸を撫でだした。外套の上からでは目には見えないが、そこにはかつての大戦争で負った深い傷跡が今も尚くっきりと残っている。
「俺にここまで怪我を負わせたのは奴等が初めてだったな。ふん、あのことを思い出すだけでも忌々しい」
そう吐き捨てるキースの目には明らかな殺意が宿っている。
そんなキースを見据えながら、シリウスはこの男と一緒にいる現状に不満だった。
嫌っているとはいえキースの全てを否定するつもりはない。寧ろ戦闘能力だけならば尊敬に値するほど優秀な男だ。それでも常から一緒に居られるほどこの男は出来た男ではない。こうして戦場以外の場所でキースと共に過ごすことなど苦痛以外の何物でもない。
デュナスの命令でなければとうの昔にこの場を立ち去っているがそんな愚かな真似をするほどシリウスも馬鹿ではない。
今は必要としているからこうして共に同じ部屋にいる。要らぬ感情を含んで面倒な揉め事を起こすことだけは避けなければならないのだ。
「それで、俺はどうすればいいんだ?」
キースはそのギラギラした目をシリウスに向ける。その視線に耐えきれなくなったシリウスは目を逸らすと、当面の目的を告げた。
「動向に注意しておけ。どんな些細なことでもいいから何か動きがあればすぐに報告を入れろ」
「それだけでいいのか?」
「デュナス様からはそうとしか言われていない」
「ちゃんと見張っておけば問題ないんだな?」
「――――何を企んでいる? 下手に動くのは控えろ」
「別に何も。ただ面白そうなら遊ぶかもしれないがね」
そう言って不敵に笑う同志をシリウスは汚らわしいものでも見るような目つきで一蹴すると、この濁った空気から逃れるべく椅子から立ち上がる。
そのまま苦労もせずに扉に辿り着くと振り返りもせずにキースにとどめの忠告を言うことを忘れない。
「主導はお前だ。自由にするのは構わんが個人の感情一つで全てを無駄にするようなことだけはしてくれるな」
そう言い残すと、シリウスはキースの返答も聞かずに部屋を出ると後ろ手で無造作に扉を閉めた。
暗闇と静寂に支配された空間を難なく歩いていき建物の外に出たシリウスは灰色に染まった夜空を見上げる。本来なら綺麗な星空が広がっているはずのそこには雲に覆われた鈍重な鉛色が一面に展開しており、空から届くはずの微かな光さえ地上には届かない。
そんな景色を眺めながらシリウスはほくそ笑んでいた。
「やっと見つけた」
数年前に逃げられた、いや、敢えて逃がした少年。
主がわざわざ生かした半龍種の生き残り。
「デュナス様が期待するほどのものなのか」
これから先の経過次第で全ては明らかになる。
シリウスには主が待ち望むほどの存在なのか確かめる必要がある。
「もしもその価値がないと判断したならば――――」
そのときはこの手で殺してしまえばいい。
主の手を汚すことなくさっさと消し去ってやるつもりだ。
「せいぜい楽しませてくれたまえ、半龍種の残党よ」
シリウスの呟きは静かに闇の中へ消え去り、その姿も闇夜に紛れて段々と見えなくなっていった。
*****
あの、思い出すことも躊躇うくらい恥ずかしい経験をした日から二日ほど経過した日の朝のこと。
昨日、つまり忌まわしき≪ミールバルク事件≫が起こった翌日はとんでもない一日となってしまった。事件を目撃した侍女が朝訪れたときにはその顔にいやらしい笑みを携えていたし、その他の侍女や王国兵からも好奇に満ち溢れたものや嫉妬にまみれた痛い視線をたっぷり受け取る羽目になったのである。
そして今日は恐ろしいことに、ある人から呼び出しを食らっている。
ラーグを襲おうとしていたという誤った噂が流れてしまった女性の父親からの呼び出しだ。呼び出しというよりは殆ど命令に近いかもしれない。
確実にあのことについて問い質されると思うのだが、今回の一番の被害者は間違いなくエルメスだろう。公爵令嬢として育ち、それなりの英才教育を受けてきたはずの彼女があろうことか一介の平民男子相手に襲いかかろうとしていたところを運悪く目撃されてしまったのだから。
まあそんな噂は事実無根で本当はただ二人で話をしていただけだ。実際はエルメスがラーグを心配して少し熱が入ってしまっただけなのだ。
(――――そう、俺を心配してた、のか)
ラーグはエルメスが自分の異変を目ざとく察知していたことを今になって思い出した。あのとき侍女が介入していなければもっと疑われていたかもしれないのだ、その点に関しては侍女にきちんと感謝しているラーグ。
ともあれ、これからマルコに呼ばれたという事はその場にエルメスも居合わせる可能性が大いに高い。なら弁明のためにラーグの異変について切り出していてもおかしくはないだろう。
ラーグは頭痛が酷くなったような気がした。間違いなく悩みの種が一つ増えてしまった。
あれだけアレクセイの部屋でマルコに冷たく当たったうえで今度は娘の件で顔を合わせなければならないというのだから、人生はなかなか過酷な命を授けるものだ。
マルコとどう顔を合わせるか、そしてどうやってエルメスに事を説明するか、ラーグは足を進めながら必死になって思考を稼働させていた。
頑張っては見たものの歩きながらでは考える時間にも限りがある。それにラーグの部屋からマルコがいるという応接間までの距離は一本道なので、あっという間に到着してしまうのである。
そうこうしているうちに応接間の前に来てしまったラーグ。結局有効な考えは浮かばず、途方に暮れながら目の前に佇む扉をぼんやりと眺めていた。
扉の前には監視役の兵が二名配属されていた。初めはただ黙ってラーグを横目で見ていたのだが、一向に入る素振りを見せないラーグの様子を見て怪訝に思ったのかやや躊躇ってからそっと声を掛けてきた。
「……入らないのか? 中でローヴァンヌ公爵がお待ちになられているが」
言われて正気に戻ったラーグは驚いたように兵を見やると、一つ小さな咳払いをすると少しの間を置いて「今から入る」とだけ言った。
嫌々といった感じで扉に手をかけたラーグだが、腹を括ったのか息を大きく吸い込むと、軽く二度ノックをしてから扉に触れる手に力を入れてゆっくりと押し開いた。
「だから!! あれはあくまで噂なのよ!! 私はラーグを襲ったりなんかしてないんだってば!!」
「本当に本当だろうね!? ラーグ君からではなくお前から……」
「だから襲ってないっ!」
「ついにエルメスも本格的にアプローチに出たんだな! あれか、これが俗に言う肉食系というやつなのか」
「話が噛み合ってない!!」
これほど修羅場という言葉がふさわしい状況に遭遇したのは久しぶりかもしれない。
修羅場といっても両者が怒っているわけではなくて、一方は思いっきり勘違いをしているから正確には修羅場は成立していないのだが、もう一方の怒鳴りかたが半端ではないのであたかも血なまぐさい凄惨な光景が広がっているような錯覚を起こしても仕方がない。
言い合っている二人が扉を開けて体を半分ほど室内に入れたまま固まっているラーグに気付く気配はない。
ラーグの動きが止まったことに違和感を覚えた監視兵が部屋を覗いたが、中の状況を確認して理由が痛いほど分かってしまったようだ。
兵士たちはラーグに憐れみの眼差しをちらと向けると、半分出たままのラーグの体を無理やり押し込めてそのまま扉を閉めてしまった。
早くこのゴタゴタを片付けろと言わんばかりの兵士たちの早業に感嘆よりも苛立ちが勝るのは気のせいだろうか。確かにこの揉め事の片棒を担いでいるのは他ならぬラーグ自身なのだから反論のしようがない。
助けがいなくなったところでどうしようかと悩みかけたラーグだったが、どうやら神様は考える時間を与えてくれる気は全くないようだ。
扉の閉まる音に気付いたエルメスとマルコが一緒に此方へ顔を向けたのだ。
たった今完全に自分の存在を認識されてしまったので、もうどう足掻いても言い訳をするのは不可能だ。
「――――ラーグ」
「――――ラーグ君」
揃いも揃って同じような反応を見せるところは流石親子である。
突然のラーグの登場に困惑の表情と阿呆な面を晒している二人は、先程までの言い合いを忘れてラーグを注視している。注視されても別に魔法を使ったわけじゃなくて普通に入り口から現れただけだからどうすることも出来ないのだが。
「あのー、お取込み中のようなので俺はこれで」
「待ちなさい!!」
「待ちたまえ!」
やっぱりそう簡単にいくわけがなかった。
踵を返したラーグを見てエルメスとマルコは見事までの連携を見せて捕獲しようと迫ってきたのだ。猛然と近付いてくる二人を見て、ラーグは初めて戦い以外で人に恐怖を抱いた。
「いやー、そんな鬼のような形相で迫ってこないでくれ、反応に困る」
「ええ、ええ、逃がしませんとも」
「ラーグ君も交えて話をしないとと思ってたんだ。丁度いいから今すぐに話をしよう。さあ、逃げずにこっちへ!!」
「あなたが俺を呼んだんでしょうに。というか、その血走った目を何とか――――」
些細な抵抗も意味を成すことはなく、あっけなく二人の手中に収まったラーグ。
引きずられるようにしてソファまで連れて行かれると、無理矢理座らされてその前と横を占領されてしまった。
ラーグは今この時を以て、人は何かに執着すると強くなるという情報は間違っていないと身に染みて理解することが出来た。少なくとも現在のエルメスとマルコの二人には敵う気がしなかった。
諦めの境地に辿り着いたところでラーグは現状に向き合う決断をした。どうせ会話せねば今日を安全に終えられるはずもないのだから、潔く目の前の問題を解決することに全身全霊をかけることにしたのだ。
「あの、まずは……先日はすまなかった」
まずは先日の失態について謝罪しておいた方がいいと思って頭を下げたラーグ。
エルメスは何のことか見当がついていない様子で首を傾げていたが、先日の一件を目の当たりにしたマルコは暫し瞬きをした後、苦笑いを浮かべていた。
「ああ、別に構わないよ。君のことを考えずに一方的に押し付けようとした此方側にも非があるさ。ラーグ君が謝る必要はない」
「だが取り乱して迷惑をかけたことも事実だろう? 何もなしじゃこっちの気が収まらないものでな、一応の謝罪はさせてもらう」
「ははは!! ラーグ君は律儀だね。いよいよ君が欲しくなった」
「――? 何の話だ?」
マルコの言っている意味を充分に噛み砕く前にエルメスの悲鳴に近い叫び声が部屋中に響き渡ったのは言うまでもない。
「お父様!! へ、変な事を言わないでください!!」
「おやおや、どこが変だと言うんだい? 私はエルメスのことを考えているからこそ、こうして一生懸命娘の為に身を粉にしてだな――――」
「今に限っては大きなお世話です!! 余計な口出しは慎んでください!!」
「……やっぱりお邪魔だろうか」
「ラーグ、私を置いて行かないでちょうだい!」
展開についていくことが出来ていないラーグには、生憎目の前で繰り広げられる親子喧嘩を見ているだけの余裕は持ち合わせていなかった。
父に怒り、ラーグに懇願するエルメスは傍から見ればさぞ滑稽に映ったことだろう。
「分かった、分かったからそんな必死に袖を引っ張らないでくれ」
ラーグが逃げ出さないように服の袖を掴んでいるエルメスだが、この勢いだと生地がダランダランに伸びてしまいかねない。
どこにも逃げないという意思表示をしてエルメスを落ち着かせたおかげで何とか服の修繕を頼まなくても済んだが、代わりに横にピッタリ張り付かれてしまったのでラーグは少々居心地が悪くなった。
「――――いくらなんでも近くないか?」
「――――――――」
「――――はあ、もういい」
エルメスとの会話を強制的に終了させたラーグは、目の前で二人のやり取りを満面の笑みを浮かべて見守っていたマルコに方向を変更した。
先の読めない展開が続いたせいで自分が何故ここにいるのか忘れかけたが、元はといえばマルコがラーグを呼び出したのだから、エルメスとではなくマルコと話をしなければ根本的に解決はしないのだ。
しかも話の話題はおそらく二日前の未遂事件についてだ。
部屋に入った時の会話から見てどうやら怒っているわけではなさそうなので少し安心したが、それでもこれから色々と質問攻めを食らうのだろうから気は引き締めておかなければならない。万が一にもエルメスに悪影響が及ぶ感じになれば申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまうので、何とかしてエルメスの無実だけは父親に納得してもらわなければならない。
「それで、俺を読んだ理由は何だろうか」
「ああ、大体察しているとは思うが、二人の間で噂になっている問題なんだが――」
予想通りの話にいくらか余裕を取り戻したラーグ。
これに対する答えは決まっているので返答に困ることもない。適当にあしらって早く切り上げようと意気揚々としていたのだが、ラーグの目論みはいとも容易く打ち砕かれることとなる。
「侍女の話では娘がラーグ君に迫っていたとか」
「確かにあの状況だけ見たら勘違いしてもおかしくはなかったです。でもはっきり言えることは、俺はエルメスに手を出したりしていないし、エルメスも俺に手は出していない。つまり噂になるような問題は起こっていないんです」
「……つまり、うちの娘は君を襲っていない?」
「ええ、襲ってないですけど……?」
ええと、何故にそんな残念そうな顔をしているのだろうか?
真実を聞いたマルコは如何にも失望したという意味の篭もった眼差しを自分の娘に向けており、ラーグにはその意味を理解することは少し、いや、かなり難しかった。
「――――手を出しておけば後々の面倒を少しは軽減できたのに」
今何か聞きたくない言葉が流れてきた気がしたがラーグは努めて耳に入らないように努力した。世の中には聞かないほうがいいこともあるものだ。今回は多分この部類に属することだと思われる。
「――――ええと、マルコさん……?」
「ん? いやいや何でもないから気にしないでくれ」
ラーグは今はこの言葉に遠慮なく乗っかることにした。
気にはなるがそこは大人の事情という複雑怪奇な問題が転がっているはずで、不用意に踏み込むのはきっとタメにはならないだろう。ならばここは少年らしく何も知らぬ存ぜぬを貫き通した方が賢明ではないだろうか。
「……分かりました」
こうしてマルコとの面会はあっけなく終了した。
少し憂鬱になっていたラーグからすればこんなに簡単に終わってホッとしたのも束の間、もう一つ問題が残っていたことを思い出した。
それはもう、面倒な問題が。
「お父様、ラーグに何があったのか詳しく説明して下さるかしら?」
よくよく考えれば一番厄介な問題がついに陽の目を浴びることになった。
マルコも娘からこんなことを聞かれるとは思いもしていなかったのか、目を点にして愛娘を凝視していた。
ラーグも躍起になるエルメスを見て正直驚いていた。二日前に周りが見えなくなって侍女の勘違いを誘ってしまうくらいラーグのことを知りたがっていたのだからこれくらい予想の範疇にあってもいいはずなのだが、今日の衝撃が強すぎて不覚にも完全に忘れ去ってしまっていたなどとは口が裂けても言えない。
とにかく今の時点ではっきりと言えることは、私室での出来事を今すぐ事細やかに伝えるわけにはいかないという事だ。
ラーグとしては自分の気持ちも纏められていない中で無駄に他人に迷惑をかけるわけにはいかないという正義感から話をするわけにはいかないし、マルコとしてはラーグがいなくなるかもしれないなどとエルメスに言えばどんな凄惨な末路が待ち受けているか分からないので、これまた下手に話をするわけにもいかない。
考えがまとまった二人の行動は実に迅速だった。
ラーグとマルコは一瞬だけ目配せをすると同時にまるで心が通じ合ったかのような意思疎通を惜しげもなく披露したのだ。
「マルコさん、良かったらお昼ご一緒しませんか? 最近見つけたいいパン屋さんがあるんですが、そこでゆっくり話でも」
「いやー、それはいい、是非お願いしよう!!」
「え? なら私も……」
「何を言ってるんだ。男同士の語り合いに女性が入ってくるもんじゃないぞ!!」
「そうだ、父親の言うことは聞いておくべきだな」
「え? え? じゃあ私は」
「たまにはゆっくり過ごしなさい。屋敷に戻ってくつろいでいてもいいぞ」
「ああ、それがいい。たまには息抜きが必要だろうし。あ、それじゃ俺はそろそろ行きますね」
「え!? ラーグっ、どこに行くの!!」
「たまには体は動かさないといけないからな。お昼までには戻りますからまた後で会いましょう、マルコさん」
「んー、分かったよ。また後でね」
怒涛の会話は二人の意志で強制的に終了することとなった。
この作戦は一刻も早くこの場を去ることが不可欠なのだ。ここでエルメスに攻め手を与えてしまったらせっかくの機会を台無しにしてしまう。
「ちょ……ちょっと待って!! まだ話は――――」
如何に可愛らしい容姿で迫られても退くわけにはいかない一線があるのだ。
ラーグは断腸の思いで応接間を後にすることにした。後ろから断末魔のような苦しい声が漏れてきたが一切構わずに部屋から退出した。
扉を閉じる直前に部屋の中から、
「ラーグぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
という呪文に近い小言が聞こえてきたが、ラーグはその全てを無視して開いていた扉をパタンと閉めた。
部屋を閉じて喧騒から解放されると外の空気がいつもより清々しく感じられたのは多分気のせいではないはずだ。さっきまで肩にのしかかってきていた無言の重圧が今は感じられず、体は普段より幾分も軽くなったきがする。
「俺は、勝った」
当事者にしか理解できない言葉は相変わらず部屋の前で待機していた二人の監視兵に意味が通じるわけもなく、兵士たちはただラーグを疑問の目で見つめ続けるばかりだ。
そんな様子を気にすることもなく、ラーグは表面上は来た時と同じ様子で歩き出していく。目的地は先日見つけた庭園だ。あそこはラーグが発見した数少ない憩いの場所で、自主練で剣を振るっている場所でもある。マルコと約束した時間になるまであそこで体を動かす算段だ。
歩き去っていくラーグの後ろ姿を見て、監視兵たちは複雑な視線を向けていた。
「なあ、相棒」
「ん? どうした?」
「あいつ、来たときより活き活きしてなかったか」
「気のせいだろ。――――気のせいだろ」
「何で二回言ったんだよ」
「うるせえ! 気にすんな」
とは言いつつも一方の兵士が言ったことを真っ向から否定出来なかった。
ラーグの周囲を形作る雰囲気にはどう見ても何かのしがらみから解放された雛鳥のようなオーラが漂っていたように見えたから。
「――エルメス嬢に襲われたって本当かな?」
「所詮噂だろ。じゃなけりゃあんなに落ち着いてられるかよ」
「分かんないぜ? はあー、俺もエルメス嬢とあんなことやこんなことを――――」
戯言を抜かす男に、後ろの扉から僅かに顔を見せていた冷ややかな目をした女性から天誅の名の下に行われた制裁の音が鳴り響いたことは誰も知る由もない。