第十話:芽生えかけた気持ち
太陽が徐々に沈んでいくなかで、ラーグは街並みを見渡しながら通りを闊歩していた。夕食の下準備のためか、食材の調達に来ている女性が多く見受けられる光景を視界の隅に捉えながらラーグは黙々と足を進めていく。
特に目指す場所があるわけではないが、とにかく今は歩き続けたい気分だった。
その場の流れに身を任せて行き当たりばったりで街に出てみたはいいが、散策に出てすぐに何処に向かうかで早くも悩み始めてしまうという不手際を晒しかけたので、とりあえずブラブラと歩いてみるという当たり前の結論に至ったラーグ。今は数ある商店が所狭しと並んでいる大規模な市の中を人ごみを巧みに避けながら進んでいるところだ。
普段のラーグなら大勢の人目に晒される場所に赴くことは珍しいのだが、今はそんな様子を気にすることもなく悠然とした振る舞いをしている。
並び立つ露店にふと目を向けると見慣れた店があることに気が付いた。そこは以前、行列が出来るほど美味しいと評判のパンを購入したあの店だった。
この時間帯はあまり混雑しないのか、先日ほどの賑わいはなかったが、店からは相変わらず焼きたてのパンの香ばしい匂いが辺りに充満しており、それが道行く人々の胃を刺激していく。
「おや、こないだの美少年じゃないか!」
店の前で佇んでいると、奥から女性が声を掛けてきた。先日買いに来た時にラーグに応対してくれた四十半ばと思しき女性だった。
わざわざ店先まで顔を出しに来てくれた女性は、ラーグを見ると人懐っこそうな笑みを浮かべて話しかけてくれた。
「今日は前みたいに賑やかなお連れはいないのかい?」
「あれは俺のせいじゃありません。勘弁してくださいよ」
「こぉんの色男め! 大層な口を叩く子だねぇ」
女性は先程とは打って変わって少し意地の悪い笑みを浮かべると、ラーグに対してまるで試すかのように茶化し始めた。それを言葉巧みに受け流していたラーグだったが、あまりにもしつこくからかわれるので柔軟で有名(?)なラーグの堪忍袋も我慢の限界に達しようとしていた。
それを首尾よく察知した女性は見事なまでに一線を退いていった。
「さてと、お遊びはこれくらいにしておこうか」
「……俺で遊ばないでください」
王都の御婦人方の間では若者をからかう習慣でもあるのか。
ちゃんとした会話をするのは今日が初めてのはずだが、まさか開口一番にこのような扱いを受けるとは夢にも思わなかった。
困惑の表情を浮かべながらラーグが対応に困っていると隣の露店の店主がいいタイミングで助け船を出してくれた。
「おいおい、有名人をからかうのはそのへんにしとけよ」
「何言ってんだい! こんな男の子で遊ばないと勿体ないだろ?」
「アンタは趣味が悪いんだよ。若い男にばっか目を向けやがって!」
「お前さんみたいな親父に興味なんか湧かないね!」
「何だとぉ!? もっぺん言ってみろ!」
助けに来てくれたはずがいつの間にか当人を蚊帳の外に放り出して口喧嘩を始めだしたので、ラーグが慌てて仲裁に入る羽目となった。それを面白そうに見ていた他の客が「いつものことだ」と笑っていたのでこれ以上の心配をする必要はなかったが、こんな出来事が日常的に行われているのはどうなのかと少し疑問に思ってしまった。
ようやく落ち着きを取り戻したところで女性が話を現実に引き戻してラーグに顔を向けて話しかけてきた。
「アタシの名前はパトゥ・フィギンス。見ての通りこの店でパンを売ってるしがないパン職人だよ。まあこれでも腕には多少の自信はあるから味だけは保証するよ」
「初めましてパトゥさん。俺はラーグ・バーテンと言います」
丁寧に挨拶を返すとパトゥは興味津々といった感じで朗らかに相槌を打っていた。
「アンタのことは街中で噂になってるよ。武闘大会であれだけ活躍をすれば嫌でも女どもの格好の餌になるもんだからね」
「そんなに知れ渡ってるんですか?」
「知れ渡ってるなんてレベルじゃないよ! 若い娘は皆頬を赤く染めながら語り歩いてるし、親に至ってはどうやってアンタを婿にするかとかどうやって嫁がせるかとか、そんなことばっか話してるよ」
「……少し話が飛躍しすぎでしょうに」
まだ王都に来て数日だというのにこの話の膨れ具合は一体どうなっているのか。俺に断わりもなく勝手に話が進んでいっているではないか。まあ確かに俺に話を通す必要性はないに等しいが、こうも大袈裟に話が誇張されていると流石に個人の勝手な妄想でも文句の一つでもつけたくなる。
「実際そうでもないみたいだよ? アンタ半龍種なんだってねえ。貴族とは違って婚姻話に制限はないだろうから、平民の女からしたら割と真剣に考えてる子もいるみたいだよ?」
そう言われると尚更意味が分からなくなってくる。
何故見ず知らずの自分と婚約なんかしたがるのか、ラーグには全く見当もつかない。
「何故俺なんかと?」
「――――本気で言ってるのかい?」
「え? ええ、本気です、けど……」
誤解されたら困るだろうが、ラーグは決して嘘はついていない。
ラーグ自身がその容姿に自信を持っていないので周りがどうこう言おうともそれが覆されることは殆どありえない話なのだ。
「――――自覚がないってのは怖いね」
「ああ、全くその通りだ」
先程まで喧嘩していたのが嘘のように息が合った答えを返してきたので、客が言っていたことは本当なんだと今更ながらに理解することが出来たラーグ。
とはいえ、このまま放っておくとこの話を延々としそうな気配が漂っていたので、ラーグは急いでパンを半斤注文することにした。
「半斤でもかなりの量だよ。こんな時間から大丈夫かい?」
「こう見えても大食漢なもので。ご心配は無用です」
そう言うとパトゥは笑顔で喜び、奥へ準備しに行った。
暫くしてパンを詰めた大きな袋を手に持って戻ってくると、それをラーグに手渡してから一言。
「若い子は沢山食べるね。アタシも作り甲斐があるよ」
「パトゥさんの作るパンは別腹ですよ。こんな美味しいパンはそうそうお目にかかれないでしょうから」
「あら! ラーグ君ってば、一丁前な事を!」
そう言いつつもパトゥの顔には嬉々とした感情が滲み出ており、ラーグの言葉に大変感激しているようだ。
迎えてくれた時と同じような人懐っこい笑みでラーグを見送りに来ると、店を去り際のラーグに向けて声を掛けた。
「またいつでもおいで。今度はパン奢ってあげるよ、隣のおじさんがね」
「おいっ! 何でおれが奢らないといけねえんだ!」
また二人が喧嘩を始めそうな空気になっていたが、ラーグにはもうその喧騒は殆ど聞こえていなかった。
パトゥが言った『今度』はいつ訪れるというのか。
もう次など来ないかもしれないというのに。
もう二度と顔を合わせることはないかもしれないのに。
脳内では色々な考えが巡っていたがそれを顔に出すことはなく、ラーグは二人を刺激しないように静かにその場を離れていった。
*****
パン屋を後にしてからも暫く歩き続けていたラーグは、購入したパンを頬張りながらゆっくりと路地裏を探検していた。
さっき思い悩んだ事実を今一度思い返し、再び憂鬱な気分となる。
「パトゥさんは俺のことを何も知らない」
そう、彼女はラーグの生い立ちを知らない。
何も知らないからまた来るよう言ってくれた。
「――――それでも素直に嬉しかったな」
自分に呼びかけてくれたパトゥの気遣いに対して、ただ純粋に喜びの感情が湧きあがってきたラーグ。
生まれてから両親と数少ない知人以外で下心なしに親しくされたことのないラーグにとってパトゥの接し方は凄く新鮮で、その好意的な態度には素直に驚いていた。
勿論彼女の根っからの性格なのだろうが、今までの経験で出会ったことのない人柄だったのでラーグは非常に知的好奇心を刺激された。
ミールバルク城での一件で憤り混乱し、王都に留まる気持ちなど起こりはしなかったはずなのに、ほんの少しのやり取りだけでまたあのパン屋に足を運びたいと考えてしまっている。パン屋を訪れるだけなら王都に滞在しなくても出来るのだが、このまま放浪したままだと次はいつここに来ることになるかは分かったものじゃない。
何よりもパトゥと触れ合ったことで心に差した温かさが先程からずっと胸の奥に引っかかっており、何とも説明しがたい感覚に襲われていた。
「ここに来てから随分と感化されている気がするな」
誰にも聞こえない独り言を呟きながら路地の角を曲がると、曲がった道の先で蹲っている一人の少年を発見した。
通りから離れたこのような路地で子供が一人でいることに驚きを隠せないラーグだが、その感情をおくびにも出さずに目の前の少年を慎重に観察した。
少年の手足はひどく痩せこけており、着ている服も到底服とは呼べないような粗末な布で作られた物を身に付けている。ラーグに気が付いた少年は虚ろな目を此方へ向けたが、興味を失ったかのように視線は逸らされまた宙を彷徨いだした。
生気の抜けたようなその態度を見てラーグは密かに慄いた。大通りには目の前の少年と同年代の子が沢山いるという事もあるが、何より自分よりも幼い少年がこの世に絶望したような雰囲気を漂わせていることが衝撃だった。
ラーグはゆっくりと少年のそばに近寄るとしゃがみこみ、少年の生気の感じられない目をしっかり見据えながら話しかけた。
「おい、ここで何をしている」
問いかけられても少年は何も答えようとしない。
根気よく我慢しているラーグはもう一度問いかける。
「こんな薄暗い場所で危ないだろう。家には戻らないのか?」
そう問われたとき、ようやく少年の視界がラーグの姿を捉えた。
重そうな瞼を一度二度と開閉した後、少年の口から微かな空気音が鳴った。それを聞き取ることが出来なかったラーグが少年の口元に耳を寄せると、少年はもう一度口を動かした。
「――――俺に、家なんて、ないよ」
少年が言った言葉をラーグは信じることが出来ずにいた。王都に来て街を暫く見てきたが皆一様に幸せそうな笑顔を浮かべていたし、この都の情勢で帰る家がない人がいるなど想像もできなかった。
それでもこの少年が嘘を言っているようにも見えないし、ラーグは渋々ながらも少年の言葉を受け入れざるを得なかった。
「一体どうした? 何があったんだ?」
「――――兄ちゃんには、関係ないだろ」
吐き捨てるようにそう述べた少年はラーグから視線を逸らそうとしたが、ラーグが顎を掴んで無理矢理顔を此方へ向けさせたため逸らすことが出来なかった。
ラーグは少年と目を合わせたまま、はっきりと言い放った。
「お前の身の上話には一切触れるつもりはないがな、ここでこうして出会った以上は関係ないとは言い切れないだろうが。通りかかった路地で子供が座り込んでたら普通気にするだろう?」
「――――――――」
ラーグの言葉を聞いた少年は黙り込んでしまい、話は続かない。そんな態度にうんざりしたラーグは不機嫌になりそうな気持ちを抑えつつ少年に質問をしていく。
「お前、名前は?」
「――――シェイ」
蹲ったままの少年――――シェイはラーグの質問に一言だけ呟いた。
返答があったことに気を良くしたのか、ラーグは続けざまに質問を重ねていく。
「年はいくつだ?」
「今年で十四になる」
先程よりも覇気の篭もった声でそう答えたシェイは、ラーグが抱えていた大きな紙袋に目を奪われていた。
そんな事に気付きもしないラーグはシェイの年齢が十四であることを知り、かつての自分と姿を重ね合わせていた。
ラーグが家族を失い、人生から希望という言葉が消え去ったのも同じ年頃の時だった。経緯は違えども今目の前にいる少年は確実にかつてのラーグと同じ目をしていた。それを知ったラーグはシェイのことをどうでもいい他人とは思えなくなってしまい、ついつい彼の内情に入り込もうとしてしてしまう。
「シェイは今どこで生活を?」
「この近くにある廃家に母さんと住んでる」
「……食べ物や、飲み物は?」
「靴磨きで少しは稼いでるけど、とてもじゃないけど養っていけないよ。だからたまに近くの店で盗んだりしてる」
事情を聞けば聞くほど少年の生活環境が如何に悪いかがよく理解できた。
シェイが言うには、以前は家族三人で平穏な生活を送っていたが父親が職を失ったことでその環境が一変してしまったそうだ。仕事を失くした父親は次第に暴力を振るうようになり、挙句の果てにシェイと母親を残して家を出て行ったそうだ。
稼ぎ手のいなくなったシェイたちが家の家賃を支払えるわけもなく、なくなく住んでいた家を出て行ったらしい。そこからこのひっそりとした廃家に移り住むと、シェイは母親を助けるためにどうにか仕事を見つけて始めたのだそうだ。
大体の話を聞いていたラーグにシェイが恐る恐る話しかけてきた。先ほどとはまた違って十四の少年らしい弱々しい声音だった。
「ごめんなさい。こんな話聞かせてしまって」
「いや、いいんだ。シェイのせいじゃない」
「有り難う。そ、それで、えっと、その……」
突然口ごもったシェイの様子に不審げに見つめていたラーグだが、その視線が自分の持つ紙袋に向けられていることを知るとラーグは何も言わずに紙袋ごとシェイに突き出した。
その行動に驚いたシェイが慌てて紙袋を押し返してきた。
「いや! あの、全部頂くわけには!」
「いいって。パン屋の店主とは顔馴染みだからまたいつでも買える。腹減ってるんだろ? とりあえずこれ食えよ」
そう言ってラーグが再び袋を突き返すと、シェイは申し訳なさそうにしながらも嬉しそうな表情をしながら入っていたパンに噛り付いた。美味しそうにパンを頬張るシェイはとても幸せそうで見ているこっちまで笑みが浮かんでくる。
暫く食事に夢中になっていたシェイだが、今の事態を思い出したのか口に残っていたパンを急いで飲み下すとシェイの様子をじっと見守っていたラーグをチラッと横目で見てきた。ラーグはそんなシェイを見ても嫌な顔をすることなく、寧ろいつにも増して優しい目で見つめていた。
「あ、あの……すみません」
「いやいやいや、どうして謝る」
唐突に謝罪の言葉を口にしたシェイを見てラーグはいよいよ面白おかしくなりこらえていた笑いを我慢することが出来なかった。
いきなり笑われたシェイは何が何だか分からずにラーグを見つめるばかりだ。事態を飲み込めないシェイの姿を見て何とか笑いを押し留めたラーグは真面目な顔で語りかけた。
「シェイの一挙一動が可愛らしくてつい笑みが零れてしまった」
「男性に褒められても嬉しくないです!」
初めの暗さはどこへやら、ごく普通の少年に戻ったシェイは本当に明るい性格でラーグと接することが出来ていた。それを見てシェイは母親思いのいい子なのだと今なら理解できる。母親を養うためにこの子なりに必死に頑張っているのだろうが、現実はそう甘くはない。満足のいく稼ぎを得ることもできずに盗みに手を出さないと二人の生活を維持することは出来ないのだ。
ラーグは腰から銅貨と銀貨の入った巾着を取り出すと、それをシェイに手渡した。一瞬何か理解できていないシェイだったが、中身が分かると途端に焦って巾着をラーグに返そうとする。
「こ、これは受け取れません! こんな、こんな大金を!」
動揺しているシェイをどうにかして落ち着かせるとラーグは説き伏せるようにゆっくりと話を紡いでいく。
「これでも俺は武闘大会で優秀者に選ばれた男だからな、結構な額のお金を貰ってあるんだ。これくらいなら別に大丈夫だ」
「そうは言っても……!!」
これくらいとはいえ、子供からすれば巾着に入っている額は相当の大金だ。
巾着に入っているのは銅貨が約八十枚に銀貨が十四枚。この世界での貨幣価値が、銅貨百枚と銀貨一枚が同価値で銀貨百枚と金貨一枚が同価値なので、少なくとも巾着には銀貨約十五枚分の金が入っていることになる。これは二人が暮らしていくのに当面苦労することはない金額だ。
こんな大金を前にして驚くなというほうが無理がある。残念ながらシェイにはそんな図太い神経は持ち合わせていない。
「いいから。これで暫くは母親を養えるだろ? そのうちにもっといっぱい稼いで早く親に楽をさせてやりな」
ラーグに言われて納得がいかないながらも礼を言えるところは子供なりに礼儀を知っているということか。素直に巾着を受け取ったシェイは感謝の念が体中から湧き出てくるかのような雰囲気を纏いながらラーグを見上げている。
それを確認したラーグは「よし」と一言呟くと、おもむろに立ち上がって今二人がいる路地を歩いて去ろうとした。
「あ……ちょっと待って!」
シェイに呼び止められたラーグは後ろを振り向くと、シェイの続きの言葉を促した。
「もしよかったら兄ちゃんの名前を教えて?」
問われたラーグはシェイにそっと声を掛けた。
「俺の名前はラーグ・バーテンだ。シェイ、またな」
それだけ言うとラーグは前を向き歩みを再開させた。
その後ろ姿に向けてシェイが感謝の言葉を投げかけ続けている。シェイの声はラーグが路地を曲がり姿が見えなくなるまでずっと聞こえていた。
シェイの声を聞いてラーグが密かに微笑んでいたことは誰も知ることはなかった。