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小谷落城

作者: 桜崎比呂

戦国小説の連作。時間的には小谷城落城時です。

「羽柴秀吉殿より、書状が参っております」

 一通の書状が舞い込んだのは、小谷の落城も近い、8月28日のことだった。

 浅井長政は既に、終焉を覚悟していた。父久政は自害して果てた。家臣たちとも合議し、今から織田家中へ下ることもなくなった。皆城を枕に果てる覚悟はできている。

 長政は恐らく、羽柴秀吉からの書状を読まずとも、内容は予想がついていたのだろう。その書状をぱらりと開くと、あまり目を通すこともなくすぐに畳んだ。

「羽柴殿はなんと?」

「決まっておる。市と姫たちのことじゃ」

 長政は吐き捨てるように言った。それ以外考えられない。当時、女子どもは落城前に外に出すという了解があった。

「市と娘たちの助命を条件に、降伏しないかとのことじゃ」

「なんと……!」

 重臣の一人は黙り込んだ。

 確かに浅井は今、大きな切り札を抱えている。現在浅井を危機的状況に追い込んでいる、織田信長の妹市姫だ。市姫は織田と浅井の同盟の証として、織田家からやってきた長政の正室。2男3女を儲けるほど夫婦仲は良好だった。

 ……武士の一分か、愛する家族か。長政の頭に去来したのはそれだった。

 恐らく織田方は、市姫と子どもたちを織田から浅井への人質として考え、落城近い小谷城にいる自分や浅井の軍勢が、見せしめに彼女たちの命を奪うのではないかと警戒しているのだろう。市姫と子どもたちは織田方の人間だと考えているからこその発言であることは容易に想像がつく。

 当時は嫁いでも実家の人間だと考えられることも多かった。婚家と実家が敵対した場合、妻は実家につく。それが当然だと考えられている。政略結婚の場合、妻はあくまでも実家の人間なのだ。実家にとっては間諜、婚家にとっては人質。それが当時の政略結婚の在り方である。

 しかしだ。長政にとっては、正室である市姫も子どもたちも浅井の人間であり、自分の家族であることに変わりはない。まして、彼女たちの命を楯にしてみずからが助かろうなどとは、到底思ってはいない。

 ――妻と子どもたちは助けたい。それは娘たちだけでなく、万福丸と万寿丸、ふたりの息子たちとておなじことだった。しかし生涯、市とともに。頭の中には矛盾した考えばかりがちらつき、長政の正常な思考を邪魔しようとする。どう考えても事ここに極まったことを、長政は痛感していた。

 思えば市姫とは不思議な縁だった。自分は当初、浅井賢政と名乗り、同盟を結ぶ六角氏の縁で正室を娶っていた。しかし自分の意志で治めたい、そう思った自分は六角氏の正室を返し、名前も長政と改めた。そして織田信長と同盟を結び、その証として市姫を正室として娶った。

 政略結婚だった。しかし、彼女とは不思議と馬が合い、生涯ただひとりのひとと決めていた。

 比翼の鳥とも、連理の枝とも。源氏物語ではないが、そう誓った仲だった。

 長政は目を閉じて彫像のように固まったまま、動かなかった。

 ……そのまま小半時ほどのときが流れただろうか。長政は眼をかっと見開くと、告げた。

「腹は決まった。市と、姫たちを呼べ」



「今……今、何と仰せになられました!」

 長政の眼前で、市は驚愕した。

 夫とともに最後まで。そのような気持ちでいたのに、にわかにそれがかなわなくなりつつあるのを、まだ市は実感できない。

 頭の中に蘇る、やさしい兄の面影。いくら婚家と実家が敵対しても、兄が、優しかった兄が自分の愛するひとを完全に滅ぼすことはないと信じていた。

 しかし上座に座る長政は今、妻である市に向けて、言った。落ちよ、と。それは市にとって最後通牒だった。兄は本気で夫を殺そうとしているということ。そして夫はそれを、受け入れようとしていること。どちらも市には信じがたいことだった。

「比翼の鳥とも連理の枝とも……仰せになったではありませぬか!それなのに……わたくしにだけ、落ちよと仰せられるのですか!」

「そなただけではない。茶々と初、江もじゃ」

「そういうことではございません!」

 市の大声に恐れをなしたのだろう、乳母の腕に抱かれた江が、にわかに火がついたように泣きだした。あるいは、両親の危機を察知したのかもしれない。初は不安そうな顔を隠しもせず、涙がまなじりに厚くたまっている。姉妹の中でただひとり、いちばん年長である茶々は、視線をきりっとあげ、上座に座る父を瞼に焼き付けるかのように見据えていた。

「市、そなたはすでに母親じゃ。姫たちのこと、頼んだぞ」

 長政はゆっくりと、諭すように市に言った。そのとき、市も悟った。もう夫の翻意は望めない。彼はこの小谷の城と、浅井の命運を共にするつもりなのだ。そしてそれに、正室である自分を連れていくつもりはないと。

「万福丸と、万寿丸はいかがなさるおつもりですか」

 冷静になった市の問いに、長政は視線を落とす。

「すでに、落ちのびた」

「……なんと……!」

 長政の話によると、ふたりは山伏に姿を変えた家臣に連れられ、すでに小谷城を落ちていた。彼らさえ生きていれば、いずれ浅井の再興もかなうかもしれない。そう願いをこめ、そして一刻を争う戦況を鑑みて、長政はすでにふたりを落ちのびさせていたのだった。

「そなたには最後の別れもやらず、すまなんだと思っている」

「…………」

 そこまで腹を決めた夫に、もはや市は何も言うことはできなかった。頭を下げ、承諾の意を示す。

「そうと決まっては急がねば。姫たちに支度を」

 市は江を抱いていた乳母に命じる。乳母はようやく泣きやもうとしていた江を抱いたまま黙って頭を下げ、姫たち3人を連れて下がっていこうとした。

 そのときである。茶々が乳母の制止を振り切り、上座に座っている父の眼前に立った。家臣たちも、今まで粛々として淑やかに育ってきた茶々が突然礼を失するような行動に出たので面食らった。母である市ですら、止めることはできなかった。

「……茶々」

 目の前に立った娘に、長政はすべての思いをこめて声をかけた。

「わたくしは、生きます。父上も、生きてくださいませ」

 茶々はすべて見とおしている。長政はそう感じた。しかし敢えて、彼女は生きろと言った。父に。もはや命運定まっている父に生きろと。その茶々の強さに、長政は瞳の奥がじんとするのを感じた。

「約束しよう茶々。わしは生きる。だからそなたも生きてくれ。自分の道を、自分で進むのじゃ」

 長政の言葉に、茶々は何も言わなかった。ただ黙って頭を下げ、自分のお守りを父に渡すと、呆然と立っている乳母を追い越して広間を後にした。その歩き方は毅然とした佇まいだった。

「……それでは長政様」

 最後に夫の名を呼ぶと、市は背を向けた。今生の別れだった。



 羽柴秀吉の手のものによって市姫と浅井の姫3人は助け出された。時をおかずに小谷城は落城、浅井長政は自刃して果てた。

 城を落ちる際、城の近くで市姫たち一行を待っていた羽柴秀吉は、市姫を見るなり平伏した。そして、

「ご苦労さまでございました。さ、お手を」

 と、野戦続きで荒れた手を差し出したという。しかし市姫は、それを突っぱねた。

「猿如きが、わたくしに触れられると思っておるのか。わたくしはそなたを許さぬ。絶対に許さぬ」

 と厳しく凛とした口調で告げると、差し伸べた手を引っ込めて再び平伏する羽柴秀吉の前を通過していったという。

 清州に戻った市姫は、長男万福丸の悲報と、二男万寿丸の出家を聞く。手を下したのが羽柴秀吉と聞き、市姫はさらに彼に対して怒りの情を深めていくのだった。

 兄である信長が清州に戻り、市姫は対面のときを迎えた。3人の姫のうち茶々と初が手をついて、初対面の伯父にあいさつすると、信長は「あいわかった」と無表情に応じた。

 姫たちを下がらせてから、市姫は上座の兄にお恨み致します、とぽつりと告げた。

「恨む?“憎む”の間違いだろう」

 兄はそう言って自嘲気味に笑う。天下人にいちばん近い位置にいる者が持っていないはずの感情だった。……自嘲。

「わしとて、憎んでおる」

 ぽつりと彼は言った。

「戦に勝った兄上が、喜ぶならともかく、何をか憎む道理がございません」

 市姫が苦々しく言うのを、信長は憎む道理か、と言った。

「……兄様……?」

 常にない兄の様子に、市姫はつい昔のように声をかけた。

「わしとて、憎んでおる……そなたを清州へ引き戻した運命を」

 それは市姫が聞いた、最初で最後の信長の本音だったのかもしれない。

 そのあと修羅の如く天下統一に向けて突き進んだ信長は、志半ばにして本能寺で斃れる。信長50歳のことだった。


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