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虚無の旋律  作者: 東屋 篤呉
第三章『供花時雨』
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1.依頼

 雨よ

 涙を打ち流して

 雨よ

 血を洗い流して

 雨よ

 罪を(そそ)ぎ落して


 滝のように降り注ぐ雨は

 心を抉り 魂を抉る

 打ち震えるこの身は

 まるで木の葉の雫のよう


 降り止まない雨が降る

 水煙を上げて

 もっと降る

 この身をかき消すほどに

 雨が降る――――



『供花時雨』




「せいっ!」

 畳に強く叩きつけられる音、小学校の体育館ほどもある広い道場にその音は余韻を残して響き渡る。その音が収まる時を同じくして、中学に入ってから伸ばし始めた稲穂の短い髪はふわりと肩の辺りに戻る。

「……ちくしょう、おい稲穂、師匠を投げるなよ」

「たった三歳年上の高校生が何言っているの? 兄貴」

 畳の上で不貞寝している黒い短髪で、がっしりとした体格の持ち主は結崎家の長男、結崎久須志(ゆうざきくすし)。それを見下ろしているのは細身で兄の久須志と同じく黒い髪をもつ妹、結崎稲穂。

「……今日の昼飯、作ってやらない」

「えっ、ちょっと! 私を飢えさせるつもり!?」

「いいじゃねえか、『雨下(あました)』君の手作り料理を食べれば。丁度『来て欲しい』って電話もあったことだしさ」

 そういう久須志の顔はニヤついている。その言葉を聞いた稲穂は久須志から顔を背ける。その顔はほんのりと桜色だ。

 結崎家と雨下家は古くからの付き合いがあり、退魔の一族としての盟友でもある。雨下家は『魔』と呼ばれる空身や有身との直接戦闘に特化している、それが故に身体に空身を取り入れることも時にはある。

 対して結崎家は結界術を用い、雨下家の補助、援護を行う。結界術は『隔離』・『拒絶』・『崩壊』の意味を持たせた空間を作り出すことで様々な効力を発揮させる。例えば『隔離』なら『魔』を閉じ込めたり、『拒絶』なら怪我の治療をしたり、『崩壊』なら『魔』に対する攻撃などである。

 もっとも、結界術のうち『崩壊』は恐ろしく難度が高く、結界術専門の結崎家でさえ過去に三人しかまともな使い手を生み出せていない。

「あいつは優しくて、料理も出来て、顔もいい……ライバルは多いと思うけど頑張れよ、稲穂」

「なんかむかつく……」

 そう言って稲穂は寝たままニヤつき続ける久須志の腹を踏みつける。それも、象が踏んだのかと思うくらい。めり込んだところが一瞬見えたぐらいだ。

 蛙がつぶれたような声をあげ、久須志はまるでまな板の上の鯉のように畳に横たわったまま悶絶している。

 稲穂はそんな久須志を尻目に道場を出る。道場を出れば目の前をツバメが目の前を横切りそのまま青い空に急上昇していった。

 眩しい太陽の中に消えていった夏の到来を告げる使者を見送った稲穂は本宅の風呂場に向かう。

「汗臭いなんて言われたくないもんね……」

 暑い夏はすぐそこまでやってきている。



 まな板を叩く心地よい包丁の音、煮込んでいる鍋から香る鰹節と昆布の(かぐわ)しい香り、そして空腹には拷問ともいえる釜で炊いたご飯の香り。古風な日本家屋の屋敷が和やかな和の食卓をさらに赴きのあるものにしている。

 しかし、食卓を囲むショートカットの薄い茶色のかかった髪の毛を持つ少女と、稲穂の二人の間には不穏な空気が漂っていた。その様子はさながら竜虎の睨み合い。

「えーと、稲穂?」

「何、雫」

 料理中の雨下雫に、虎こと、稲穂が唸り声を挙げるかのごとく振り返る。

「もうすぐご飯できるからさ、ちょっとそのどす黒い気を静めてくれない?」

「その前にこの女、誰?」

「この女、ですって? そんな下品な口を利くなんて……育ちがいいのは家だけかしら?」

 険悪な二人の様子を見て雫は諦めたようにため息をつく。賢明にもなだめることもあきらめた雫は鍋の中の御吸い物の味見をする。満足のいく味だったのか、一回頷いてすぐに器によそう。

釜蓋(かまふた)さん……あんたの御兄さんに会うためには稲穂の力を借りなくちゃ駄目なんだ」

 白いご飯と紅白の麩の浮かぶ御吸い物、冷奴と言った見た目は質素なものだが急に用意したご飯にしては上出来だろう。

 稲穂は正直言って物足りなさそうな顔をしたが文句は言えない。だからその分、目の前の釜蓋と言う女を思いっきり睨みつける。しかし稲穂はおなかがすいていた所為か、あっという間に食べ終わってしまった。

「稲穂もいらいらするほど腹へっているなら、先に言っておけばよかったのに」

 ニコニコと無邪気に笑う雫の前では稲穂も、堪忍袋も穴の抜けた紙風船みたいにしぼんでしまう。

「あんたはいつもそんな風に……鈍すぎ」

 最後の一言は蚊のように呟いたため雫の耳に届く前に大きなため息にかき消される。

「ずるい……」

「ん?」

「私も名前で……紫藍(きらん)って呼んでよ」

 紫藍(きらん)は稲穂とのやり取りを見て顔を膨らませる。

「いや、だってこいつは幼馴染だし……」

「私は?」

 雫は中身のなくなった漆の御椀の中に答があるかのように見つめる。

「わ、わかった、釜蓋さん……じゃなくて紫藍(きらん)

 見ていてこっちが恥ずかしくなるほど赤く染まっている頬。その口から発せられた言葉を稲穂は当然気に入るはずも無く。

「で、私に用があって呼んだんじゃないの?」

 針金で出来た束子(たわし)を投げつけるような言い方になってしまう。

「あ、そうだった!」

 しかしそんなことも気に留めない、そんな雫を見た稲穂はやっぱり呆れてしまう。

 雫は武道、学問だけではなく、退魔師の技術についても生まれついての天才と呼ばれるほどの人間である。さらにその人間が努力をしているのだから無敵だ。今では雨下家の次期頭首に成るのではないか、とさえ噂されている。ただ稲穂は雫の間抜けな姿を見ていると途端に次期頭首の言葉など性質(たち)の悪い冗談にすら思えてくる。

「実はさ、釜……じゃなくて紫藍(きらん)のお兄さんがニギミの(やしろ)に封印されちゃってさ。で、開放までは行かなくても逢わせてあげたいな、と思ったわけなんだよ」

 正直稲穂は耳を疑った。

 ニギミの社とはまだ魔に落ちていないとはいえ、大きな危険性を孕んだ有身を封印しておく重要な場所、下手に封印をとけば何が起こるかわからない。

「雫! あんた正気なの!」

 流石の稲穂も今回は火山が噴火するかのように怒った。

「あそこに閉じ込めた有身を開放してしまったら……!」

紫藍(きらん)のお兄さんは有身じゃないんだ」

 湖のように落ち着いたままの雫から稲穂の予想さえしなかった言葉が飛び出す。

「ただ『予言者』が言った『釜蓋仙治(せんじ)は後に大いなる災いを雨下家と結崎家にもたらす』っていういんちきくさい言葉に流されただけなんだ」

 稲穂は視線で雫に風穴を開けようとするかのように睨みつける。嘘をついているとき、適当なことをいっているときなら、雫は必ず眼を背ける。しかしそれでも雫は眼をそらさない。雫はしっかりと強い意志を持った眼で稲穂の眼を見つめる。

「それに何も開放するって言うわけじゃない、開放したらそれこそ『退魔』されちまう」

 雫はそこで稲穂から紫藍(きらん)にちらりと視線を向ける。

「でも会わせるだけなら開放する必要は無い。隔離の結界を張っておけば万が一でも安全なはずだ、駄目かな?」

 稲穂は正直迷った。ニギミの社は結崎・雨下両家の裏山に存在し、警護や結界の質は下手をすれば、軍事施設並みである。

「結界なら何とか操作できるけど警護が厳しいから無理よ」

「そういうと思った、実はいい考えがあるんだ、明日さ……」

 雫は稲穂と紫藍(きらん)を手招きする。雫は二人の耳元で、小声で囁いた。

「『太刀の儀』で人が大勢、集まるんだ、だから稲穂」

 雫は突然稲穂の両肩を掴み、稲穂の両目を見つめる。混乱する稲穂に雫は一言

「今日のみんなの料理を作ってくれ! 稲穂じゃなきゃ駄目なんだ!」

 稲穂はじっと見つめられている恥ずかしさと、『稲穂じゃなきゃ駄目なんだ』の言葉に、熱に浮かされた稲穂の脳みそは、首を勢いよく縦に振った。



 * * *


雨下茜(あましたあかね)、ただいま戻りました」

 桜色の和服を着て、刀を置き、私は正座のまま深々と礼をする。長い自慢の黒髪が畳を撫でる。

「面を上げよ、茜」

 ほりの深い老人、私の祖父が小さい声、だが岩も震えそうな声を発し、私は正座に戻る。任務で私は各地を旅していたが、収穫は空身を『二人』捕まえたに留まる。今回、この家に帰ってきたのは、その空身をアラミの社に隔離すること、それが目的の一つ。

 もっと大きな目的もあるが、人にとっては瑣末なこと。

「そうだ茜、明日は『太刀の儀』が執り行われる、しかして、お前も出席するように」

 思わず私は恐怖から身を震わせた。いわれなくても誰がその儀式の主役か、理解している。

 雫だ。

 私の弟は退魔師として、肉体面では完璧だが、心が優しすぎる。そんな雫が退魔師になってしまったら、間違いなく雫の心は壊れてしまう。

 そんなことはさせたくない。

 それでも私の祖父は雫を退魔師にしたがっている。なぜこの人は、自分と血の繋がっている雫にそんな残酷なことをさせるのか、はらわたが煮えくり返る想いだ。

「……余計なことを考えるな、貴様は退魔師の出来損ない、お前は空身をかき集め、後世のために雨下家に仕えるのだ」

「はい、承知しております」

 どうやら表情に出てしまったらしい、私は感情を押し込めることは得意なほうだ、だから自分が非難されようと、貶されよう(けなされよう)と表情に出したことは無い。しかし、自分にされて平気なことでも、同じ事を雫にされると自分が抑えられなくなる。

 私は祖父のいる部屋を出て、廊下を歩きながら、明日の『太刀の儀』について考える。雫は退魔師に成りたいのか、成りたくないのか。雫がもし、退魔師に成りたがったらどうやって説得したらいいのか、と言うことばかりが、延々と脳内を巡っていた。

「あっ、茜姉さん、御久しぶりです、お変わりはありませんか?」

 しかし、そんな終わりのない思考も、厨房のある廊下のほうから歩いてきた雫を見たら、吹き飛んでしまった。

「雫、元気にしてた?」

「はい、明日の『太刀の儀』に備え、体調も、武術も、学問も何一つ怠ってはおりません」

 何処かよそよそしい雫の態度。こんなとき、雫は、何か隠し事をしている。

「雫?」

「はい、何でしょうか」

 笑顔で聞いた私に、怪訝な顔をして聞き返す雫。雫は全くばれていないとでも思っているのだろう、そう思うとかなり滑稽だ。私は一瞬、思考を巡らせ雫が何をするのか見てみたい、そんな気持ちになった。雫の表情を見る限り、本気で退魔師になりたいとは思っていない様だから特に問題はない。

「久々に刀の稽古、つけてあげようと思ってね」

「はい、是非、お願いします!」

 雫がほっとした様な表情で私と並ぶように道場への渡り廊下を目指す。

「そういえば稲穂ちゃんとあと一人、女物の靴があったけど?」

「……二人は茜姉さんと入れ違いで帰ったはずですよ?」

 そう言って雫は私から眼を背ける。厨房から漂ってくるいい香り、でも雫の態度が、とても不吉な未来を予兆させている。

 今晩のご飯はどこかに抜け出して食べたほうがよさそうだ。



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