4.現実
「ねえ! 兄さん聞いてるの!」
深夜の鞠池総合オフィスビル前、稲穂の珍しく苛立った声。その隣には和服姿の雫。雫は苛立つ稲穂を見て「そんなこんなに怒っている声を聞いたのは二年ぶりだろう」と想いをめぐらせた。
「聞いているさ、『本当に助けられないのか』だろ。何度も言わせるな、稲穂、あいつは手遅れだ」
「『白雪』で体内の躻を切り離せば!」
「本人が本人を取り込むことを望んだ以上、躻はアイツの一部。取り込んでいないならまだしも、別人ではないから繋がり等、はなから無い、故に『繋がり』は切れない」
「やってみないと分からないじゃない!」
稲穂は腰まで届く髪を逆立てるのではないかと思うほどまくし立てる。
「よし、仮に成功したとしよう。あいつはどうなる?」
「……普通の人に戻れるに決まっているじゃない!」
稲穂は雫を穴が開くのではないかと言うほど睨みつける。
「違うな。化け物と言う『有身』から人殺しに戻る」
「今ならやり直せる! 罪は一生かかって償えばいいじゃない!」
「なら『魔眼』はどうなる?」
その瞬間怒りで真っ赤だった稲穂の顔から砂が落ちるように血の気がひく。
「何回あの『握りつぶす』魔眼を使った?」
「そ、それは……」
「五回、いやもっと使っているだろうな」
稲穂は黙り込む。雫は淡々と事実を述べる。
「魔眼は人の手に余る代物。そんなものをこんな短期間に、しかも手に入れたばかりの人間が耐えられる身体を持っていると思うか?」
稲穂は反論出来ず、歯を食いしばり、ただ震える手で握りこぶしを作っている。
「良くて視神経が焼き切れている。眼は見えていたから恐らく脳神経系にダメージがあるな」
「やめて……」
「理性を失うのは時間の問題だ。そうなればあいつは……栢野津司は真の意味で救いが無くなる。そんな人間を見逃すほど俺は甘くない」
「やめてよ、そんな事言うの……」
先程までの勢いも無く、何時も気丈な稲穂が弱々しい。僅かな希望にすがりたかったのだろう、だがその希望は事実(現実)が延々と打ち砕いていく。
「……稲穂、お前はここに残って人避けの結界を張れ、そしてここで見張っていろ」
雫は添え木をした左手に『白雪』を結びつけ、右手に『閃黒』をもち鞠池総合オフィスビルに入っていく。
雫の後姿を見守る稲穂は眼に涙をためながら印を切り、人避けの結界を張る。これで人はこの中に入ろうと思わない。
稲穂はそのまま鞠池総合オフィスビルに背を向けた。
まるで現実から眼を背けるように。
「また……私は……無力なんだ」
稲穂の目から大粒の涙が一滴、零れ落ちた。
明るすぎる闇夜に静かに嗚咽が響き渡る。
「意外と早かったなぁ、お前流に言うなら咎人(同類)だっけ」
その化け物、栢野津司は鞠池総合オフィスビルの最上階の廊下に居た。津司は真っ赤な血溜まりを背に口の端に笑みを浮かべる。
「いや、殺した後だから『遅かった』のか? 残念だったなぁ」
既に津司の眼に正気は感じられない。
「ああ、手遅れだった」
雫は静かに眼を閉じる。
「本当に残念だったなぁ」
「お前が、だけどな」
津司の顔から笑みが消える。
「どういうことだ?」
「正直俺はお前が殺した奴らに何の感情も覚えない、どうせ恨まれるようなことでもしていたんだろ? まあ、度が過ぎてはいるが然るべき罰を受けた、それだけだ」
雫は小さくため息をつく。
「ただお前が気に入らない」
「同属嫌悪と言ったところか?」
「はっ、同属だと? 笑わせる」
雫はその言葉を鼻で笑って切り捨てる。
「俺はお前みたいに命を奪うことを理解していない人間と……」
雫は静かに眼を開き
「こういう巡り合わせ(殺しあう運命)なんだよ!」
眼を見開いた雫は絨毯張りの床を蹴り床に張り付くのではないかと思うほど低い体勢で津司に駆ける。
「上等だ! だが俺にカナウトオモウナヨ」
津司の両眼が真っ赤に染まる。
視線から感じる握りつぶす力
雫は身体を時計回りに捻り右腕で宙に跳びあがる
雫のいた床は円形に潰れ、穴が開いた
その光景を下に雫は天井を蹴りつつ右手に持った黒い刃で斬りつける
津司は後ろに飛びのき雫を視線(魔眼)に捉える
斬りつけた勢いのまま雫は床を蹴り、壁を走る
「ナメルナァ!」
魔眼の先が歪み、壁が爆弾になったかのように次々と砕けていく
雫は両側の壁を飛び移りつつ魔眼の攻撃をかわし続ける
しかし雫のいた壁が砕ける、雫が飛び移るその応酬はそう長く続かなかった
「もう、その動きは見えてる!」
津司は雫が次に着地するところに焦点を合わせる。
しかし津司は目を疑った
雫が身体を丸め、窓を破りビルの外に飛び出したのだ
魔眼の起動も忘れ破れた窓から下を見る。この階は地上から百メートル以上はある、正気だとは思えなかった。
だが津司の目に映ったのは雫が壁に黒い刃をつきさし、下の階の窓ガラスを割り、下の階に逃げ込むところ。
「でたらめだろ……」
そして呟く
「やっぱりあいつは危険だ」
口の端を吊り上げて
「全く、でたらめだろ、あの魔眼」
誰もいないオフィスのデスクに身を潜めたまま雫はぼやく。
大体の魔眼の性能は分かったが状況は絶望的。視線を合わせた後に発動する強力なタイプだから接近戦に持ち込む前に殺されてしまうのが落ち。残る手段は不意打ち、だまし討ちしかない。しかも視線の届かないところから、と言うおまけ付だ。
雫にもまだ切り札はあるがそれを使うと失敗した場合、雫が圧倒的に不利になる。そのような事態は出来るだけ避けたい。
「ここにいるのかぁ」
雫は心の中で舌打ちした。居場所をこんなに早く探り当てられたことが事態を悪化させている。雫は当然のように左腕の骨折は治っていない、つまり右腕と両足で戦わなくてはならないという圧倒的なハンデ。
「デスクを潰せば出てくるかぁ?」
愉悦に満ちた声。突如響く金属性デスクの潰れる悲鳴。
バコン、バコンと大きな音を立てどんどん潰れていくデスク達。
雫の居る場所と津司が暴れているところはまだ距離がある。流石は無駄な金を使って立てたビルなだけはある。
「どうしたものかな……」
* * *
私は病室のベッドにただ一人寝ていたけど、意識は目覚めていた。
いや、眠ることが出来なかった。どうすればお兄ちゃんを止められるか、助けられるか。そればかりが頭の中を巡る。私が今まで生きてこられたのはおにいちゃんのおかげだろう。
父親に殴られ母親に蹴られ、外に出れば……いろんな人に酷い目に遭わされた。思えばその頃から私は人に対して抗うことにかけていたと思う。ただ諦めて、ただ受け入れて、自分の身の不幸を呪った。
そんなときに心を支えてくれたのは何時も私を庇ってくれたお兄ちゃん。私の代わりに抗い、戦い、あらゆる不幸を拒絶した。
でも結局二人とも傷ついただけ。いや、お兄ちゃんのほうが抗っていた分もっと傷ついた。そのツケが今になってきたのかお兄ちゃんは心が壊れてしまった。たぶん今お兄ちゃんを突き動かしているのは復讐心。早く止めないとみんなが救われない。
だけど眼の見えない私がお兄ちゃんのいるはずの鞠池総合オフィスビルに辿り着くことは出来ない。それでも行かなくちゃいけない、そう理屈ではなく心が訴えていた。
ベッドから身を起こして靴を履く、無謀は百も承知だった。ゆっくりとドアに向かうその瞬間ドアが開く気配がした、私は一瞬凍りつき。
「うわっ、びっくりした!」
何時ものように陽気な美樹の声にさらに凍りついた。
「美、美樹……もう消灯時間も面会時間も過ぎてるじゃない」
「いやぁ、夜の病院で怪談話でもしてみようかと。ほら臨時感ってあるでしょ」
「それを言うなら臨場感……じゃなくて!」
「……ねえ瑞葉」
何時も陽気な美樹の出す真剣な声を聞き一瞬私は戸惑いを隠せない。
「どうしても外に出たいの?」
「わ、私は外に出るなんて一言も……と、トイレに起きただけよ?」
「トイレに行くときは何時も看護婦さんを呼ぶって言ったのは瑞葉だよ?」
「どうして……」
美樹は私のことはお見通しだと言わんばかりに静かに淡々としていた。
「クスクス……」
目の前の笑っている人物が本当に美樹なのか、得体の知れない化け物のような
「夜バージョンに相応しくホラーっぽく言ってみました! それと自称情報屋、なめるなよ!」
そんな美樹が何時もの美樹に戻った。ほっとした。良かった、いつもの美樹だ。
「ねえ、鞠池総合オフィスビルに連れてって!」
「おおっ、最近できたばかりの目玉の建物だね! ラジャー、任せなさい!」
そう言って手を引き、エレベーターに連れ込んだ美樹の手は不思議と暖かく、震えている。
「ふふっ、夜の病院から抜け出すなんて興奮するよ!」
気にしすぎかな? と思っているうちに一階に辿り着きドアが開く。
「運転手さん! 鞠池総合オフィスビルまでお願いします」
この時間だしタクシーで行くのだろう、運転手さんは特に何も聞かずに車を発進させた。
車に揺られている間いろいろなことを考えていた。
子供の頃の辛かったこと
お兄ちゃんに救われたこと
雫さんに今日、いやもう十二時をまわったから昨日に言われたこと
――――あいつはもう手遅れだ――――
実際、彼の言うことは大体分かる。お兄ちゃんはきっと手を汚しすぎたんだろう、身体に血の匂いが染み込むぐらいに。
だったら私がその罪を全て受け入れる。
今までの運命に抗うために私は全てを受け入れよう
だから
「……間に合って」
私の声は車の音にかき消された。
* * *
「さあ、どうした? 最初の威勢はどこに行った!」
響く狂気に満ちた声と破砕音。その破砕音も雫のすぐそばまで迫ってきている、もう一刻の猶予も無い。
「仕方が無い、こっちも化け物になるしかないか……」
諦めたようにため息をつく。
「しかし稲穂を置いてきて本当に良かった、これから起こることは……」
眼を瞑り、息を吐く。
「あのときの地獄の巻きなおしになるからな」
頬から血が一滴たれ、床の絨毯に染み込む。見開いた雫の両目は紅に染まっていた
とうとう雫の隠れていたデスクが『握り』潰され、その破砕音と共に雫は振り返る。潰されたデスクはパチンコ玉のようなものに変わり果て、雫は魔眼の起動を宣言する。
「――――響け『震炎』」
紅に染まった両目から血が涙のように流れる、と同時にオフィス全体が震える。
天井も
壁も
床も
そして空気も何もかもが何かに怯えるように震えだす。
「な、なんだよ、これは……」
津司は今まで圧倒的優位に立っていたのに一瞬でそんなものを踏み砕く圧倒的な力を感じる。
「恐怖に震え、果てろ」
雫のその言葉と共に天井が崩れ、壁が崩れ、粉塵となって視界を完全に奪う。
「つ……ツグナエ!」
粉塵の世界を睨みその視線の先にあるすべての粉塵が『握り』潰され筒状の視界が開ける。そこに雫はいない。
「どこに行った!」
「後ろだよ」
脇腹に痛みを感じた津司が自分の身体を見てみると脇腹から黒い刃が生えている。
津司はその刀の伸びているほうに視線を合わせる。
「――――!」
痛みで声すら出ない。無理やり起動した魔眼は逃げた黒い刃を捕らえることは出来ない。
津司は思わず膝をつく。そんな時金属同士が強くぶつかる音がした。
そこからの光景は津司にとってはスローモーションのように目に映る。
遠くから紅く広がっていく炎
その炎は一瞬で粉塵に燃え移り
アメーバのように
生きているかと錯覚するように
うごめき
津司に襲い掛かる。
「み……」
炎はもう、すぐそこまで来ている
「ミズハー!」
愛しき家族の名を叫び津司の意識は炎に飲み込まれた。
腹のそこに響くような爆発音を聞き稲穂は鞠池総合オフィスビルを見上げる。
「あの眼……使ったんだ」
静かに呟くと車の止まる音が聞こえる。タクシーから出て来たのは美樹と瑞葉。
「おおう、これはなんていうか……決定的瞬間ってやつ?」
惚けている美樹と
「お、兄ちゃん……」
夜でも分かるほど白い肌に涙を流し、絶望にひしがれた表情をしている瑞葉。
「つか、稲穂ちゃんは何でここに?」
「ここに来たくなったから、かな」
「いや、それ答になってないから」
タクシーの運転手も驚いた表情をしている。これほどの被害だ、隠し通すことは出来ないだろう。稲穂は静かに結界を解く。
エントランスの自動ドアが開き、煤で汚れた和服姿でゆっくりと雫が出てきた。
「兄さん!」
稲穂はすぐに駆け寄ったが鞘に入った刀を手渡されて終わる。
「えーと、消防訓練?」
雫は脳みそのねじが抜けたような発言をした美樹を無視し黙りこくっている瑞葉の前に立つ。
「何で……」
瑞葉は拳を握り身体を震わせ雫に掴みかかった。
「どうして!」
雫は黙り込む
「何かいってよ……雫さん」
「眼が見えない世界は久しぶりだからよく分からないな。あいつがどうなったかも自分がどうなっているかも……。取り敢えず疲れたから家に帰って寝る」
「それしか言うことはないの!?」
瑞葉は雫を掴んでいた手を突き放すように離した。
黙ったままゆっくりと歩く雫を稲穂は支え、美樹たちが乗ってきたタクシーに乗り込む。瑞葉はそんな二人の背中を見えない眼で睨みつけていた。そんなことをしなければきっと瑞葉はきっと後悔しなかっただろう。雫が微かに呟いたあの言葉
「俺だって救えるなら、救いたかったさ……いつだって」
それは本当に小さな声で、でも眼が見えない瑞葉だからこそ聞こえた言葉なのかもしれない。
道路に涙がこぼれる。頭上では煙を上げ続けるビル。瑞葉はしゃがみこんだ。
「何で、何で……こんなことになってしまったの」
微かな呟きは遠くからのサイレンにまたも呟きはかきかされる。
「人って無力だよね……よく分からないけど」
美樹は何時もの調子だった
「涙炎・完」