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虚無の旋律  作者: 東屋 篤呉
第八章『詠円慈愛』
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5.月光

 雫が目を覚ましたのはもう日が暮れたころ。丸二日寝ていなかったのか、とでも思うほどじっくりと寝込んでいた雫は軽く目をこする。下界に人の目がないことを確認すると雨どいを掴み、一気に地面まで滑り降りる。ビルとビルの隙間から表通りに出た雫は、大きいトランクを片手に持ったまま雑踏を分け入る。朝とは打って変わって電飾がまぶしい。ここは浮かれた人間とくたびれた人間の盛り場のようになっている。

 高校生だろうか。制服のままクレープのようなものを食べながら歩く女子数人。その顔は弾けるような笑顔に包まれていた。

「自然な笑顔、か」

 おそらく雫の脳裏には美紀が浮かんでいるのだろう。その証拠に無表情な面構えはすぐ不機嫌な表情になる。軽く舌打ちした雫の隣で電気店のTVが映っていた。そこには『自殺者辻斬り事件』というばかばかしいタイトル。唯一の救いは過去の事件の検証をしているという点。雫が家を出た日以降、殺された人間はいないということだろう。

「こんな事件早く終わってほしいよねー?」

「ほんとほんと」

 隣に立っていたのは先ほどクレープを頬張っていた女子高生の一団。いつの間にか雫の隣に来て雫と同じく展示されているTVに見入っていた。

「そう言えばマジ泣けるよねー? あの人の話」

 同意を暗に求めるその発言を隣で聞きたくないのか雫は眉をしかめ、その場を去ろうとする。

「結婚の決まっていた恋人を殺されたんだってあれ?」

「そうそうあの和服の人のあれ」

 普段の雫ならいら立ちだけを覚えるその会話。それに思わず立ち止まる。和服でテレビのインタビューを受ける人間など限られている、『あいつ』だ。

 結婚も何もあの空身は人間の欲望や感情がはみ出したもの、人間ではない。それが意味するところは雫へのメッセージというところだろうか。

 結婚、のイメージに合致するこの街の象徴。雫はVTRを逆回しにするように必死に、高速で記憶をさかのぼらせる。

「寺とか神社は……ないな、除外」

 あの空身はやたらと陶酔するイメージが強かった。ならもっとロマンのありそうな場所で、なおかつ人気のないところ。

「岬にある絶壁の……教会!」

 そう考えた時には走り出していた。この街に来る際、電車の窓から見えた、孤独に立っている教会。『結婚』というキーワードがある以上、教会やチャペルの可能性は非常に濃厚だ。それに場所が場所であるだけに人の出入りも少ないだろうし、何より人気がない。

 いまさらながら激情に駆られテレビを壊してしまったことを後悔しているのだろう。雫は奥歯を噛みしめ人ごみも気にせずに繁華街を駆け抜ける。

 人の波を抜けたその先には踏切。その踏切を超え、鞠池市の海浜公園を抜ければその先に絶壁に囲まれたさらに先に岬の教会はある。どうしてそんなところに教会を建てようと思ったのか、俗世から離れる、そんな意図があったのかもしれない。周囲は草原で覆われていてのどかささえ漂う。神秘的、とは程遠いが少なくとも周囲の景色は心安らぐような場所。ただ、というべきか勿論というべきか、判断に困る。しかし決定的にこの教会は結婚式場にするにはむかない。まともに舗装された道路もなく交通手段はほとんどないせいだ。そのせいかここは二人の門出を祝うのに向かなかった、ということだろうか、外観が若干寂れている。

 雫はその教会の門前、約十数メートルの場所で立ち止まった。この中にあの空身がいる可能性は濃厚。しかし雫はトランクを置かず、立ち尽くしていた。そこに立っていたのがあまりにも予想外の人物だったからだろう。

「ちょっとぶりね、人殺し」

 釜蓋紫藍(かまぶたきらん)がそこに立っていた。

紫藍(きらん)……」

 冬の潮風が肌にしみる。その風に凍らされたかのように動かない雫の体。

「稲穂からも聞いたわ、あなたって本当に救いようのない馬鹿ね」

 風は徐々に強くなる。紫藍(きらん)が雫に少しずつ歩み寄る。風が強すぎて声が届かないせいだろう、しかしその姿を見るだけで雫はその場から動かなかった。

 ぱしんという小さく乾いた音。紫藍(きらん)は平手で雫の頬を叩いていた。

「なんで昔みたいに力を借りようとしないのよ、あの時みたいに」

 睨みつける紫藍(きらん)の瞳は怒りを隠そうともしない。

「それなのになんで人のために動くの? 人に背負わせるの?」

「なにをいって……」

「自分でもわかっているでしょ?」

 紫藍(きらん)はあきれたように、しかしその燃えるような瞳はそのまま、雫と教会の間に仁王立ちをする。

「そんなに救いたいの?」

 雫は少しだけ口を開き、閉じる。

「本当は救われたいだけなんでしょ? 罪に罰を与えてもらうことで」

「なにを……いって」

 雫は言葉に詰まっている。

「否定できる? できないでしょ?」

「……黙れよ」

「黙らない」

 雫は唖然とした顔から一変、憮然とした表情で紫藍(きらん)の脇を抜ける。しかし教会に向かおうとした雫は紫藍(きらん)に制止される。

「そこをどけよ」

「死にたがりが甘えないでちょうだい」

 紫藍(きらん)はガラスさえも打ち破りそうなほど大きな、それでいて低い声で一喝する。

「『本当は好きだ、みんなが』」

 紫藍(きらん)のその言葉に首をかしげる雫。

「『だからみんなを守りたい』……あなたの言葉よ、忘れないで」

「はっ、悪いものでも食ったのか?」

「ええ、大いに食あたりしてる」

 紫藍(きらん)は肩を大きくすくめる。

「俺はそんなことを言った覚えはない、思い出を美化しすぎだ」

「稲穂から『も』って言ったでしょ? あなたの置き忘れた、あなた自身から聞いた、紛れもない、今の言葉」

 雫はいよいよもってわからないという顔をする。

「あなたはこの件の専門家でしょ、察しなさい」

 今度は雫がため息までつかれる始末。紫藍(きらん)は雫からトランクを奪った。

「なにを……」

 紫藍(きらん)の真意がつかめないままトランクを取り返そうとする雫。

「こんなもの邪魔でしょう、……止めても行くんだろうから」

 紫藍(きらん)の予想外の言葉に驚きを隠さない雫。

「生き続けて、生き残ってせいぜい私に恨まれ続けなさい」

 雫のトランクを抱えたまま道を譲る。

「死んでも許さないけどね」

 奇妙なものを見るように雫は紫藍(きらん)の脇を抜ける。その雫に背中から声をかける紫藍(きらん)

「このトランク重いからさっさと戻ってきなさい、恨み言をさらに多くする気?」

 雫は無言のまま教会へと走る。別に急かされたからというわけではない、それでも気は急いたのだろう。紫藍(きらん)は雫が教会の扉の奥に消えるまで見送っていた。

「本当にさっさと帰ってきなさい」

 その声はイラついているようにも哀しがっているようにも聞こえる。

「あなたを想う人はあなたが思う以上に多いんだから……」

 寒空の平原に雫のトランクを椅子にして座り込む紫藍(きらん)

「稲穂たちが無茶しないうちに終わらせなさい」

 見上げたその空には教会の尖塔に突き刺さるように満月が浮かんでいた。

「そうよね? 久須志さん達?」

 そういう紫藍(きらん)の後ろに二本の人影が立っていた。

「助けなくていいんですか?」

「助けることはできない、雫君自身が向き合わなければならないことだからだ」

 短く白い息を吐き諦めたような表情をする久須志。

「……というよりあの二人が向き合うことだ。本当に似すぎだよ、あの三人(・・)は」


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