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虚無の旋律  作者: 東屋 篤呉
第二章『涙炎縛鎖』
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3.夢・現実

「お見舞いに来てやったぞー!」

「黙れ、帰れ、死んでこい」

「罵詈雑言三段活用!?」

 雫は鞠池第二病院の待合室で会計待ちをしているとき、最悪なタイミングで美紀が叫ぶ。

 雫は昨日の『有身』から逃亡する際に左腕を文字通り潰されたために今ここに居る。もっとも潰されたとはいえ、骨折程度だったから病院でも「二階から落下した」と適当な嘘をついて治療をお願いしたわけだ。当然、入院など必要も無い。

 そして添え木と包帯で目立つ左腕を病院のエントランスから入ってきた美紀に見つけられただけだった。「お見舞いついでに一緒に行く」と言った稲穂は今、五階の病室にお邪魔している。

「ここまで来たなら稲穂ちゃん迎えに行くついでに瑞葉のお見舞いもしてあげて」

「何で無関係な奴を見舞わなきゃ……」

 ならない、と言う言葉はエントランスから現れた違和感と共に消えた。

 入ってきたのは金髪で黒い眼をした男。しかし昨日の赤眼の『有身』であることには間違いない。雫は相手からは丁度美紀の影になっているから相手からは見えないだろう。その金髪は真っ直ぐエレベーターに向かい丁度来たエレベーターに乗って上の階へと向かう。

 雫は騒ぐ美紀を無視し、エレベーターの行き先表示を凝視する。

 エレベーターは一般の入院患者の居る五階でとまり、上への矢印が消える。

「五階か……」

「大体赤根さんは……って何が誤解なの?」

 そんな美紀に雫は自分の持っていた荷物を全て放り投げた。

「えっ! ちょっと!」

 片腕が折れたままで雫は階段を目指し、旋風(つむじかぜ)のように人の合間を駆け抜けていく。

 その様子を呆気に取られてみていた美紀は間抜けな顔のまま棒立ちになっていた。



 * * *


 私は純粋に嬉しかった。ただのついでといっても、会いに着てくれるということは眼の見えない私にとって太陽の光が差し込むようなもの。それがどれ程尊いことなのか言葉では言い表せない。

 その稲穂ちゃんは「じゃあ、瑞葉さん、何か飲みたいものはある?」といってちょっと前に病室を出て行った。

 静かな病室はやっぱりなれない。この間は重いものがずっとのしかかっているような圧迫感と、自分の周りには何も存在していない想像の世界、あるいは都合の良い夢を見ていたんじゃないかという不安ばかりが心の中を渦巻く。

 それにここに居る限りどんなことでも受け入れなければならないような錯覚に陥ることもある。

 それは苦痛であったり、傷であったり、運命であったり。

 でも拒絶して傷つくよりは受け入れてしまったほうが楽に感じる。

 だけど神様がこの場所から飛び立つ羽根をくれるというなら喜んでここから飛び出したい。

 病室の扉が開く。稲穂ちゃんがもう帰ってきたのかと一瞬思った、けど、どうも男の人みたいだ。ゆっくりと私に向かって歩いてくる。

 途端に恐怖を感じた。何故だかは一瞬理解出来なかったけどすぐに意味を理解する。

 ――――血の臭い――――

 私はベッドから半身を起こしたまま自分の腕で身体を包み込み必死で震えを押さえた。助けを呼んだほうが良い、そう思ったときには既にもうその人はベッドの前まで来ていた。

「ひっ!」

 思わず短い悲鳴がこぼれる。

 その人の手が稲穂ちゃんや美紀が褒めてくれた銀髪に触れる。

「すまない……瑞葉。なかなか見舞いにこれなくてごめんよ」

「お……兄ちゃん……?」

「気にすることは無いさ、あんなことがあったら男に寄られるだけで恐怖を感じるに決まってる」

 その言葉には精一杯の慈しみと微かな怒気を含んでいる。

「お兄ちゃん! だからあれは……!」

「分かってる、だから仕事が終わったらまた二人で暮らそう! あと二つの仕事が片付いたらまた迎えに来るよ」

 私の頭から離れていく手。何故か二度と会えない気がした。

「お兄ちゃん……『仕事』ってなに……?」

 お兄ちゃんが病室の入り口で立ち止まる気配がする。

「……鞠池総合オフィスビルの夜間清掃。変なことを聞くなぁ、瑞葉は」

 扉がスライドして開く音がする。

「待ってお兄ちゃん!」

 扉が開ききった音がする

「その『仕事』ってまさか! 違う! 違うの!」

 扉が閉まっていく音がする。

「私はそんなこと望んでない! だからお願い! 彼等を殺さないで!」

 扉がパタンと閉まる

「眼を覚まして! 津司お兄ちゃん……」

 最後の言葉は嗚咽交じりでとても聞けたものではなかった。

 今開いた扉もお兄ちゃんじゃなくて別の人

 稲穂ちゃんと一緒に入ってきた男の人は何処か人間離れしたオーラを放っている。

「兄さん、瑞葉さんの『お兄ちゃん』ってまさか……」

「世間は狭いな、稲穂」

 まさかこの人は

「もしかして赤根雫さん?」

「……ふん、眼が見えていないのに良く分かるな」

 今のお兄ちゃんはこの人にしか止められない、何故だか直感がそう告げる。

 お兄ちゃんは怒りに身を落としてしまい化け物になりつつある。その事実だけはどんなに傷ついても受け入れたくない。

「お願い! 鞠池総合オフィスビルに……! 津司お兄ちゃんを止めて! お兄ちゃんを助けてください!」

 ただ単語を連ねただけの、つたない、しかし必死の言葉。

「瑞葉さん……」

 雫さんは黙り込んでいる。

「お願いします! 雫さん」

「よく初対面の人にそんなことを任せられるな?」

 必死の嘆願に返ってきたのは非情な拒絶。

「残念ながら、あいつはもう、手遅れだ」

 そして部屋から遠ざかる雫さんの気配。

「あっ、待ってよ、兄さん!」

 それを追って稲穂ちゃんの気配も遠ざかる。

 何故かとてもとても寒かった。このままだと氷付けになってしまいそうで強く、もっと強く、自分の手形が付きそうなくらいに自分の身体を抱きしめた。

「なんで……なんで言葉も心も……想いも伝わらないの……」

 これは悪い夢(現実だ)だ。醒めて消えてしまえばいいのに


 だけど望んでも消えてくれない

 受け入れるしかない

 だってこれは

 現実だから(夢じゃないから)


 * * *

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