3・濃雲
充彦は夜のネオンが煌く街を一人で歩いていた。
普段なら一杯引っ掛けていくところだが今日の目的はかすかでも情報を得るための地道な捜査だ。もっともこの捜査は非公式であるのだが。
ただ、いまどきの中学生がこんな夜の街にいることは到底考えられない。それでも『考えられない』からこそ今までになかった情報を引き出せる可能性がある。
よってくる客引きを無視しながら歩を進める充彦の目の前に影が映る。
その路地裏を見つめる影は妙に眼をひいた。
人ごみにまぎれて見えたその人間は和服を着ていたのだ。
派手な着物ならどこかの風俗店でも着ている人間がいるだろうし全く気にならなかっただろう。しかしその人物が着ていたのは遠目でわかり難いが、少なくとも水商売風の派手な和服には見えない。
その和服を着た人物はネオンの光すら届かない路地裏に背を向け、街の人ごみに消えて行く。充彦は衝動的にその人物を追いかけた。
人ごみをかき分け走る充彦の耳にパシャリと何かがはねる音が聞こえた。見れば先程和服を人物が出てきた路地裏の前から聞こえる。
突如響き渡る女性の金切り声にも似た悲鳴。
猥雑なこの街の一角からどよめきが広がっていく。
「おい、人が死んでるって」
その一言に反応してしまうのは警察の一員としての性だろう。
「どいて!」
路地裏の前の人だかりを撥ね退け、見たその先には信じられない光景が広がっていた。
仕事柄、殺された人は山ほど見てきた。そのなかでも充彦はこの人物の殺され方が常軌を逸していることを瞬時に理解する。
そこにいた人物は左肩から右の腰まで真っ二つ
その切り口からは未だに大量の血液が噴出している。
「この現場を保存する! これ以上ここに近づくな!」
充彦は警察手帳を野次馬に見せながら毅然と叫び、即刻近場にいる警察官に招集をかけるために携帯電話を手に取る。
電話をかけながら周囲を見渡すと既に和服の人物はいなくなっていた。
あの和服の人物はこの路地裏を見ていた。
充彦の心のうちに、その和服の人物がやったのではないかと言う予断が生まれる。
「くっそ、考えることが多くなりすぎで禿げそうだな」
悪態をつきその予断を排除し、現場検証を待つ。
そのとき充彦の携帯電話が振動し、液晶には厳島警部の名前。即刻、通話ボタンを押す。
「はい、こちら赤根充彦」
「おい、赤根。殺害現場に遭遇した。場所は井家嶋神社公園そばの河川敷、橋の下だ。直ぐに来い」
「駄目です、こっちも警部と同じく殺害現場に遭遇したところなので」
「何だと?」
数秒の沈黙。厳島警部が考え込むときはたいてい鋭く切り込んだ推理が飛び出す。そのことを充彦は僅か数年の間に良く知っていた。しかも、長年の勘がそうさせたのか、かなりの的中率の推理を。
「充彦、お前の遭遇した被害者はばっさり斬られていないか? しかも日本刀のような鋭利な刃物で」
「ご明察です」
雷鳴が近づいてくる。
「一雨来そうだ、現場保存を急げ。こっちはこっちで何とかする」
「了解しました厳島警部」
駆けつけてくる警察官の足音。敬礼と共に充彦の背後で広げられた青いビニールシートに生きていた人が隠された。
***
「堕ちてしまえ 堕ちてしまえ 堕ちてしまえ」
ここはどこだ
中でうごめく無数の思い
愛したい 食べたい 壊したい 手に入れたい 奪いたい 殺したい 生きたい
その思いは全て違う向きに走ろうとしている。
ポタリ
何かが垂れる音
「堕ちてしまえ 堕ちてしまえ 堕ちてしまえ」
ああ、そういえばさっきから堕ちてしまえと自分の胸を刺していたのを忘れていた。
きっと生きたいという空身が俺を死なせないのだろう。普通なら致命傷のはずなのに一瞬で傷がふさがっていく。
生きているのが苦痛だというから死のうと思ったのにやっぱり駄目みたいだ。人を心から救いたいと願い、だからこそ退魔師になろうと幼き頃から胸に決め鍛錬を積んできた。
だというのにその退魔師は人の想いを踏みにじり
同時に狂気にも似た人の思いに踏み潰された
凶器とされた人の思いはいつしか宿主に牙を向ける。
それは当然の行いで
それは当然の報い
だからこれは『雨下雫』という存在への罰なのだ。
死ぬことは敵わず、精神を徐々にと言うにはあまりにも早く蝕まれてゆく。
「わかってる、ワカッテルヨだから……もう……」
ゆらりと立ち上がる『雫』の体。
「君達は……」
血濡れの和服でゆっくりと歩くその様を見た誰かが悲鳴を上げる。
「生きているんだね……」
* * *