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虚無の旋律  作者: 東屋 篤呉
第五章『逃奏奔悩』
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4.巡り合せ

 今、光矢駆(みつやかける)は百メートルトラックのスタート地点にいる。

 その震える足を見て稲穂はため息をつく。

「なんで男ってびくびくしっぱなしなの? 駆といい雫といい……いらいらするな」

「稲穂がさっぱりしすぎだからじゃない?」

「そうかな?」

 稲穂はフィリアの言葉に首をひねる。そうするとスタートラインに立つ駆が視界に入る。

「稲穂ちゃんはそんじょそこらの男より男前だからねぇ」

「そんなこと無いでしょ……って、え?」

 稲穂は聞きなれた親友の声を聞いた気がして振り返る。稲穂は視線の中にフィリアしか居ないことを確認して、ほっとため息をつく。

「ヤッホー」

 そしてフィリアの影から出てきた美紀に絶句する。フィリアも気配に気がつかなかったのか、眼を丸くしている。

「いやぁ、夜中に二人きりで歩いている男女をよく見てみたら稲穂ちゃんと可愛い男の子じゃないですか」

「美紀!」

 何を想像しているか、傍目から見ても分かるほど大袈裟にニヤニヤしている美紀を叱り飛ばす。

「こんな夜中に危ないでしょ!」

「稲穂ちゃんとフィリアさん……三月(さんげつ)高校陸上部のホープ『光矢駆』君。あなた達がいれば問題ないでしょ?」

 稲穂は諦めたようなため息をつき額を押さえる。

「あ、赤根さんそっくり」

「フィリアさん、お願い」

「しょうがないわね……」

 フィリアが美紀の顔を包むように細い指を広げる。

「サービスで雫にしておいてあげるわね」

「へ?」

 そう美紀が声を発した瞬間、膝から崩れ落ちる。フィリアはそのまま眠った美紀を抱え、壁に寄りかからせる。

「ねえ、フィリアさん。その……淫夢以外って見せること出来ないの?」

「出来るけど、この方が明日以降面白そうじゃない?」

「……ほどほどにね」

 稲穂は完全に部外者になっていた駆に向きなおる。

「どうしても走りたくないの?」

 駆は黙ったまま俯く。稲穂はその無言を肯定と取った。

「殴られたい?」

 稲穂は無言にイラついたように荒っぽい声で拳を握る。

 駆は稲穂のその言葉に小さい悲鳴を上げて全身を強張らせる。恐らくブロック塀にめり込んだ拳のことを思い出したのだろう、駆は恐る恐るとスターティングブロックの無いスタートラインでクラウチングスタートの体勢をとる。

「セット!」

 フィリアの声を聞き、あんなに嫌がっていた駆の表情が引き締まる。

 駆は腰を高く上げ、眼を光らせる。

 火薬の破裂音が響き、駆の身体にたまった全ての力が解放され

 弾ける。



 * * *



 いつからだろう、走ることが苦痛になって、それでも走らなくちゃいけなくなったのは。

 兄さんの所為かな?

 クラウチングスタートの体勢をとったまま、漠然とそんなことを考える。

 僕の兄、光矢健(みつやけん)は僕と双子かと思うほど顔かたちがそっくりだった。

 でも僕は兄さんと間違われたことは無い。やることなすことや性格、髪の色が大きく違ったからだ。

 それに兄さんはやってはいけないことに手を出した。

 犯罪、もっと細かく言うならカツアゲと言う名の強盗に詐欺、そして婦女暴行。しかもその相手は僕と同い年の女子高生だったと聞いた。被害に遭った彼女はそのショックで髪の毛が白くなった、と言う噂まで流れている。

 そのことが地元に知れ渡って以来、僕の家族までもが犯罪者のように扱われ、家にいれば石を投げ込まれ、外に出れば氷の槍のように冷たい目線。あるいは妙な正義感に突き動かされた人間の暴力も受けた。兄に代わって謝罪をしようとしても当然の如く()ね退けられておしまい

 そんなときでも百メートルは好きだった。たった十秒ちょっとの時間でも忘れさせてくれていた。今思えばあの時走ることをやめていたら、僕の心はどこかで壊れていたに違いない。

「セット!」

 赤根さん、いや稲穂さんの友達、フィリアさんがかけた声に身体が反応する。

 不思議と走るときのイメージが既に完成していた。

 さっきまで考えていたことは脳内から消える。

 火薬の弾ける音。

 溜まった不安定な力が前に進む力として爆発する。


 駆ける

 駆ける

 ゴールを目指して


 駆ける

 駆ける

 目標も無い


 駆ける

 駆ける

 駆ける

 それだけで幸せだった


 ああ、何でこんな簡単なことに気がつかなかったんだろう。

 僕はただ走りたかったんだ。

 それなのにいつしか走ることに目的と意義を見出そうとしていた。そんなものは一切いらなかったのに。

 突如、この前と同じ、真後ろにナニカの気配を感じる。

 僕をどうしたいんだ? お前は?

 僕は走りたい

 お前は僕を追いかけたいのか?

 僕はお前が怖い。

 でも僕は走る。

 さあ、ラストスパートだ!


 * * *




 駆の眼の色が変わる。稲穂には、駆が自分の心の靄を吹き飛ばしたと言うことがはっきりと見て取れた。

 そのはずなのになおも駆を追いかける空身に稲穂は疑念を抱く。稲穂はそっとジーパンと身体の間に挟んだ白雪の柄を手に握った。

 稲穂の眼が蒼く輝く。稲穂の眼には多くの『繋がり』の線が映っていた。しかし駆を追う空身と駆本人の間には無理やり繋いだような、それこそ蜘蛛の糸のように細い『繋がり』しかない。

「妙ね……」

 稲穂は小さく呟き、人差し指と中指をくっつけ、結界の印を切る準備をする。

 駆がゴールする。タイムは測っていない。しかし全力で、迷い無く走った駆、間違いなく最高のタイムだろう。

 どうだ、と言わんばかりに駆は後ろを振り返る。その瞬間駆の表情が恐怖に染まる。

 飛び掛る真っ黒な大型犬、のような空身(もの)

「うわぁあ!」

「――――隔・囲(かくい)

 腰を抜かし、座り込んだ駆に飛び掛る空身は、稲穂が印を切ったと同時に発生した光の檻に閉じ込められる。

(ばく)!」

 その光の檻が鎖のように細くなり、獣の形をした空身は動くことすら叶わないほどきつく、空中に縛り付けられた。

「これはどう見てもあなたの空身じゃ無いわね」

 稲穂はためらい無くその空身の胸を白雪で貫く。真っ白な刃は血に染まることはない。代わりに獣の形をした空身は断末魔だけを残して霧散して逝った。

「あなたは誰かの巻き添えを食っただけみたいよ」

「は、え……?」

 駆は稲穂の言葉にわけが分からない、と言った表情を見せている。

 駆の反応は当然だろう、いきなり『空身』と言われ理解できる人間は退魔師と結界師ぐらいだ。

「良かったじゃない、これから何も気にせずに走ることが出来るんだから」

 駆はしばし呆然とした後、ようやく口を開く

「もう、追われることは無いの?」

「いえ、あなたは追われ続ける、一生」

 稲穂の言葉に駆が肩を落とす。

「でもそれはみんな同じよ」

 稲穂は淡々と告げる。

「人間だけじゃない生命体、非生命体、全てには終わりがあるの。『死』と言う絶対的な、ね。みんな逃げられないのに、それから逃げようとする。迫れば迫るほど、見えれば見えるほど……」

 稲穂は「でも」と駆にはっきりと言い放つ。

「それなら、逃げられないならいっそのこと『死』が逃げ出すぐらい全力で追いかける(走り続ける)。そのほうが前向きでしょ?」

 駆は稲穂のほうを向く。稲穂は初めて駆と出会った時の様に笑っていた。

「……そうだね」

 つられたように駆も笑う。

「忘れてたよ、『走るときには後ろを振り向くな、全力を出せない』って言われていたんだった」

 本当に愉快そうに笑う駆を見て稲穂も満足そうに微笑む。

「もう大丈夫みたいね?」

 寝ている美紀を抱えたフィリアが二人に話しかける。

「うん、ぼくは、もう大丈夫……たぶん」

「自信を持ちなさいよ」

 稲穂は座り込んだ駆に拳を向ける。

「君にそういわれたら大丈夫な気がしてきた」

 小さく笑いながら駆は稲穂の突き出した拳に自分の拳を軽くつつき合わせる。

「立てる?」

 稲穂はそのまま手を広げ駆に手を差し伸べた。

「いや、いいよ」

 駆は弱々しく、しかしすっきりしたように微笑み、競技場の赤いトラックに寝転がる。

「腰が抜けて立てそうに無いけど……今はこうしていたい」

「そう」

 稲穂は手を引っ込める。

「あ、そうだ。今日のことは……」

「うん言わないよ、そもそも言ったって信じてもらえるものか」

「分かっているなら、いいわ」

 フィリアは既にフィールドと外を繋ぐ通路の入り口に立っている。

「じゃあね、がんばって」

 稲穂は駆に背を向けてフィリアの後に続こうとする。

「……また、会えるかな?」

 駆の呟くような小さな声。

「さぁ?」

 稲穂は駆に背を向けたまま、歩く足を止めた。

「会えるかもしれないし、会えないかもしれない」

 首だけで振り返った稲穂はにこやかに笑った。

「そういう『巡り合わせ』だったら、の話だけど」

 稲穂はそう言い残し、競技場から出てゆく。




「巡り会わせか……」

 駆は大の字に寝転び、瞬く星を見上げながら呟く。

 瞬く星は前を向いた駆を祝福するように一面に輝いていた。

 そんな無人の競技場に足音が聞こえる。駆は首を足音のほうへと向けた。

「成程、心因性乖離存在しんいんせいかいりそんざいのことを『空身』と呼ぶのか。フム、実に興味深い」

 駆の耳に聞こえてきた声は威厳のこもった男の声。

 その男が眼を向けてきた瞬間、駆は全身に圧力を感じる。

「えっ?」

 小さい声が聞こえた瞬間、駆が全身に感じた圧力は確実な圧迫となり、物理的に駆の身体を『握り潰』そうとしている。

「う……、がぁっ!」

「……ああ、すまないまだ心因性乖離存在の(ぎょ)し方が分からないのでな」

「い……」

 駆は残酷な言葉の下で、肺から息を搾り出すように声を吐き出す。

「な……」

 圧迫は圧搾となり、駆が初めて自分の意志で呼んだ彼女の名前は届くことなく

「……っっ」

 言い切ることなく最後の眼からこぼれた一滴と共に星空に消えてゆく。

「一つ心因性乖離存在、いや、空身だったか。その空身を失ったのは痛いが……通称とその『空身』を退治する専門家がいるということが分かっただけよしとしよう」

 その男は丸い小さな眼鏡を人差し指で押し上げ、もう人の形をしていない血の池の中の『駆』に背を向ける。

「後はどう制御するか、と言うことか。先は長いな」

 ダークグレーのスーツの男は振り返ることなくその場から立ち去って行く。

 祝福してくれていたはずの輝く星空は、悲しい運命を弔うかのように悲しげに輝いていた。




 雫は朝の爽やかな筈のリビングで、呪いでもかけるかのように、テレビを睨みつけている。

「ただい……ま?」

 ただならない雰囲気を感じ取ったのか、稲穂は白雪を手に持ったまま、報告も忘れて雫の目線の先を見る。

 そこには『再びやってきた殺人鬼』のテロップが踊っていた。

 ――――本日午前一時、人が赤い球体にされるという猟奇殺人が発生しました――――

「え……?」

 ――――被害者は満木高校一年――――

 稲穂は言葉を失う。

 ――――光矢 駆さん――――

 その画面には今晩会ってきた人の写真が大写しに写されている。

 ――――光矢駆さんは一月前に被害に遭った光矢健さんの双子の弟で――――

「あいつは……」

 雰囲気だけで全身を焦がしそうな雫の怒り。

「栢野津司は今何処にいる!!」

 白雪が稲穂の手から滑り落ち、フローリングの床に転がった。

 その音は室内に誰もいないかのように虚しく、響き渡る。




『逃奏・了』


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