3.黄昏
* * *
曇天の下、僕は何時もの日課である満木の河川敷の堤防の上でジョギングをしていた。
あの大会以来、短距離を走ることが怖い、何故か分からないけど怖い。
流そうとした直後、後ろから感じた肉食獣が迫ってくるような、得体の知れない何かの気配を感じた。
満木河川敷公園の手前で立ち止まる。いつもならここで、堤防で駆け下り、駆け上りダッシュを繰り返す。
ただ、今日はとてもそんな気分ではなかった。ジョギングなら問題はなかった。だけどあの大会以降、短距離を走ると『あの気配』が追いかけてくる。自己ベストを次々更新する僕を監督やコーチは喜び、チームメイトは妬んだ。その喜び、妬みが大きくなるほどその追いかけてくる気配は徐々に、しかし確実に早く、大きくなっている。
その上何時もの自主練習のときにダッシュをしても、あの気配は現れるようになってきた。
三度の飯よりも好きだった走ることも、今では走らなければと思うたびに、吐く始末だ。
落ちてきそうな重い雲を見上げる。脳裏に言葉が響く。
――――逃げればいい、己の恐怖から――――
ぞくり、と風邪を引いたかのような寒気を覚える。
そのとき頬に冷たいものが当たるのを感じた。指で拭うと透明な滴。
にわか雨を予感させる雨が降り出す。
僕は満木河川敷公園の公園にある木で出来た屋根にベンチ、そしてテーブルのある場所に逃げ込む。そのあずまやで虫食いが目立つ古びたベンチに座った。
ポツリ、ポツリと降り出していた雨は次第に強くなり、バケツをひっくり返したかのような大雨になっている。
昔から雨は嫌いだった。
グラウンドがぬかるんで、走りたくても許してくれなかったから、と言うことがあるのかもしれない。今日みたいに、周りの音が聞こえなくなるほど強い雨は特に嫌いだった。でも今は皮肉にも、嫌いになった理由と同じ理由で恵みの雨だった。
これで明日は走らずに済む。
騒がしい静寂の中、僕はベンチに座り、ただ雨が止むのをずっと待っていた。
激しい雨音の中、徐々に水溜りを駆け抜けてくる音が聞こえてくる。そして僕のいるあずまやでその足音は止まった。
「もー! 何で急にふりだすのよ!」
その聞き覚えのある声に心臓が跳びあがった。まさかまた、しかもこんなところで再会することになるとは思わなかったからだ。
艶やかな髪は雨に濡れ、服にはり付き、その服も雨にぬれボディラインが浮き出ている。僕は思わず名前を呼ぶのを忘れ、その姿に見入ってしまった。数瞬後、そんな自分を恥ずかしく思い、彼女に背を向ける。
「あ、赤根さんタオルどうぞ、汗臭いかもしれないけど」
僕は背を向けたまま彼女に首に下げたタオルを差し出した。
「あら、駆君? ありがと」
僕の手のひらからごわごわしたタオルの感触が離れる。彼女はタオルを手に取り、使ってくれているらしい。
「そうだ、私のことは下の名前で呼んで」
「え、でも」
流石にあってからそんなに間もない異性を名前で呼べるほど、僕に度胸は無い。
「いいの、そうしないと紛らわしいし……嫌なこと思い出しちゃうから」
その僕が知っているのとは違う、彼女の悲しげな声を聞き、僕は何もいえなくなってしまった。しかしその悲しい声から一転、彼女は前の無邪気そうな調子に戻った。
「それよりもやっぱりここにいたのね、駆君」
どういう意味か聞く前に、彼女は僕の返答を遮るように、彼女に背を向けたままの僕に話しかける。
「最近、悩んでることがあるんじゃない?」
単刀直入に切り込むような物言い。予想外だった僕は心臓が止まりそうなほど、怯んだ。
一瞬、雨の音すら聞こえなくなる。
自分の心臓の鼓動が早くなる音だけが耳に響く。
「何も、言わないのね……分かったわ、もっとストレートに聞いてあげる」
何も言葉を返せずにいると彼女はさらにとんでもないことを言った。
「あなた、『何』に追われているの?」
僕は恥ずかしさも忘れ、彼女のほうを振り返る。競技場で元気そうに輝いていた瞳は、今、射抜くような視線を放ち、僕は威圧感を覚える。
「な、何を……」
思わず声がどもる。
「隠しても無駄よ、私、見たから」
その威圧的な言い方、射抜くような眼、全身の筋肉が緊張する。
彼女の言葉、視線、立ち振る舞い。全てがこの世に居るのに、別次元の人物であるように感じられた。
「――――そうだね、何に追われているのかな」
僕は彼女に再び背を向け、話してみようと思った。頭がいかれている、そう思われることは無いはず。だって実際、たとえようもなく追われているから。
「タイムとかライバルとか、他には期待とか嫉妬とかかな?」
僕は眼を瞑る。未だに強く降る雨とは反対に、ポツリポツリと話し出す。
「いつからそんなものに追いかけられて、走るようになったんだろう?」
眼を瞑ったまま首を後ろにそらす。
「本当、いつからこんなことになったんだろう……、わからないや」
「――――そう、分かった」
僕は眼を開く。目の前にあったのは覗き込む彼女の顔。まだ湿っている、しかしそれが色っぽい雰囲気を与えている、彼女の長い髪の毛が僕の頬に触れていた。
「ナニカの強迫観念、それがあなたの『空身』の原因ね」
「うつろ?」
わけの分からない言葉を彼女は言い、彼女は僕の前に立つ。そのまま僕の手を引っ張り、強引に僕をベンチから引き剥がした。
「さっさと行くわよ」
「ど、どこに?」
戸惑う僕をよそに彼女は僕をあずまやの屋根の下から連れ出す。
「私とあなたが初めて会った場所、よ」
いつの間にか雨は止んでいた。
僕は眼を細める。
茜色の太陽に向かって僕を引っ張っている
彼女が眩しかったんだ。
* * *
最初のほうは稲穂が駆を引きずる形だったが、流石にいつまでもそのままではいられないので、稲穂は手を放して勢いよく歩く。駆はそんな稲穂の後ろを渋々と言った感じでついてきている。
もう既に茜色だった空は、暗くなり星が瞬きだしている。
「あのさ……」
重苦しい沈黙に耐え切れなくなったのか、駆はポツリとこぼす様に話しかける。
「両親が心配してない?」
「家にいないから問題ないよ」
再び沈黙。
どこかでコオロギが鳴く。
「兄弟とか姉妹とかが心配するんじゃ……」
「兄さんがいるけどあいつは気にしない、絶対」
少しずつ威圧感を増す彼女に駆がうつむく
また再び、沈黙が広がる。
何処からかカレーの匂いが漂ってきた。
「でも女の子がこんな遅い時間に……」
ドスン、という腹のそこまで響く音。
「ぐずぐず五月蝿いわね? 黙ってついてきなさい」
稲穂の拳で砕けたブロック塀の一部を見た駆は、短く「ひっ」と叫び身を震わせる。
稲穂はここまですれば駆がこの沈黙が破ることは無い、と考えてのことだったのだろう。実際に駆は恐ろしく引きつった表情をしている。
そこからは無言で稲穂と駆は小一時間、歩き続け荒坏競技場に辿り着く。
「遅かったじゃない、待ちくたびれたわよ?」
入場口で鍵をもてあそび、夜空に輝く月のような金髪金眼を携えたフィリアが立っていた。太陽が出ていないので、フィリアは日よけ傘をさしていない。その所為でもともと目立つ顔がさらに際立ち、夜の闇に映える。
「私、ここに来るって言った?」
「どうせここに連れてくるだろうな、っていう女の勘、よ」
フィリアは稲穂にウインクで返し、稲穂は戸惑う駆を背にしたままため息をつく。
「かなわないなぁ」
稲穂が小さく肩をすくめて笑うのにあわせ、フィリアは楽しそうに笑ったまま門を開く。
「鍵は……まさか能力で作った?」
「違うわよ? あそこの親切な人が貸してくれたのよ」
そう言って悪戯っぽく笑うフィリアが指した先には警備員室と言う名の小屋。その中で妙ににやけた顔で寝ている警備員を見て、稲穂はため息をつく。
「『夢』、ね」
「正確に言えばいん……」
「フィリアさん! 最後まで言わなくていいから!」
真っ赤になって怒っている稲穂を見て「本当に可愛い」とフィリアは満足そうに笑う。
「まさか、あか……稲穂さん」
「そう、そのまさか」
さっきの怒りの名残でまだ頬が赤い稲穂は、若干イラついたように、おびえた表情の駆に言い捨てる。
「ここで走りなさい」
「い、嫌だ……」
駆が一歩、下がる。
稲穂が一歩、駆に寄る。
「逃げるの? 駄目よ」
「嫌だ!」
駆は稲穂たちに背を向け、闇に包まれた街に駆け出そうと大地を一歩蹴る
「甘ったれないで!」
稲穂の叱責。それが鎖のように駆の足を縛る。
「駆! あなたは逃げるために走っていたんじゃないでしょ!」
稲穂は駆に強く、はっきりと言う。その声は白い息に乗り、夜空に染み渡る。
「……来なさい駆君、あなたが何故走って、何のために走っていたのか、答が出る。きっと」
稲穂はきびすを返す。長い、そしてまだ湿り気の残る髪が稲穂の体に一瞬巻きつき、背中に戻る。駆はその背中に無言の圧力を感じたのか、重々しい足取りで稲穂の後に続く。
稲穂と駆の後ろでフィリアが門を閉める音が聞こえる。
その小さな音は、しかし駆にとって、大きな刑の執行音となって星が瞬く空に消える。