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虚無の旋律  作者: 東屋 篤呉
第五章『逃奏奔悩』
26/58

2.駆

 * * *


 地元での大会は国体の直前、と言うことで調整のためか、はたまた僕のように今年鍛えた新人の実力を測るためか、多くの選手が参加している。フィールド競技の投擲種目を横目で見たが、直ぐに目線を外した。100M、短距離の一本道を走るのに他の情報は不要だ。たったコンマ百分の一秒が天国と地獄を分けるシビアな十秒の世界、そこに僕はいた。

「三レーン・光矢駆(みつやかける)

 走るために生まれたような、自分の名前が機械的にアナウンスされる。手を上げて聞こえていることと、チームメイトに自分の場所を示す。

 次々と名前が読み上げられていくその中、僕の意識は速く走るためのイメージをする。そうすることで僕は集中力を高める。

 スターティングブロックの位置を再確認する、調整は不要。

 みんな一斉に位置に着く(セット)

「レディ」

 全員極限まで高められた集中力を指し示すように、腰を上げ、スターティングブロックに別れを告げる準備をする。

 短い火薬の音と同時に、身体にたまった集中力は、風を切り裂く刃へと変換されたかのように鋭い。

 駆ける

 駆ける

 完全に無音の世界を

 駆ける

 駆ける

 肌に感じる風の中を

 駆ける

 駆ける

 ゴールテープを切る(終わりが来る)まで

 ゴールテープが自分の身体に絡みつく、タイムを見ると10秒30と表示されている。

 自己ベストまで後、百分の8秒。

 予選でこのタイム。当然、一着だ。

 スポーツ推薦で入った上月高校に残るためには、更なる結果を出さなくてはいけない。

 学費などを免除してもらっている僕にはどんな大会でも、優勝は至上命題、最低でもベスト3が求められる。ただ、今日は身体が重かったとか、集中力が途切れた、という言い訳は許されず、結果が全て。

 ただ無言でトラックから去り、そのままの足で競技場のシャワールームへ直行する。

 無人のシャワールームで蛇口を捻る。冷たい水が加熱した肉体を撫で、汗を洗い流す。

「やっぱりあの瞬間がいいな……」

 誰もいなかったからか、いや、もし誰かいたとしても僕は同じ事を言っていただろう。

 特待生と言う『代償』を払ったとしても、あの風を感じている瞬間は嫌なことをすべて忘れていられる。きっと走れなくなったら、泳げなくなった(まぐろ)みたいに窒息死してしまうだろう。

 シャワーの蛇口を音が出なくなるまで強く締め、シャワールームに隣接した更衣室で身体を拭く。ジャージに着替えた僕はそのまま更衣室から出た。

「君、楽しそうだね?」

 背が高く、小さく丸い眼鏡にダークグレーのストライプスーツ、年齢にして三十前後の外見の男が、視界に入るなりいきなり声をかけてきた。僕が黙って睨みつけているとその男は肩をすくめる。

「声が聞こえたんだ、この前を通りかかったらね」

 優しげな声のその男が一歩、踏み込んでくる。僕は無視を決め込みその男から離れようとした。

「話ぐらい聞こうじゃないか」

 何故だろう、その男がさらに一歩踏み出した瞬間、僕の両足がコンクリートで塗り固められた床から、まるで根っこが生えたみたいに離れない。

 いや、全身が動かない。

「さっきの走りを見たよ、いや実に素晴らしい」

 その男は眼鏡を左手の人差し指と親指でつまみ、位置を整える。そんな仕草を見ながらも、僕の身体はまるで蝋人形にでもなったのか、と思うほど動かない。

「しかし君はもっと速く走れる。なあに、ちょっとした意識の向け方さ」

 そう言ってその男は僕の右脇に立ち、僕の顔に右手をかざす。

「逃げればいい、己の恐怖から」

 僕から見て左に手のひらを傾けた男はそのまま僕の額を人差し指で軽く叩き

「では失礼するよ」

 静かな声と共にその男の手のひらは僕の目の前を横切る。

 永遠とも思える長い、長い時間から現実の時間に放り込まれた。呼吸は走り終えたとき以上に荒く、苦しい。自分の右側を見ると、あの男はまるで煙のように姿を消していた。

「何なんだよ、今の……」

 僕は、狐か狸に化かされたような気分で、更衣室の入り口に立ちすくむ。

「何で客席にたどり着けないのよー、案内板の通りに歩いているのに……」

 そんな時、僕の耳に何処か疲れきったような女子の声が聞こえてきた。声のするほうを見ると曲がり角からその声の持ち主がやってきた。

 今度は全身に電撃が走ったように動けなくなる。

 風に揺られる黄金色の稲のように、強さと優しさを兼ねそえた美しく、凛とした顔。

 腰辺りまで伸びる艶やかな黒髪。

「あ、丁度良いや」

 僕の耳に届く太陽のように明るい声。

「観客席まで案内してもらってもいい? 競技場って初めてで道に迷っちゃって」

 彼女が近づくたびに心臓が高鳴る。

「えっと……聞いてる?」

「あ、ああ……」

 一目惚れなんて生まれて初めてだった。だからだろうか、のぼせ上がったみたいに思考が上手く動かない。

「えっとどこら辺? そうしないと案内しようも無いからさ」

「このチケットのところ」

「チケット?」

 こんな高校の、しかも地方の大会は入場にお金を取っているはずもない。妙だな、と僕は感じた、が現に目の前にそのチケットがある。席の番号はD-30番。

「分かった、ところで名前は……」

「あ、私?」

 薄暗い通路でも、はっきりと分かる明るい笑顔で聞き返した彼女は人懐っこそうに、元気な声で

「私の名前は赤根稲穂、あなたは?」

 そういい対照的に僕は低めの声で

「僕は……光矢駆」

「うん、駆君ね。よろしく!」

 小さく頷いた彼女の頭につられ、長い彼女の髪の毛が空気を含み、微かに浮かぶように揺れる。柔らかく漂ってくる、香水などとは違う優しい香り。

 この出会いは僕に確実な何かをもたらした。

 いいものか悪いものかは、分からないけれど。


 * * *



「あ、稲穂、遅いわよ?」

 白い日傘を差して席、と言うよりはコンクリートの階段に座るフィリアは、明らかに場違いな存在だった。ちょっと前に稲穂が出会った駆は、ここに何度も来ているのか、あっさりと席を見つける。

 そうは言っても、手を振るフィリアを見たら誰だって眼をそっちに向ける。気がつかないほうが不思議だ。もっとも観客席にたどり着けなかった稲穂は、フィリアを見つけることすら出来なかったわけだが。

「もうここまでで良いわ、ありがとう、駆君」

「じゃあ、僕もここで。そろそろ自分の出番が来るから……」

 そう言って名残惜しそうに去っていく駆。黒のつんつん頭に似合わない、情けない顔のまま観客席から去っていった。

「あら、お手洗いが見つからなかったのかな、って思ったけど、男の子を(たら)し込んでたの?」

「違うよ、道に迷って案内してもらっただけ」

 稲穂は椅子の上を払うこともせずに、ニコニコと笑うフィリアの隣に座った。

「それにうじうじした男って嫌い、ただでさえ雫兄さんが後ろ向きだって言うのに……。気が滅入る」

 フィリアは「あらあら、可哀想に」と呟いてトラックに目を向ける。さっきから延々と繰り返されている陸上の大会。フィリアは若干情報をかじってきたようで、何時ものように優しい笑顔を浮かべ、時々歓声を上げながら楽しそうに見ている。しかしルールを知らない稲穂にとっては退屈の極み。その稲穂が唯一、楽しめていたのは一瞬で勝ち負けが分かる短距離だった。

「あら? さっきの子が走るわよ」

 フィリアの指差す方向に稲穂は眼を向けた。

 確かに駆がスタートラインに立っている。稲穂はふと眼が合ったので、案内してもらったお礼を兼ねて手を振った。

 駆は太陽の光が差し込んだみたいな笑顔になり、手を振り返す。いつの間にか周りの人たちの好奇の視線が、稲穂に集まっていた。

「どっからどう見ても、彼氏と彼女、ね」

 フィリアは本当に愉快そうに、かつ上品に笑う。稲穂としては傍迷惑な話だ。しかしその好奇の目線も選手の名前がアナウンスされた途端に、スタートラインに向けられる。

 誰が勝つのかと、それを知りたがる多数の純粋な好奇心と、ライバルを観察するような少数の観察眼が()い交ぜになったスタンドが静まり返る。

 選手が全員位置につく

「レディ」とスピーカーから流れる無機質な放送(音声)が告げ、選手達は疾走と停止の合間の不安定な体制をとった。

 号砲がなる。

 走る、走る、走る

 ただゴールを目指して

 走る、走る、走る

 駆はあっという間にトップに躍り出る。

 走る、走る、流す

 ゴール直前で駆はペースを落とす。おそらく後の試合に備え、体力の温存をしようとしたのだろう。稲穂としては全力を見たかったが、それも戦略のうち、と無理やり納得した。

 その瞬間、稲穂は違和感を覚える。

 一旦流そうとした駆が、後続の選手達に追いつかれるような位置では無かった筈なのに、再び加速した。

 ほんの一瞬の出来事。ただ見ていた人々は気がつくことは無いほど短い、奇妙すぎる行動。

 そしてさらにその一瞬、『ナニカが』見えた。

 稲穂は思わず席から立ち上がり、ゴールテープを切った駆に目を向ける。駆はまるで長距離を走ったかのように、肩で息をしている。

「あれ? 稲穂ちゃん、どうしてここに?」

 とても聞き覚えのある懐かしい男の声が聞こえ、辛そうに顔を歪める駆から目を離す。

「剣持君?」

 首をかしげた剣持大介が、奇妙なものでも見るように右斜め前に立つ稲穂を見ている。大介は美紀の幼馴染で二人はよくつるんでいた。その縁で時々会う事はあったが、話すのは随分と久しぶりだ。

「何でここにいるの?」

「兄貴の応援。まあ、ついさっき、予選敗退が決まったけどね」

 肩をすくめる大介を見ながら稲穂は、胸に去来する昔に思いを馳せる。

 大介はいい加減な奴だとみんなは言うが、実はとてもまめな人。稲穂が思わず実の兄、久須志を思い浮かべるほどのお節介だ。すっかり日焼けした顔に白に黒いストライプの入った似合わない野球帽、首にかけられた過ぎ去った夏を惜しむような、スカイブルーの汗拭きタオル。秋で大分気温が下がっていても、流石に暑くなるのだろう、大介のタオルからは汗の酸っぱい臭いが漂っている。

「まったく、質問に質問で答える癖、まだ直ってないんだな。稲穂ちゃんがここにいるのは珍しすぎるよ?」

「そりゃ、雫兄さんの代理だし」

「雫もここに来る柄じゃないだろう?」

「招待されたら行くでしょ」

「招待? 誰に?」

 大介は首を傾げる。

「ナナシノゴンベー」

 稲穂ははぐらかすように話す。しかし稲穂にとって、大介を巻き込まないために言った言葉。

「そういえばさ、『この席に座っている人に』って変なおっさんに手紙を渡されたんだよ」

 しかし既に遅かったらしい、彼は巻き込まれてしまったようだ。

「手紙?」

 稲穂は平静を装う。ここに座った人間に渡す、と言うことは招待した張本人の可能性が高い。稲穂の隣にいるフィリアの雰囲気も、穏やかなものから若干鋭いものに変わる。

「そ、手紙。中身は知らないけど、悪い人じゃ無さそうだったし多分大丈夫だろ?」

 緊張している稲穂たちのことを知ってか、知らずしてか、大介はその手紙をフリスビーのように綺麗な回転をかけ、稲穂に投げ渡す。

「じゃ、俺はもう帰るよ。みんなによろしく!」

 大介は稲穂が受け取ったところを見届け、右手を軽く上げて手のひらを左右に捻る。最初こそ違和感を覚えたがこれが彼の「手の振り方」。久しぶりに見たのに今ではごく自然に見える。

「さて、今度は何処に呼び出すつもりかしらね?」

 手紙が焼け焦げそうなほど、封筒を睨みつけるフィリアを横目で見た稲穂は茶色の封筒を、開いた。

『満木河川敷公園』

 書いてあったものはその場所、一箇所だけ。

「随分と無粋な招待状ね。女性を振り回すなんて、ちょっとお灸をすえてやったほうがいいかしら?」

 上品に、しかし腹黒い笑みを浮かべるフィリアに稲穂は意を決し、言う。

「いや、ここには私一人で行く」

「稲穂ちゃん?」

「呼び出している『謎の』人物は恐らく『退魔師』の雫兄さんに用がある。なら退魔師代行の私が行くべきでしょ」

「でも……」

 稲穂は不安げなフィリアのほうを向き、心配させまいと笑顔を見せる。

「大丈夫よ、きっとこいつは何もしないって」

 稲穂は手紙を手に持ったまま、ハンカチを振るようにひらひらと風に揺らす。

「何でそう思うの?」

 分からない、と言うフィリアに稲穂ははっきりと言った。

「空身がいた、間違いなく。偶然とは思えない」

 小さく、しかしはっきりと囁いた稲穂の声は周囲には聞こえなかった。

「誰かが空身を観察しているのかも……」

 そう、誰にも聞こえていないはずだった。


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