1.招待
追う、生き残るために
逃げる、生き残るために
動物は食物連鎖の中、これを繰り返している。
追うもの、逃げるもの、両方に共通していることは生存本能だけではない
『走る』と言う行為が常に存在する
無論、人間も走る
しかしその行為は生存本能からかけ離れたもの
『走る』と言う行為は、肉体と精神を極限まで追い詰める。
ならば何故人は走る?
追うでもなく
逃げるでもなく
生き残るためでもなく
何故人は走るのだろう
『逃奏奔悩』
カーテンの隙間から差し込む光が、まどろみから雫の意識を呼び覚ます。もともと寝起きは良いほうではないが、長時間寝てしまった所為だろう、全身がだるい。寝息が左から聞こえる。起き上がれない体のまま誰がいるのか確認もかねて左に転がろうとする。しかし痛みと共に腕の骨を折っていたことを思い出し、代わりに首だけを傾ける。そこにいたのは稲穂。心配性な稲穂は、雫がうなされているときに、枕元に来て、結局そのまま寝ている、そんなことが多々ある。
雫は自分がうなされるような夢を見ていたことを思い出し、ため息をつく。
しかしそこでため息をつくのは明らかに失態だった。
「ひゃう!?」
いきなり目を覚まし、聞いたことも無い、小動物のような声を上げ飛びのく稲穂。どうやら耳に息がかかってしまったらしい。雫の顔を稲穂の腰辺りまで伸びた艶やかな黒髪が撫でる。
「稲穂ちゃん、可愛いねぇ」
その稲穂の後ろで助平親父のような気持ちの悪い笑みを浮かべる美紀と、いけないものをみた、と言わんばかりに開いた口を手で押さえ、黙っている眞子がいる。
「本当、食べちゃいたいぐらいね」
とても愉快そうに聞こえる声がさらに二人の後ろから聞こえる。
「フィ、フィリアさん?」
入り口付近に立っていたフィリアは、稲穂に名前を呼ばれると同時に、美紀と眞子の首根っこを掴み、部屋の外に引き摺っていく。
「駄目じゃない、兄妹の禁断の恋を邪魔しちゃ」
途端に興奮しだす不法侵入二人組。
「そんな! こんな素晴らしい情報、克明に記録せずして何が情報屋、だー!」
「嘘だよね、嘘だよね! 稲穂ちゃん!」
「二人とも、嘘に決まっているでしょ!」
各々必死に叫び声を上げる仲良し三人娘たち、とその三人を見て楽しそうに笑っている悪女。相変わらず人の周りをかき回すのにも程がある。
「丁度いい、その不法侵入者二人と一緒にさっさと出て行け」
「じゃあ、後でご褒美、頂戴ね」
ウインクをして去っていくフィリア。階段はどうやって降りるのかと思えば、フィリアは騒ぎ立てる二人を豪快に肩で担ぎ、階段を降りていく。
稲穂は三人を追っていったので、部屋には雫独りになった。静かになった部屋で雫は自分の視力と腕の状態を確認する。
魔眼『震炎』の発動後は視力が奪われるため、必然的に学校も休むことになる。今回は一回の発動ですんだため、三日ぐらいで見えるようになったが、まだ霞が掛かっている。腕の骨折は、空身が身体になじんだ雫の自然治癒力が高まっているとはいえ、完治まで最低三週間は掛かる。後、一週間ほどは安静にしないといけない。
「しばらくは退魔師として動くことも出来ないか……」
「あら、そうなの?」
少なくとも精神は安静にさせてくれないらしい、頭痛の種はいくらでも撒かれている。その一つをあっという間に帰ってきたフィリアが持ってきた、そんな予感が響き渡る。
「私の家にね、あなたへの招待状が来ていたのだけれど?」
「――――なに?」
普通に考えたら雫への手紙がフィリアの屋敷に届くはずが無い。そもそもフィリアの屋敷は彼女が空身としての自分の能力、夢を現実にする力を使って作り出したもの、住所自体、ある筈も無い。手紙が届くこと自体が不自然だ。
「『荒月競技場までお越しください 待っています』だそうよ、ご丁寧にチケット付で」
フィリアが取り出したのはたった一枚の紙切れ、雫が見ると高校生の陸上競技大会の入場券だ。何の変哲も無いその一枚の紙切れ、何かの陰謀を予感させる。
「どうするの?」
「どうするも、こうするも……俺は満足に動けないんだ」
現にさき程少し離れた美紀と眞子、フィリアを判別できたのは声と輪郭、髪の色を基準に判断しただけ。常に霧中を睨みつけているような状態で『見えている』、とは言えない。
「仕方が無い」
階段を登ってくる稲穂の気配が近づいてくる。
「稲穂」
「なに、雫兄さん?」
返答の聞こえた方向に、雫は寝転がったまま、鞘に入った白雪を投げる。
「俺が復帰するまでの間、退魔師代行を頼むぞ、稲穂。フィリアはバックアップに付いてくれ」
「え?」
「あら、楽しそう」
白雪を受け取った稲穂は呆然とし、フィリアはさも愉快そうに声を上げる。
「じゃあ、このご褒美は前払いでね」
そう言ってベッドに寝たままの雫に這いよるようにしがみ付くフィリア。
「まさかお前……」
「そう、そのまさか、よ?」
フィリアは雫に反論の余地を与える前に、首筋をくわえるように甘く、優しく噛み付く。その傷口から口付けをするような音を立て、血を吸う。雫は噛まれた痛みに思わず顔をゆがめる。
「ごちそうさま、雫」
フィリアは自分の桜色の唇を小さく舐め、妖艶に笑う。
「まさか、フィリアさん、まだ吸血鬼やってるの?」
「これは私の本質だから、しょうがないのよ、きっと。でもね、一年半前にあって以来、血を吸ったのは今日が初めてよ」
普通の空身ならとっくに消滅しているはずの期間。それでもフィリアがまだ一つの存在として生きているのは、人の魂の一部、血液を複数人から少しずつ摂取し、蓄積することになったからだろう。喩えるならフィリアは魂、と言うエネルギーをつんだタンカーみたいなものだ。
そんなフィリアがここで血の補給をしたのは表情に出さないものの、なにやら不穏な雰囲気を感じているからなのだろう。
「じゃあ、行きましょう、稲穂」
そう言って雫の部屋から出て行くフィリアと、連れられて出る稲穂。雫のぼんやりとした視界の中、ドアの向こうに消えていった。
これでようやく静かになったと感じた雫の耳に、「妙な奴がいたらぶっ飛ばしてやるから!」と勇ましく叫ぶ、いつに無く気合の入った稲穂の声が聞こえる。
「――――不安だ」
自分で頭痛の種をまいてしまった、と感じた雫はためらうことなく頭を押さえる。
窓の外では銀杏の葉が落ちだすころだろうか。
窓の隙間から吹き込む風が冷たくなってきた。