6.夢想
* * *
「よっ、と」
邪魔くさい家屋の屋根をいくつも跳び越え、私は両隣が更地になっている家の前に辿り着く。真澄の家の敷地には倉庫や、何かの廃材が散乱している。今日、私は真澄をあんな最低な人間から引き離して、辛い思いをさせないために、家を作った。私なら一生真澄を愛せる、真澄を幸せに出来る。
だって私は夢を形作ることができるから。
家のように大きいものは初めて作ったけど、今日あった二人は建造物として認識してくれた。二人のメイド、百と合も生み出せた。真澄が望みさえすれば新しい家族だって作ることができる。私と暮らせばもう血を失うことも無い。私も吸血鬼なんて呼ばれることの無い、普通の人間として生きていくことが出来る。
そんな時家の中から響いたガラスの割れるような音。何かの怒声と家の裏手の窓ガラスに何かが当たる音も続いて聞こえた。
私は嫌な予感がよぎり、真澄の家の裏手にまわり窓ガラスから、明かりが裸電球一つだけの室内を見た。
その光景を見た瞬間私は頭の中が真っ白になる。
傷がつき、血のついた窓ガラスの向こうには畳の上に横たわる真澄の姿。白い顔で眼を閉じたまま動かない精気の無い表情。頭部を囲むように散乱する細かいナニカ。
そして今も頭部から流れ続ける赤黒い――――血。
「真澄!」
思わず叫んだ瞬間、窓ガラスに押し付けた両手のひらにこもる力。正面の窓ガラスは輝く海の砂のように砕け落ちる。そのまま靴も脱がずに真澄に駆け寄る。
「土足で家の中に上がらないでくれよ?」
一瞬、昔真澄が苦笑いしながら言った言葉が頭に響く。
「真澄!」
彼の頭を抱え、彼の名前を呼ぶ。
「なんか、恥ずかしいな」
御互いに頬を染め、初めて口付けを交わしたときの甘い感覚と彼の言葉が蘇る。
今その口は閉ざされたまま、唇も頬もどんどん青ざめていく。
「お願い! 眼を覚まして!」
ピクリとも動かない彼。代わりに視界の隅で動いているのが憎いアイツ。
「あんだぁ、おめぇ? このカスの女かぁ?」
「誰が、カス、ですって?」
口から出たのは私の声とは思えないほど低い、威圧的な声。彼は凍りつきそうなほど冷たくなっていくのに対して、私は血が沸騰しそうなほど全身がアツイ。
彼が褒めてくれた金色の髪の毛を真澄の父親は掴み、私の視線を自分に向けさせる。おかげで見たくも無い酒臭い顔を拝むことになった。
その顔は、真澄そっくりで、真澄が汚されたようで
「カスにカスといって何がわりぃんだ?」
「……ふざけないで」
こんな奴が親でも彼は愛していた。どんなに暴力を振るわれても「悪いのは僕さ」と言って諦めたように笑っていた。私は歯軋りする。
「実の子を、殺そうと、する奴に……」
彼はこうも言っていた。「実の親を恨むことはできないよ。君に、出会えたから」と
それなのに彼は愛を全て仇で返された、命を投げ打ってまで尽くしたのに。
「あんたなんか」
償いの気持ちも持たないこいつなんか
「シンデシマエバイイ」
右手が真澄を汚した顔に伸びる
聞こえる苦悶の声。目の前のあいつは私に顔面をつかまれたまま大地から離れ、足をばたつかせる。
髪を掴んでいた汚らわしい手は、今、私の手を掴み引き剥がそうとしている。
何か言いたそうな眼。肺と喉は空気の出し入れに専念しているのか声も出ない。
「その身をもって償いなさい」
硬い、尖ったものがぶつかりこすれたような小さなゴリッと言う鈍い音が響く。
だらり、と足も腕もたらした肉体を窓の外に放り投げる、あんな奴の血なんか触れることも汚らわしい。
そのときうっすらと真澄が眼を開ける。
「真澄!」
私はすっかり冷たくなった彼を抱き起こし、悲しみと嬉しさで泣きそうになった。
「はは、祈りは届いたのかな、君がここにいるって事は」
「真澄、今から血をあげるから少し耐えてね」
薄く笑う彼に、私は今日手に入れた血を彼に移そうとした。しかし彼は首を横に振る。
「いや、もういいんだ」
「え……?」
弱々しい声なのにはっきりとした意志。
「自分でも感じているんだ、もう最期だってね」
今にも消え去りそうな弱りきった表情で囁くように呟く彼。
「最期にさ、また、キス、しようか」
「何度でもいいから、最期なんて……」
私は彼に口を塞がれる。
今までとても甘く感じていた口付け、今はしょっぱい塩の味がした。
「なんか、恥ずかしいな、やっぱり」
あの時と同じ言葉を言った彼は、私の頬に手を伸ばす。そのまま彼は私の頬を伝う滴を拭った。
「君は、新しい恋を、見つけて」
もう聞こえなくなりそうな小さな声。
「どうか、君は、幸せ……に」
彼の手が畳に落ちる。
私の涙がその畳を濡らす。
「夢を、ありがとう、僕の理想……」
それが最期の彼の言葉だった。
* * *
「この家の中……だな」
人影が飛び去った方向に夜の街を駆けた雫たちの目の前に、血の匂いがする平屋の一軒屋。
この付近に来て姿を見失ったからほぼ間違いないだろう。家に一歩近づくと中から悲しげな嗚咽が微かに聞こえる。
雫は一瞬ためらった後、ドアノブに手をかけ静かに扉を開ける。中に広がっていたのは惨劇。血濡れの畳に横たえられた男性、その人にすがり泣き続ける女性。庭には首があらぬ方向に曲がった人間だったモノ。
「お願い……」
唯一、この場で生きている女性、フィリアが雫たちを視界に捕らえ、すがるように金色の眼を覆うまぶたを腫らして言う。
「血を分けてください、早く、真澄が死んじゃう!」
雫は黙ってコートのポケットから白雪を取り出し、鞘から抜く。刀を抜き、青く光り始めた雫の目に映ったのは死に掛けの人間とフィリアを結ぶ『繋がり』を『視る』。
その幾数多の青く光り輝く線のうち、フィリアから伸びるたった一本の太い『繋がり』が瀕死の人間と繋がっている。これが意味するところは彼と彼女が同じ存在だということ。つまり
「お前……、空身だったのか」
「わけの分からないこと、言わないで早く!」
そう叫ぶフィリアから伸びる太い『繋がり』が薄くなり、消え去った。
意味するところは彼の死。
「無理だ、そいつはもう死んでいる」
助かると信じて疑っていなかったのだろうか、フィリアは眼に涙を浮かべたまま「真澄!」と何度も繰り返し、彼にしがみ付く。
「……お前は生きたいか、それとも俺に殺されたいか?」
「雫兄さん?」
稲穂は首をかしげ怪訝な表情を浮かべるが、フィリアは真澄にしがみ付いたまま震えるように動くだけで何も答えない。
「さっさと答えろ」
反応がない所為か、雫は苛立ち紛れに短く伝える。
「何が……」
ようやく聞こえてきたのは雫の声も届いていない小さな悲しみの声。
「何が『夢をありがとう』よ、死んだら何も意味が無いじゃない、叶え、無ければ、夢なんて、意味、無い、じゃない……」
嗚咽を漏らしながら途切れ途切れに紡がれるフィリアの言葉。
「何が『私は夢を作れる』、よ。それ以前に、叶えることも、出来て、いない、の、に」
「夢……ね」
雫は呟き、刀を持ったままフィリアに歩み寄る。
「夢を見られただけでも、彼は幸せだったんじゃないか?」
フィリアは、ぶっきらぼうに言い放った雫を潤んだ眼で睨みつける。
雫はその射殺すような視線に肩をすくめる。
「もし夢が叶えなければ意味の無いものなのだとしたら、だ」
雫は無表情。しかし過去の己に思いを馳せているのか、それとも自己の弁護のためか、その声はどこか悲しく痛々しい。
「夢を叶えられなかったとき、叶えようとしたそれまでの行為も無駄になるということだ、違うか?」
この家の前を何も知らない車がエンジン音を響かせ通過する。ハイビームのままのヘッドライトの光が窓ガラスから差し込み一瞬、黒ずみだした室内を鮮明に映し出した。
「お前は自分の『作った』夢を否定するのか?」
フィリアは反論をしようとしたのだろう、口を開きかけ、しかしそのまま口を噤む。
「お前は彼と共に過ごした夢を否定できるのか?」
「――――ふざけないで!」
フィリアはそのまま噛み付いてくるのではないか、と思うほどの勢いで立ち上がり、金髪を揺らし、叫んだ。
「私たちの愛は本物だった! 私が彼からはみ出した思いの一部であっても、それだけは本物よ。否定? そんなこと、出来るわけない!」
「ならそれでいいだろう」
雫は自分の感情を封じ込める。雫に刻み込まれた罪は、雫に優しい感情を赦さない。
「お前がそう言うならそこの彼、真澄も救われる」
雫は仰向けに、血溜まりの中、安らかに、満たされた表情で眠っている真澄を見る。
それにつられるようにフィリアと稲穂の視線が彼に注がれる。
「私はさ、真澄さんのことなんてこれっぽっちも知らないよ」
今までずっと黙っていた稲穂が口を開く。
「だけどこんな顔、幸せだって感じていなければできないよ、絶対」
フィリアは真澄の顔をじっと見つめている。
「さて、本題に移ろう」
雫は唐突に不機嫌そうに切り出す。
「さあ、帰るところを失った空身、フィリア。お前は一人の存在として生きるか、それとも俺にこの場で殺されることを選ぶか?」
フィリアは真澄の顔を見たまま雫のほうに顔を向けずに小さく、蚊の鳴くような声で呟く。
「生きたい」
真澄の顔から目を離し、フィリアは金色の眼でしっかりと、強い意志を奥に湛え雫を見つめる。
「彼の私への思いを無駄にしたくない、彼の存在を無にしたくない」
一言ずつはっきりと口に出すフィリアの眼にはもう、光が宿っている。生きる決意をした『人』の眼だ。
「なら、勝手にしろ」
雫はその場を稲穂と共に後にする。外は既に少しずつ日が昇りだし、夜の闇は橙色に染まりつつある。雫は朝と夜の境界にある紫色の雲を見上げた後、横からの視線を感じ不思議なぐらいにこやかな笑顔の稲穂を見る。
「何だ?」
「いや、根っこは変わっていないなって思っただけ」
雫は稲穂の言葉に眉根を寄せ、そのまま目覚め始めた街へと歩き出した。
情けばかりの朝食を終え、昼ごろにたどり着いた新住居前、シルバーの車が止まっているところを見ると充彦はどうやら到着したらしい。稲穂は雫の隣で恐怖感を覚えるほど邪悪な笑みを浮かべている。雫も充彦に言いたいことは山ほど在るが、その雫でも充彦に哀れみを覚えてしまう。
稲穂がドアノブに手をかけたときに紅茶の香りが微かにする。充彦が紅茶を入れるのは来客のあるときだけだ。
「まて、稲穂、中にお客さんが……」
言い切る前に稲穂は壊しこそしなかったものの、玄関のドアを勢い良く開く。
「この馬鹿義父……さん?」
硬直する稲穂、雫は頭に手を当て稲穂の何時もながらのパワープレイにあきれ果てる。
しかし驚きはそれだけではなかった。
「稲穂、雫のお客さんだ、少し静かにしなさい」
「あら、稲穂さんこんにちは」
雫は、充彦ではない方のあまりにも聞き覚えのある声が信じられず玄関を覗く。傘立てにある誰も使わないはずの真っ白な日傘の存在が妙に際立っていた。
「あら、雫さんもこんにちは、昨日の夜はどうも」
「雫が? 意外だな……」
「――――誤解を招くような物言いは俺へのあてつけか」
何故か充彦と紅茶を飲んでいるフィリアに、雫は据わった眼で睨む。私は知らない、とでも言いたげに充彦は眼をそらした。
「それは昨日の夜、散々傷つけられましたからね」
フィリアはもう酷いんですよ、とでも言いそうな表情でため息をつく。
「――――おい雫、警察官として見過ごせんぞ。何をしたか白状しろ」
「もう一度、言おう――――誤解を招くような物言いは、俺へのあてつけか」
昨日の夜、雫たちはフィリアの立ち直った姿を見たが、これはいくらなんでも変わりすぎだろう。フィリアはすっかり妖艶なお嬢様として振舞っている。
苛立つ雫と戸惑う稲穂をよそに、フィリアは徐に立ち上がった。
「それではわたくし、失礼いたしますね」
「おや、雫にお話があったのでは?」
「たった二言三言なのですぐに用は済んでしまいますの」
そう言ってフィリアは玄関で眉間に皺を寄せている雫の前に立ち、目線が合う。雫と大して変わらない身長は女性としてはかなりの長身だ。
「私、真澄が望んでくれた通り、幸せになりますね」
優しさと零れんばかりの笑顔を雫と稲穂に向ける。
「生きて、成長して、友達を作って、新しい恋をして、幸せになりますね」
真澄と言う人物の想いから生まれた空身は、一人の人格として独立して生きていく。
「だから……」
一瞬眼を閉じたフィリアを稲穂と雫は怪訝な顔をして見る。
途端、上半身を伸ばし薄紅色の唇で雫に短い口付けをする。充彦は野次馬根性丸出しで短く口笛を吹き、稲穂はフィリアのあまりに早い行動に唖然とする。
「新しい恋、受け取ってくださる?」
「……断る!」
わなわなと身体を震わせ、怒鳴る雫。「あら残念」と悪戯っぽく笑うフィリアはいつの間にか日傘を手に取り、玄関から外に出る。優雅に開かれた傘は日光に照らされ眩しいぐらいだ。
「それでは皆さん、ごきげんよう」
そう言って後ろを向き何処か違う世界にいるような錯覚すら覚えるその光景。普通なら見惚れるような姿に雫は立った一言だけ吐き捨てる。
「女心が理解出来ない」
「うん、女の私でもそう思う。でも……」
稲穂は愉快そうに笑う
「強いよ、フィリアさんは」
雫はやはりよく分からない、と言った感じで頭に手を当てる。
「ところでさ、義父さんお昼まだなら私が作るよ?」
今度は一転、黒い笑顔を浮かべ充彦に微笑みかける。
「お、稲穂の料理は初めてだから楽しみだな!」
「うん、楽しみにしててね」
そう言ってエプロンを取りにいく稲穂の後姿を見送った。
「――――充彦」
「ん? 雫、なにやら偉く深刻な顔をしているが」
「死ぬなよ?」
「は?」
一時間後
屍のなりそこないがテーブルに突っ伏していたのは言うまでもない。
ふと、雫はポケットに白い封筒が入っているのを見つけた。表紙を見ると『フィリアより』と書かれている。中を開けてみると入っていたのはやはり手紙。
* * *
雫さん、稲穂さん。あなた達にはすごい感謝している
私は自分どころか彼との思い出まで見失うところだった
だから困ったときはいつでも呼んでください
夢を現実にする私の力で
あなた達の力になります
それに
いつまでも自分を思い続けていたら
いつまでも先に進めない
そうでしょ?
それではいつでも乙藤邸でお待ちしております
乙藤 フィリア
追伸・いつか振り向かせて見せますからね?
* * *
「前向きなのは結構だが……」
雫は追伸の部分に眼をやり、こめかみを押さえる。
「やっぱり女心は分からない……」
『夢想・完』