1.ネオン
僕は何を求めた?
僕は何を拒絶していた?
求めるものは見えても届かず
拒絶するものは常にまとわり付く
僕は何を得た?
僕は何を失った?
手に入れたものは何も無く
手から零れ落ちるものは滝の如し
はっきりしていることは二つだけ
僕は希望を望み、手を伸ばしたこと
その手が掴んだものが絶望だったということ
――――ただそれだけだ
『涙炎縛鎖』
1.ネオン
眩しいほどのネオンが商店街に溢れていた。真昼かと錯覚するほど明るい照明は闇を追い払うように輝き続ける。
しかし一歩はなれた脇道。その道は光の強さの分だけより深く、飲み込まれたら逃げ出せないような暗闇に包まれている。人も本能的に恐怖を感じるのか誰も近寄ろうとはしない。
だから例えその中でどんなことが起こっても多くの人は見ざる、言わざる、聞かざるを決め込む。何が起こるかわからないからと言うよりは血の匂いがしたからだろう、それは生命体として、ごく自然な回避行動だ。
「いいぞ……」
その闇の主は手を震わせ昂る感情を必死で押さえつけ、口の両端は釣りあげる。
「この力があれば何でも出来る。無力だった僕はこれで最強だ!」
目の前にある細い路地は水風船が破裂したかのように赤い血が飛び散り、地面には一面の血溜り。彼の正面には暗闇に足を踏み入れた人間だったものがそこにいた。まるでそこだけに地獄が生まれたかのようなむせ返る血の匂いの中、彼は立っていた。
「僕はあいつ等を処刑する」
彼はビルの間のわずかな隙間に覗く天を仰ぐ。細い糸のような月を見つめ両手を広げ、酔っ払いのように、しかしはっきりと叫んだ。
「僕はこの力で復讐する! 僕達をあんな目に合わせた奴に報いを!」
彼は一度目を閉じ口も閉じた。
「妹を酷い目に合わせたあいつらを僕は……」
すっと開いた目は先程までの陶酔しきった眼とはうって変わり、冷たい狂気を宿していた。
「……殺してやるんだ」
その眼は歪んだ虚空を睨んでいた。
「赤根さん! お見舞いに行こうよ!」
高校の昼休み、自分の作った弁当を食べていた赤根雫は唐突に話し出した大崎美紀を冷ややかな眼で見た。雫はもともと教室の机で食べていたはずだった。もともとクラスメイト達には冷たい奴として避けられ気味である雫はむしろその状況を気楽に過ごせる場所としていた。
それなのにいつの間にか雫の一人の静かな昼食は、美紀とその美紀に連れられてきた安藤眞子と妹の赤根稲穂を加え、賑やかな、もとい、騒がしいものへと変化してしまっていた。
適当に話を振られる様になってしまった雫は適当に相槌を打っていたものの三人の話は全く聞いていなかった。だから突然「お見舞いに行こう」と言われても話の流れも分からない。もっとも、雫には全く面識のない人間のお見舞いに行く神経を理解出来なかった。
そんな雫の内面を知ってか知らずか、稲穂が大雑把に説明をしてくれた。
どうやら今は他校に通学していた美紀の親友の一人が大怪我したらしい。それでお見舞いに行くならば大勢のほうが賑やかでいい、と美紀が意見をした。だから美紀は「お見舞いに行こう」と雫に声をかけたと言う。
「興味ない」
「赤根さんの話をしたら興味持ってくれたのに」
「俺は、知らない。それに人のことを勝手に話すな」
「結構美人だよ?」
「興味が、無い」
雫の視界の隅で何故か眞子が一瞬緊張し、すぐにその緊張を解いたところが見えた。最近の眞子は四ヶ月前の連続失踪事件以来、随分と明るくもなったし友達も出来ている。事件の記憶も残っていないはずで、さらに特に気になるような兆候もない。しかし本能の記憶が雫に対する恐怖心のようなものがあるのだろう、雫と二人だけの状況に身をおくと顔をそむけ、逃げ出してしまう。
雫は稲穂にそのことを話したら「兄さんの鈍感」と理不尽な悪口をボソッと言われたことも思い出し、よりいっそう不機嫌が募った。
食べかけの弁当箱に蓋をしてさっさと教室から出る。背後から非難の声が聞こえるが聞こえないふりをして確実に一人になれる場所へ向かう。
階段を登りきり校舎内と屋上とを隔てる重い扉の前に立ちそれをそっと押す。特に音も立てずに開いたその扉は風に流されてきた黄色に染まったイチョウの葉を呼び込んだ。屋上に出た雫はさっきまで食べていた弁当箱を開き昼食を再開する。
雫はこの屋上と言った開放的な場所が特に気に入っている。雫にとっては幻想であれ何者にも拘束されない、束縛されないという実感を得られる貴重な場所なのだ。
木々が赤や黄色に染まりつつある街並みにかすかに聞こえるパトカーのサイレンの音がこだましている。
「しばらく充彦は帰ってこれないかな?」
雫は最後にペットボトルのお茶を一口飲んで弁当箱を片付ける。立ち上がった雫は街を見下ろした。
「そういえば、『あの時』から今日で丁度三年か……」
雫は目の奥に鈍い痛みを感じたまま、空の弁当箱を持ち、屋上と言う幻想の世界から校舎内と言う現実に再び舞い戻った。
* * *
「赤根警部!」
大声で呼ばれた一見すると優男風の『警部』が新人の町田博敏の脳天を一発だけ叩いた。その光景は、商店街の脇道の前で青いビニールシートが敷かれ、多くの捜査員がいるという物々しい雰囲気の中ではいささか異様とも言えるものだった。
「……失礼いたしました充彦警部」
「分かればよろしい」
充彦は満足そうに頷いたがその表情は険しいものだ。もっとも現場の捜査に加わっている以上、当然といえばそれまでではある。
「何か分かったのか町田?」
「ほとんど全く。確証が得られないとは言ってますが……鑑識の報告では……」
「もっと簡潔に言えというのは何度目だ?」
「失礼しました。どうやら現場の状況から被害者……と言えるかは分かりません。しかし人間であったなら押し固められたため死亡した、と見て間違い無さそうです」
「……って事はやっぱり同一犯か」
充彦は町田に背を向け青いビニールシートの間をくぐり、その現場に入った。その現場は出来ることなら犯行当時の状況を知りたくないと思わせるような惨状の面影を未だに残している。しかもこれは今月に入って三回目の現場だ。
建物と建物の間の地面から壁まであたり一面、まるでペンキの缶を丸々ぶちまけたかのように赤黒い血がべったりと広がっている。その中心にある被害者の居た位置を示すマークは血がまだ乾いていないのでチョークで書くことができない。そのため紐をチョークの代わりに使っている。
しかしそのマークは極端に小さい。
どのくらい小さいのかと言うと丁度ソフトボールのボールぐらいの大きさだ。
正式な科学鑑定にかけてみないとはっきり信じることは出来ないだろうが、そのソフトボール大の物体は人間であったことを想像させる。なぜならその物体を手に取った瞬間、その中身から学生証が血まみれで顔を出したのだから。
充彦はあまりにも非現実的な状況を伝えられた際、不覚にも目眩を覚えそうになっていた。何でこんな奇妙で非現実的な事件はいつも自分に任せられるのかと。
「本当に充彦警部ってこういう超常現象と言うか不気味な事件に縁がありますねぇ。前は確か……そうだ連続焼死事件! 現場から可燃性の物体の痕跡が全く無かったって言う怖い事件でしたっけ?」
取り敢えず充彦は後ろから来た神経を逆なでする町田を蹴り飛ばす。半ば八つ当たり的な一撃は鳩尾に入ったのか、町田は呻きながら何か言っている。その町田を放置して充彦は現場を後にした。
「既にここには証拠は残っていない。被害者の周りから犯人像を洗うぞ」
充彦は町田以外の警官に指示を出し、パトカーに乗り込む。優男風の充彦警部は呻いている町田を放置して本部に戻る。
充彦に関わった人間曰く。優しいときは優しいが驚異的なスパルタン、あるいはサディスト。それが赤根充彦警部の正体と言う点で全て一致している。その評価の原型が全て今の充彦の行動に集約されていると現場の捜査官は感じたに違いない。
もっとも口に出して言う人間はこの場には居ない。
* * *
* * *
私がたった一人でいる病室のドアが騒がしい音を立てて開く。何時もの彼女、美紀であることは間違いない。こんな風にスライド式のドアを端から端まで叩き付けるように開く友人は彼女以外にありえないからだ。一緒に来た友達二人はかわいそうなことにびっくりして声が出ないのか、入り口付近で黙っている。そんな二人を差し置いて美紀は私のベッドの方へ駆け寄ってくる。私はベッドから上半身を起こしちょっと久しぶりの友達を迎えた。
「やっほー! 三日ぶり! 元気してた?」
私のベッドに手を付き話す美紀の一方的な言葉に、私は思わずクスリと笑ってしまう。元気な美紀が居ると自然と笑みがこぼれてくるのは彼女の最大の長所だ。多分そう思うのは私だけではないはず。
「うん、リハビリが終われば退院できると思うよ。そのリハビリにどれだけ掛かるかはさっぱりだけどね」
「先が見えただけでも前進だね、うん前進!」
美紀は風を感じるほど元気よく頷いた。
「遅くなったけど……お邪魔します」
「はじめまして。栢野瑞葉です。ちなみに美紀は五月蝿くないほうが怖いぐらいだから気にしないでね」
「あっ瑞葉、ひどい!」
私はそんな美紀の声を聞いてくすっと笑った。やっぱり美紀はこうでなくちゃ美紀じゃない。
「そういえば美紀の話していた『赤根さん』は? 今日、来ていないみたいだね」
「何を言っても『興味ない』の一点張り、美人だって言ったら男なら誰でも来るでしょ、普通なら」
「でも普通じゃないから面白いんでしょ? それと私を勝手に脚色しないの!」
「女の私から見ても相当な美人だと思うけど? 銀髪で顔立ちも優しいし色白だし……」
私自身はそういった褒め言葉がとてもくすぐったく感じる。「みんな、からかうの止めてよ」と言おうとしたときにふと美紀の友達の名前を聞いていないことに思い当たった。
「そういえばまだ名前聞いてなかったね」
じゃ、眞子からだ言ってこい! と美紀のはっぱで、さっきまで終始黙っていた美紀の友達の初めて声を聞いた。
「……安藤眞子です、栢野さん、よろしく」
あまり明るい印象はこの部屋に入ってきたときからなかった。やっぱりと言うかボソッとした言葉で、美紀とは対照的な大人しい子、と言ったところ。美紀と苗字を合わせればフィギュアスケートの選手の名前になることに気が付いたけど、冗談が通じるか不安な感じだったから何も言わないでおく。
「よろしく、それから私のことは名前で呼んでね。その代わりといっては何だけど私も眞子ちゃん、って呼ばせてもらうから」
「ちゃんって……」
何処か不服そうな彼女に私は手を伸ばし握手を求める、ベッドから動くことが不安なのは何時ものことだ。眞子ちゃんは戸惑っているのか、手のひらに彼女の体温を感じるまで少しの間がある。ようやく触れた手は少し強張っているように感じた、と同時にまるでパズルのピースが欠けているように、何かが足りないような妙な感じも受けた、けど気には留めない。
私だって致命的に欠けているものが有るから。
「次は私ね。赤根稲穂です、名前で気が付くと思うけど赤根雫の妹です、今日来ていない無愛想な兄さんともどもよろしく、瑞葉さん」
私はその『兄さん』の酷い言われかたにおもわず小さく笑ってしまった。こっちの友達は礼儀正しさの中にお茶目さ、あるいはやんちゃな印象が見え隠れしている、気がした。
「あれ、『赤根さん』の妹さんなの? じゃあ、『赤根さん』じゃ紛らわしいから名前で呼んでもいい?」
「瑞葉さんが先に名前で呼んで、って言ったじゃないですか」
稲穂が顔に笑みを湛える様に笑っている声が聞こえる。私はそんな稲穂が手を伸ばしている気配を感じた。私はその手を探り当て、その手を握った。
「瑞葉さん、もしかしてと思ったけれど……やっぱり目、見えていないの?」
そう、確かに私は二週間ほど前から眼がみえなくなっている。
怪我の後遺症かと思った医者が検査をしても原因は分からず、結局はストレスによる一時的な失明、と言う曖昧な形で処理されて経過観察を受けている。『リハビリ』も眼が見えなくても生活が出来るようにするための処置のことだ。
しかし私は不思議な感じで眞子や稲穂に見えない眼を交互に向けた。確かに私は目が見えなくなっても、目が見えているかのように振舞っていた。だから気がつかなかった事に不思議はない。むしろ私が違和感を覚えているのは目が見えないことに気が付いた事よりも、二人の驚きように対して、だ。もしかしてと思い、親友にこの疑問点の解説を求める。
「ちょっと、美紀~? もしかして何にも言っていないで二人をここに連れてきたの?」
美紀は舌を出し、バツが悪そうに頭をかいている、のだろうきっと。そういうことは意外と目が見えなくても分かってしまう。事実がどうあれ、と言う但し書きが付くけれども……。
だから早くこの視力に帰ってきてもらいたい。
戻ってきた視力でこの眩しい世界を見つめたい。
だから
『早く目を覚まして欲しい』
* * *
久しぶりの休日に雫は部屋に閉じこもっていた。別に外は雨が降っているわけでもない、むしろ呆れるほどの快晴。ならば何故、部屋からでないのかと言うと五月蝿い奴らが家に来ているからだ。
階下から聞こえてくるのはクラスメイトである美紀と稲穂の笑い声、そして義父の充彦『警部』の新人部下である町田の他愛も無い話。何故か気があったらしく大声で話している声がとてつもなく騒がしく、苛立ちが募る。だったら何故外に出ないのかと人は疑問に思うだろうが、雫にとって一番の問題は部屋を漁られる可能性があることだ。
人は何をそんなに神経質になっているのかと言う人もいるだろう。しかし雫の場合は銃刀法違反確実の代物を部屋においている。それそのものを犯罪に使うことは無いということは、刀を持っていることをはじめから知っている稲穂はさておき、美紀もあんな性格をしているが模造刀だといえば誤魔化せるだろう。
ただ今日は警察官が一人いる。そんな状態で刀を見られるのは不味い。ベッドの下で眠る二振りの刀、『白雪』と『閃黒』を取られては今日の夜の見回りが出来ないどころか退魔師としての仕事が出来なくなるからだ。
『白雪』は名も無き女性の刀匠が作ったといわれる短刀の形をした霊刀である。
この『白雪』はあらゆる『繋がり』を絶つことの出来る刀。人間に対しては完全な非殺傷武器、空身に対しては安藤眞子のケースのように問答無用で襲われたときや空身の未練を断ち切るときなど、強制的に『説得』する必要のあるときに使用することが出来る。
その気になれば誰にでも使うことが出来、『繋がり』を絶つために『白雪』を手に取った人間は一時的に瞳が蒼くなり、『繋がり』を視覚化することが出来る、と言う特徴も持つ。
対して『閃黒』は望めばどんなものでも切り裂くことが出来るという刀身が闇のように深く黒い妖刀。
ただこれは『白雪』とは違い適性のある人間、それは異能持ちなどの人間にしか使うことが出来ない。
この刀は主を選ぶ。刀が主を選んだばあい、『閃黒』はその主の一部として機能するようになる。
そして『白雪』とは違い『閃黒』は人間などの物理的存在や空身などの概念的存在もお構いなく斬ってしまうため完全な「殺す」ための刀。出来ればこの刀の出番は来て欲しくはない。
「俺は……あんなことは二度と、絶対に……」
そんな時、下の階から二階に居ても耳をつんざくほどの奇声が雫の耳に届いた。何をしているかは知らないが今の声で雫の堪忍袋の緒は切れた。
「町田と美紀の野郎ども……」
雫はぽきぽきと拳を鳴らし自室のドアノブに手を伸ばす。
「シメる」
扉が開き、静かに死刑執行のゴングがなった。
その直後、いつの間にか茜色になっていた空には近所の人々に静寂の訪れを予感させる絶叫が響き渡っていた。