5.時雨
稲穂は気が付けば夕立の中、水溜りの群れを泥水が撥ねることも気に留めず、傘も差さずに自分の家の門を駆け出していた。
前から常々思っていたことだが、武家屋敷のような大きな家である以上、つき物である長い塀を稲穂はとても恨めしく思っていた。それでも全力で駆け抜けた所為か稲穂は瞬く間に雨下家の門の前にたっていた。
大きなお寺のような門は扉が閉まっている。当然ながら雨下家とその親類縁者以外の立ち入りを禁じた儀式を内部でして居る以上、脇の勝手口も閉まっている。これでは絶対に入ることなど出来もしない。
普通なら。
稲穂は右足をあげて自分の身体に引き寄せ、そのまま突き放すように稲穂の身長の二倍ほどはある大きな扉を『蹴破る』。重く響く扉の悲鳴など気にも留めずに稲穂は雨下家の敷地内に駆け込んだ。
目の前から、雫の誕生日のときに来ていく、といっていた白のワンピースを着た紫藍が逃げるように走ってくるところだった。
「紫藍!」
「稲穂、雫が、雫、がっ」
稲穂は紫藍に駆け寄り抱きしめる。嗚咽を漏らす紫藍。純白だったワンピースは雨に濡れ、泥もはねている所為で見るも無残な姿になっていた。
「大丈夫、もう怖くないから」
稲穂は優しく声をかける。
「私が守るから」
周囲に唐突に現れた四人の気配、稲穂は紫藍を抱えたままの体勢で背後に拳を振るう。何かの金属の折れる音がした。稲穂は紫藍との抱擁をとき強い眼ではっきりと宣言する。
「絶対に、守る」
振り返った稲穂は、足元に転がる刀の一部だったものを軽々と踏み砕き、取り囲む四人を睨みつける。人形劇をする黒子のような衣装を身にまとった人間、しかし手に持っているものは人形ではなく刀や鎖鎌と言った物騒な代物たち。
右斜め前の人間が鎖鎌の鎖を稲穂に向けて飛ばす、紫藍は思わず頭を抱え込むようにしゃがみこんだが、稲穂は鎖の先端についた分銅を左手で掴み取った。
「何処の誰だか知らないけど私ってさ、力の加減がすごく下手くそなの」
そう言って稲穂は右手で鎖の部分を掴む、黒子の格好をした人間は引き寄せようとしてもびくともしない。
「だからっ、怪我しても、知らないからねっ!」
稲穂は鎖鎌を持っている人間ごと、ハンマー投げの選手のように、鎖を振り回し始めた。
男一人が女一人に軽々と振り回されている、そんな光景を呆然と見る黒子三人と紫藍。稲穂は小学生のときに、振り回したランドセルが標識をへし折った、など昔から全身の筋肉の使い方が病的に上手い。そのうえ久須志との組み手を通して標準以上の筋力を持った稲穂にとっては人間を振り回すことなど、赤子の手を捻るより容易いことだった。
そのまま稲穂は門の近くにいる二人に振り回していた黒子を叩きつける。そのまま三人は鎖に絡まり身動きが取れない状況になっていた。
「今のうちに逃げるよ!」
一人残っていても刀も折れているし追ってくる気配もない、むしろ逃げ出している。それなら今は紫藍を逃がすことが先、と稲穂は紫欄の手を取り門に向かって走り出すが、紫藍が一瞬立ち止まり、稲穂はつんのめりかけた。
「紫藍! ボーっとしてる暇は……」
ないといいかけた瞬間聞きなれたエンジン音。
稲穂は助かったと胸を撫で下ろす。
「久須志!」
稲穂の蹴破った門の向こうから騒がしいエンジン音と共に眩いヘッドライトが現れる。
「稲穂、紫藍ちゃん、二人とも無事……だな」
鎖に絡まった三人の黒子を見やり久須志は苦笑する。
「久須志、紫藍をお願い」
「稲穂はどうするんだ?」
稲穂は久須志の質問に口をつぐんだ。久須志はその稲穂の眼を見て大岩のように揺るがない意志を感じ取る。
「一言だけ言っておく、無茶はするな」
泥で汚れたバイクの後ろに紫藍を乗せ「しっかりつかまってろよ」といって、久須志はそのままバイクに乗って門から飛び出していった。
「いちおう心がけておくね」
稲穂は久須志たちに背を向け雫がいるであろう『雨簾之間』に向かってゆっくり、そして慎重に歩みを進める。
真実を明かそうなんて大それたことは考えていない、稲穂はただ事実を知らないまま過ごしてきたことがとてつもなく恐ろしかった。
ただそれだけで雨を睨みつけるように前に進み続けた。