第一章 『希薄過剰』
「一緒にトボウ」
それが飛行を意味する『飛ぼう』だったのか、はたまた跳躍を意味する『跳ぼう』だったのか今では理解することも証明することも出来ない。
しかし仮に理解、証明ができたとしても過去と言う名の事実は動くことは無い。
彼女はどちらの『トブ』こともできずに大地から離れて空に落ちていった。そして意識は肉体を離れて一生大地に戻ってくることは無かった。
そして彼女の意識はずっと漂い続けている。
空を漂う孤独を紛らわすように呼び続ける「一緒にトボウ」と囁きながら。
誰かに知ってもらいたいが故に
誰かに認めてもらいたいが故に
誰かに慰めてもらいたいが故に
そして友人と私の仲間を増やすために人を空に落とし続けた。
『希薄過剰』
「これで鞠池市の高校生連続失踪事件の被害者は六人に及ぶことが飛嶋県警の発表で明らかになりました。警察では……」
朝起きてリビングに向かえばテレビのアナウンサーは春の爽やかな気分を台無しにするニュースを流している。さっさと近くにあったリモコンでテレビの電源を切ると短く「あっ」という不満を隠そうともしない間抜けな声がリビングに響く。声の主である赤根稲穂は何も映さなくなったテレビから目を離し、淡いピンクのパジャマのままソファーから反り返るだらしが無い格好で抗議の視線を投げかけてくる。長い黒髪が床に広がっている光景は見ていて気持ちのいいものではない。
「地元の事件ぐらい知っておきたいの。兄さん、勝手にテレビ切らないでよ」
「どうせテレビの報道なんて虚飾だらけで全く役に立たない。どうせこの後は『御偉い専門家』が型にはまった『犯罪心理分析』だらだらと言うだけだ。そんなもの見ている余裕があるなら朝ごはんの皿ぐらい並べろ」
赤根雫は面倒くさそうに言い捨て、台所に向かう形で稲穂に背中を向けた。稲穂も流石に雫がこれ以上口論を続けるつもりは無いという意志を汲み取ったのか、ため息をつきながらテレビ前のソファーから緩慢な動きで立ち上がる。
朝ごはんの準備とはいえ飲み物が牛乳、納豆とご飯、味噌汁と断面が半月に見えるように切り分けたトマトだけの簡単なものだ。誤解を受けるかもしれないが雫本人料理は作れないわけではない。いや、むしろ人並み以上の調理が出来るだろう。ただ単に朝は学校に行く前に作るのが面倒くさいというだけの話である。
雫は稲穂とテーブルで向かい合って朝食を取り始める。これもいつもの日課だ。ご飯は可能な限り一人では食べないというのが家訓であり、律儀に守っているうちに身についてしまった習慣だ。もっとも雫は家の外で食べる時にはこの家訓を守っていない。しかし自然と会話が生まれる複数人での食事は悪くない、と感じることも事実だ。
「そういえば兄さん」
「何だ、稲穂?」
雫は半ば呆れ顔の稲穂の表情を見ながら次に出てくる言葉が想像ついたのにも関わらず思わず聞いてしまう。
「いい加減にその髪を切らないとまた性別間違えられるよ?」
雫は稲穂の言葉に「わかっている」と味噌汁をすすった。実は雫も男としてはだが、髪が長いほうだ。さらにその長い髪を後ろで一本に縛っているため、服を着て体格が見えなくなるとますます性別が判別しづらくなってしまう。しかも顔立ちが稲穂いわく、中性的で男が見れば女性に、女が見れば男性に見えるらしい。その所為か、雫はよく性別を間違えられる。今の高校は私服通学なのでよりいっそう誤解を受けやすい。
「俺が髪を切らない理由、それは稲穂もわかっているだろ。何度も言うな」
「まあ、いいけど。ただ、また辻きり着物女に間違えられそうだと思っただけ」
若干の沈黙が走る。雫は一瞬いやなことを思い出したとでも言わんばかりに顔をゆがめる。
「……稲穂」
「何よ?」
「心配してくれるのはありがたいが……時間だ」
雫は仕返しだ、と言わんばかりに嫌味ったらしく言った後、「ごちそうさま」と箸を置いて流し台に食器を運ぶ。目線を上に向けた稲穂は目に見えるほど一瞬で真っ青になる。そこには朝の準備をしない稲穂にとって、絶望的な時を示す黒い時計は今も一分一秒を刻んでいる。雫は大慌てで朝食をかきこむ稲穂を呆れ顔で見ながら食器を洗う。
脇に置かれた稲穂の食器も洗い終え、雫は鞄を手に取り、稲穂をおいて学校に行く。
緑色に衣替えした桜が清々しい。
天気は最高に晴れやかで、教室内での授業など全くやる気など起きないのは、雫だけではないだろう。もっとも雫はいつもまともに授業を受ける気は無い。高校にはただ学歴と言う名の社会保障が欲しくて通っている、ただそれだけだ。
そんな雫にとって最近の連続失踪事件関連で下校時間が早まっているということは恐ろしくありがたい。しかし今度はそうなると学生がいつも楽しみにしている放課後の時間が鬱陶しかった。その原因は雫の真横でさっきから小さい虫のように五月蝿くうろついているクラスメイトの存在に大きく起因している。
「ねえ、赤根さん。例の事件についてどう思う?」
雫は思わずため息をつく。雫と同じく髪を後ろで束ねた大崎美紀が興味津々と言った様子で例の連続失踪事件についての意見を雫に求める。美紀は情報屋というあだ名もあるほどの人間で、去年転校してきたときも自己紹介するより先に美紀に名前を叫ばれ、さらし者になるという屈辱を味わった。雫はそのときのことを忘れることが出来るはずも無い。
「興味が無い」
雫は短く言い捨て、鞄に教科書などを詰め込む。
「赤根さんの意見に興味があるの、一言でいいから教えて」
「興味が無いといっただろ」
雫は苛立ちを隠さずに席から立ち上がる。しかし何も言わないと美紀はしつこいので何時までもついてくる。現に廊下に出ても美紀は雫の周りを正面や横等、せわしなく回りついてくる。落ち着きが無くて鬱陶しい事この上ない。
「この世に嫌気が差して集団家出でもした。これで満足か大崎?」
うんざりとした表情で、雫は興味が無さそうに答える。その答えに美紀は納得したような、それでいて何か釈然としないような複雑な表情を浮かべ、何かを言いたそうに雫を見ている。雫はそんな美紀を横目で見てため息をつく。雫の『仕事』は後、『根源』を探し出せばほぼ御仕舞いだ。しかしこれがなかなか見つからない。その苛立ちと、しつこい同級生の間に挟まれ雫はこめかみを押さえる。
「あの……これ、落としましたよ」
後ろから聞こえた声に雫は振り返る。後ろに居たショートカットの小さめな女子生徒、何かのキャラクターの模様つきの透明なケースの筆箱を持ち、雫に差し出している。しかしどう見たらこれを男の雫が持っているのか、と思うほどかわいらしい文具が目に映る。
「ありがとう、安藤さん! 私、落としたのに気がつかなかったよ」
やはりと美紀のものであったらしい。美紀が何かが弾けたような笑顔を浮かべてそういうと「安藤さん」は一瞬小さく震え、金魚のように口を何度か開いたり閉じたりを繰り返し、廊下を走って逃げていった。
「何だ、あいつ」
「安藤眞子さん、隣のクラスだよ」
雫は「妙な気配を感じたから」と思って口にしただけなのに、美紀は『情報屋』の血が騒ぐのかいらないことを教えてくる。しかしこんな性格の所為か、美紀が直接的であれ間接的であれ、いつも何らかの事件に遭遇するのだから不思議なものだ。
「今年の四月から転校してきてなかなか友達が出来なくて苦労しているみたいだよ? 前の学校ではいろんなことを客観的に見ることが出来る、思いやりのある子だって先生達の評判も良かったみたい」
雫は「ああ、そう」と適当に相槌を打ち、学校指定の上履きから外履きの私物の黒いスニーカーに履き替える。
「それでさ、ものは相談なんだけど……」
「断る」
「聞く前だろうと聞いた後だろうと拒否権は認めません!」
校門を出るまで美紀は雫に「少しは彼女みたいに空気を読め」だの「少しは愛想よくしろ」だの「このトヘーンボク!」等と若干理不尽な散々罵声を浴びせ続けた。根負けした雫はしぶしぶその『相談』を引き受けざるを得なかった。雫は美紀が校門を逆方向の左に曲がったところでようやく開放された。
雫は「また明日!」と手を振る美紀にため息をつくことで答え背を向ける。
「また美紀につきまとわれたんだ?」
校門を出て二十メートルほど離れている民家に挟まれた路地の曲がり角。雫はそこで声をかけられた。こんなところで雫に声をかけてくるのはまず一人しかいない。
「分かっているなら聞くな、稲穂」
「これから『仕事』もあるのに大変だね」
心底気の毒そうにしているように見えるが朝の仕返しのつもりか、雫にとって稲穂は心底楽しんでいるように見える。稲穂はまず本心と行動が一致しない。よく言えば大人、悪く言えば素直じゃないとか腹黒いとか言う言葉が当てはまる。
「なら稲穂、お前にも仕事をくれてやる」
放課後になってからしばらく経ち、高校の校門近くだというのに道には誰も見当たらない。静寂が包み込む中で雫は稲穂の肩を軽く叩き、誰にも聞こえないように耳打ちする。
「しっかり、頼むぞ」
稲穂は表面上いやな表情を浮かべ、家がある方向とは違う方向にゆっくりと歩き出す。
一人になった雫は一人呟く。
「孤立する俯瞰存在……いや、存在が乖離している者、か。空身にはもってこいの温床だな」
雫は後ろを振り返る。葉桜が静かに揺れていた。
* In rhythm of oblivion *
「こっちに来て」
私は呼びかける。
「一緒に来て」
彼は遠ざかる。
「行かないで」
何故離れていくの?
こんなにも一緒にいたいのに
こんなにも愛したいのに
何故みんなと同じように私の手の届かないところに行くの?
やめて それ以上いかないで
それ以上いったらあなたは『トンデ』しまう
お願いだから行かないで
これ以上私に罪を背負わせないで
何かが私に入りこみ 何かが壊れた
その音は大きな波の音
何度も聞いたツミノオト
口の端をつりあげる歓喜の旋律
* Out rhythm of oblivion *
夜の九時。淹れたてのコーヒーの香りの向こうでテレビのニュースは『怪奇、鞠池市高校生連続失踪事件』についてしつこく繰り返している。先程また一人行方が掴めなくなったらしい。警察は被害者のために犯人の検挙に必死になっている。そんな中、マスコミたちは真実を伝えるという名目の下、視聴率稼ぎのため、事件の理由探しに躍起になっている。
結局マスコミのこの行為が社会の不安を煽る。そのうち「隣人が私を殺そうとしたから」と言う理由だけで人を殺しても『自己防衛』と扱われるような西部劇の如き世界が生まれても不思議ではない。
「夜は虚飾だらけのニュースをしっかり見るね、雫兄さん」
雫の後ろから不機嫌そうな声で稲穂が階段を降りてきた。どうやら朝のことを未だに根に持っているらしい。
「しつこい人は嫌われるぞ」
「そのしつこい人たちのおかげでマスコミを騒がせて居る事件は解決するかも知れないんだよ? 少しは感謝してよ」
「随分と早かったな」
雫は驚き半分猜疑心半分と言った複雑な表情を浮かべ言い放った。
「たまたまだけど『失踪現場』を目撃しちゃったからね、嫌でも解かるよ」
稲穂は無造作にプリントアウトした写真を雫の背後から前のテーブルにばら撒く。雫はその数枚の写真の束を手に取り眺める。
普通の人が見たらただの鞠池市の保有する海浜公園の写真だ。今は事故等、諸々の理由で廃れているため海の近くだというのに人の子一人寄り付かない。そんな公園の写真には当然人間が写っているはずは無かった。雫と稲穂にも人間は見えなかった。しかし『八人』の幽霊のようなものが見える。その中心の「幽霊」は雫が今日あったばかりの姿をもち、浮かんでいた。
「やれやれ、これじゃあ最近の学生は虚無感を抱きすぎだと言った奴の意見に反論出来ないじゃないか」
雫はうんざりしたように手に取っていた写真を投げた。写真は器用にテーブルの上のコーヒーカップを避けて扇状に広がる。
「まあそれは置いておいて、『仕事』はいつ済ませるの?」
稲穂はテーブルの上に広がる写真を雫の後ろから眺めている。
「いつも通り、魑魅魍魎が動き出すときに」
雫は相変わらず素っ気無く言い放つ。その言葉に稲穂は風に揺れる稲のように優しい笑顔を浮かべた。その表情が気に入らないのか雫は冷めたコーヒーを一気に飲み干す。
「じゃあ雫兄さん、明日ね」
「ああ、寝ないで待っておけ」
テレビを消した雫は階段を登り自分の部屋を目指す。何の飾り気もない木製のドアのノブを回し、小さくドアがきしむ何時ものいやな音を背後に聞きながら自分の部屋に入る。
部屋の中は入り口のドアと同じぐらい殺風景でベッドと机しかない。雫はその数少ない家具の一つであるベッドの下から真っ黒で大き目のスーツケースを引きずり出し、開いた。
中からは真っ赤な裏地の上に似合わない藍染の和服が顔をのぞかせる。雫は慣れた手つきでその和服に着替え、帯を締めた。その和服は藍染めで帯も濃い藍色と言う色調もあって、それほど派手さは無い。しかし雫が着るとその色合いから落ち着いた雰囲気と共に確かな存在感を醸し出す。その和服姿のまま、雫は再びスーツケースの中蓋を持ち上げた。
中からは一尺程の夜闇のように真っ黒な鞘に納まった刀と、対照的に雪を思わせる白い鞘に収まり、柄に赤い飾り紐が結ばれている半尺ほどの刀の二本が現われる。雫はまず黒い刀を手に取り、その鯉口を切り、鞘から抜いた。鞘から抜かれた刀はカーテンの隙間から差し込む満月の光を受け、刀身の乱れ刃文を蒼く妖しく輝かせている。雫はその刀を鍔から刃先まで確認して鞘に戻す。
今度は白く、短い刀のほうを手に取り同じく鯉口を切り、鞘から抜き出した。その刀身に刃文は無く銀の刃の部分と漆黒の峰の部分が真っ直ぐ綺麗に分け隔たれている。
その銀の刀身は雫の双眸を映し出したのち、鞘に収められる。黒い刀は雫の背中と藍染の和服との間に真っ直ぐ差し込まれた。雫の身長が高いせいもあって刀は藍染めの和服の中に柄まで完全に隠れた。そして雫は腰の背中側にある帯の結び目の中に、飾り紐のみを外に出すようにして短く白い刀を埋め込んだ。
「さて行くぞ、雫。今回は『殺し』をしないで済むといいな」
友人が目の前にいるかのように雫は自分の名前を呼ぶ。カーテンの隙間の窓に映った雫の瞳は既に普段の闇に溶け込みそうな漆黒ではない。月が清浄と幻想を彩る蒼の光を携え、闇の世界を見下ろしている。
* * *
私は学校帰りに家に向かって歩いていたはずだったがいつの間にか来た事もない海辺近くの公園に来ていた。その公園の照明は切れかけて明滅を繰り返していて月が雲に隠れてしまった今では視界はそれほど良くない。それでも見えるものはもともと綺麗なスカイブルーだったはずのブランコの塗装。大部分が剥がれ落ち、錆が浮いている。そのブランコを見るだけで一般人が近づかないことは容易に見て取れる程廃れていた。
そんな廃れた公園の中にふと私の興味を引くものが目に映る。海を臨むような形で私に背を向けている木製のベンチだ。脇には「展望台」とかろうじて読める看板が立っている。そのベンチは三センチぐらいの角材を何本か鉄の支柱に間隔をあけて載せ、組上げたシンプルな物で、海の潮風の所為か所々木が腐っている。しかしこの公園も綺麗だった頃には友達同士は語り合い、恋人達は愛を育んでいたのだろう。夜でなければ今でも素晴らしい眺めであるに違いない。
私はそのベンチに腰を下ろそうとして思いとどまり、スカートが汚れないようにベンチの上にハンカチを敷いて座った。切り立った崖にあるこのベンチの正面は海の闇しかなく、眞子はこの世で一人になったような錯覚に陥る。それにも関わらず何故か寂しいと感じなかった。むしろ学校で他の人に囲まれているときのほうが孤独を感じていた。
いや、孤独と言うのは少々見方が違う。正確に言うならそこに「自分が存在していなかった」と言うべきだろう。
私はいつも周囲の空気を読み、無難な言葉ばかり返して自分の言葉には私の意志が込められていない。そのためか、私の性格は転校するたびに周りを取り囲む人々によって評価が大きく変わっていった。優しい人、厳しい人、冷たい人、思いやりのある人等々いろいろな事を勝手に言われ続けた。
そして何時の日からか私は私が理解出来なくなった。
私の性格はどうなのか?
私の特技は何なのか?
私は何がしたいのか?
私の存在とは何か?
他人に聞いても絶対に自分の満足出来る答は返ってこないはずだ。何故なら自分自身の存在に納得が出来ていないから。むしろ、人と関わる事で自分自身の存在が希薄になってしまう気すらしていた。だから今日、学校でのあれは気の迷い。本来なら何があろうと無視して通り過ぎるべきだったのに何故かあの人に惹かれた。
何故惹かれたのか。
綺麗な人だったから? 違う。
自分の『答』をその人に求めたから? 有り得ない。
なら何故私はあの人に声をかけたのだろう? 冷たい潮風の中、朽ちかけているベンチに座った私の頭の中ではその思いが逡巡していた、がすぐにその思考を打ち切る。こんなことを考えたところで自己完結でしかない。後で虚しくなるだけだ。
私のため息は夜風にさらわれ周囲には風の音しか聞こえない。
そのはずなのに自分の背後に確かに人の気配がする。私には自分のことを気にかけてくれている人であろうと危ない人であろうとも関係はなかった。その気配は確かに私の背後に佇んでいる。しかし全く声をかける気配すらないかと思えば動く気配もない。流石に私は薄気味悪くなり背後を向く。
「えっ?」
おもわず声が漏れてしまった。その瞬間ほど人生で後悔したことはない。もちろん声を出したことに対してではなく、後ろを振り向いてしまったことに対しての後悔。多分これからの人生で背後を振り返ることにトラウマを感じるようになってしまうのではないか? そう思ってしまうほど恐ろしい光景が背後に広がっていた。
背後には人がいた。全員が高校生ぐらいの歳であったことはすぐに分かり、男女比3:5ぐらいの比率で八人ほど小さい弧を描くように背後に並んでいる。その人たちは知らないはずの人だった。それなのに何故か会った事がある気がしたし、同時に好意以外に、得体の知れない不安のようなものが私の中で渦巻いていた。それは喩えるなら空を覆い、にわか雨と雷雨がやって来る確かな不安を本能的に呼び覚ます真っ黒い雲のよう。
何よりも普通ならありえない光景が自分の背後に広がっていたことに恐怖を覚える。
特に八人の中の一人、先頭に立ち、私のすぐ後ろに立っていた人物。いや立っていたという表現は正確ではないだろう。
「初めまして……と言うべきかしら?」
黒いショートカットの彼女はにっこりと笑い、ベンチに座っている私に頭から足の先まで、全身が見えるように浮かんでいた。
「こんばんは『私』、私はあなたよ」
なんて、なんて悪夢だ。『私』が私に自己紹介をしている。正面にいる人が鏡に映った自分だったならどれ程良かったのだろう。しかし残念ながら私は笑顔ではなくきっと見るに耐えないほど顔面蒼白になっている。自分の血の気の引く音が聞こえたほどだから間違いないだろう。
「あなたにお願いがあるの」
逃げろ、にげろ、ニゲロと本能がそう告げる。
だけど身体が言うことを聞かない。
動かない、動けない、なら当然逃げられない。
「一緒にこない?」
とにかく薄気味悪さがいっそう増してくる。爽やかな潮風すら酷く縁起の悪いように思えてきた。空気がよどみ始め、汗が一つ、また一つ地面に落ちる。
「あなたが私と言う存在を受け入れればいいの。何も難しいことではないわよ? だって……」
耳を貸しちゃいけない、今すぐ逃げ出せ。私は硬直しきった体に鞭を打つが全く動く気配はない。目の前の『私』は今にも舌なめずりを始めそうなほど、蕩けるような笑顔で微笑みかける。薄気味悪いなんて言葉は生ぬるかった。
「私は、あなた、なんだから」
『私』は一言ずつかみ締めるように放たれた言葉は一歩ずつ私を不安から恐怖に駆り立てる。強い恐怖を感じた身体の自己防衛本能か、私はやっとの思いで一歩後ろに下がることが出来た。
しかし自分のその行為が無意味であることを悟るのは遅すぎた。自分が何処にいたのか考えれば『私』を含めた八人の居る正面に逃げる以外に方法はなかった。
ボロボロになった柵に私の背中が当たる。
私のその姿を見た『私』は途端に悲しげな表情を見せる。
「何で、何で私が仲良くしたいと思う人はみんな私から逃げ出すの。その上自分にまで拒絶されて……酷いわよ」
私はその姿に恐怖を覚えた。『私』は悲しげな表情は鬼と呼ぶに相応しい形相に歪みだす。私の全身からは脂汗がとめどなく流れている。歯が火打石のようにカチカチと音を立て、胸の動悸は激しくなり膝ががくがくと震えている。
「酷い、酷い、酷い! 私はあなたから生まれたのにあなたが私を生み出したのに! あなたの存在が認められているのに私の存在が認められないなんて許さない! 許せない!」
『私』は一息に言いきり、目を閉じて肩で息をしている。私の笑う膝は崩れ落ち、私は『私』の目の前でひざまずくような構図になった。
「……そうだ、最初からこうすればよかったのよね」
そう言って『私』は怒りに歪めた顔から愉悦に満ちた表情に歪めた。
そのとき私には『私』が何を言うのか理解してしまった。常識で考えたら絶対にありえない言葉のはずなのに、何故か解ってしまった。
「あなたの居場所を奪えばよかったのよね、私のお馬鹿さん」
『私』が近寄って私の頬に両手を添える。『私』の表情は公園の灯りが逆光になって伺い知ることは出来ない。そのはずなのに、また私は次の言葉を先に知ってしまった。
「イタダキマス」
ああ、本当に目の前の『私』は私の写し身なんだ、と知ったとき、私の顔に生暖かい水がかかった。私はそこから先のことは覚えていない。
* * *
「な……なんで」
浮遊する存在は確かな痛みを腹部に感じながらその刀の持ち主のほうへ視線を伸ばす。月明かりのない夜闇の中、廃れた公園の明かりでは姿がほとんど確認出来ない。かろうじて解ったことは着物姿の人物が刀持っているということぐらいだろう。
「何故、だって? 答が欲しいか浮遊する存在よ」
着物姿の人物の口は潮風の中に響き渡る厳かな、しかし静かな言葉を放つ。その人物は薄暗い公園の中においてもわかるほどはっきりとした顔立ちをしていた。
「それはお前が罪を犯した空身だからだ」
着物姿の人物は刀を浮遊する存在、『空身』から引き抜いた。
「空ろ……ですって! ふざけないで! 私は確かにここに存在する!」
『空身』は刀が引き抜かれた場所を押さえながら絶叫する。木々に眠っていた鳥たちが一斉に飛び立つ騒がしい音を背景に二人は向かい合う。
空身とは主に人間の抑圧された欲望や希望、願望等が肉体の枠に留まりきれず、肉体から外の世界にはみ出した心の一部とでも言う存在。
「私には喜怒哀楽がある、私には痛みがある、私には心がある。だからここに存在しているのよ!」
「しかし肉体がない」
絶叫していた空身は着物姿の人間が冷たく言い放った言葉に絶句した。
空身は人間の心と言うべき存在から生まれる、故に空身自身の感情や記憶は普通の人間となんら変わり無い。しかし存在自体が概念的なもの。その為に存在は不安定で何時消滅してもおかしくない。現に多くの空身は誰にも知られることなく存在が消滅する。だから空身は存在を維持するための器、すなわち肉体を欲する。
「だから肉体を喰った。存在を満たしたくて」
着物姿の人間は左足を一歩、浮遊する空身に進める。空身が存在を維持するために器として選ぶ者はまず、生み出した『親』とでも言うべき己の本体。しかしその本体の拒絶が強いとそれは他者を襲う。今回のこの空身はその典型例だ。
「そして魂を奪った。孤独を癒したくて」
浮遊する空身は短い悲鳴を上げ、着物姿の人間から逃れるように一歩下がる。その着物姿の人間はその存在自体が威圧的であり、根源的な恐怖を感じさせるものだった。
「お前は罪をその身に背負った」
「や……来ないで……」
着物姿の人間は立ち止まり、刀の切っ先を浮遊する空身に向ける。着物姿の人間は五、六歩で埋まってしまいそうな距離で、間に同じく浮遊する『被害者』達を置いたまま、宣言するように言い放つ。
「お前には……」
「こっちに来るなぁぁぁぁあ!」
浮遊する空身は眼を見開き、着物姿の人間が言い切る前に、悲鳴を上げるように叫んだ。まるでその叫び声が合図であったかのように浮遊する『被害者』の魂たちが両手を伸ばし、着物姿の人物に襲い掛かる。肉体に縛られていた頃の意志を失った魂はただの戦闘人形と化している。そこにあるのは「殺せ」と言う命令と「殺す」という行為のみ。
雲が途切れ漆黒の闇に月光がスポットライトのように浮遊する空身と着物の彼を照らす。
殺意を向けられた着物姿の彼の口の端が嘲るようにつりあがり、同時に青白い薄明かりのなかを氷の透明感と雷を思わせる蒼い光が奔った。
「罰を与える。その身にとくと刻め」
着物姿の彼に真っ先に襲い掛かった男子高校生二人と一人の女子高生の魂が霧散する。その人間の手にはいつの間にか妖しく煌めく刀が握られていた。浮遊する空身は目の前にあるありえない現象に、ありえない行為に眼を見開く。魂はこの世のものに影響を与えることこそ出来るが、物理的存在から乖離した概念的存在。故に刀程度で切り裂かれることもなく主となるものが存在を願い続ける限り死ぬことはないはずだった。さらにいくら概念的存在であったとしても姿は人間。しかし正面の着物姿の人間は躊躇い無く刀で切り裂いた。
「黙れ! 正義の味方面した殺し屋が!」
浮遊する空身は圧倒的不利な状況に立たされたという予感から生まれた焦燥と仲間だった『被害者』を殺された所為か、冷静さを徐々に失いつつあった。
叫んでいる空身を前にした着物姿の人間の表情は長めの髪の毛に隠されている。ただ表情は見えなくても、肩を震わせながら笑いをかみ締めている姿が着物姿の彼の内面を物語っていた。
「なにがおかしい!」
浮遊する空身は苛立ったように着物姿の彼を睨み続けている。その瞬間、着物姿の彼はとうとう堪えきれなくなったのか、遠くからでも聞こえるほどの笑い声を夜闇の中に響かせた。
「お前が面白いことを言うからさ。よりにもよって俺が『正義の味方面した殺し屋』だと? 最高の冗談だよ、お前」
鉄板を貫くかと思うほど鋭い視線など意に介せず着物姿の彼はかみ殺すように笑う。
「……ああ、でも半分は正解だ。ただ俺は正義の味方など興味がない。俺とお前はこういう巡り会わせなんだ。そして俺は正確に言えば殺し屋ではない」
着物姿の彼は笑顔を一瞬で消し、氷のような表情を浮かべる。
「俺はただの咎人。雨の下で震え、堕ちるだけの雫」
着物姿の『赤根雫』は刀の切っ先を空身に向け、構える。
「果たして貴様は罪から眼を背け堕ちるか、それとも罪を背負い続け苦悩を刻むのか?」
雫は身体を一回転させ背後から来た『被害者』の魂を切り裂き、空身に向きなおる。
「おまえはどっちだ?」
「……来ないで」
空身は目を伏せて呟き、己の耳をふさいでいる。全てを拒絶するように。
「こっちに来るな! 消えろーー!」
残った四人の魂が一斉に雫めがけて飛び掛る。しかし何の苦も無く雫は瞼を下ろしたまま踊るように全てを切り裂いた。霧散する魂の残滓の霧の中でゆっくりとその双眸を開く。
「貴様は堕落を選ぶか。なら……」
雫は何処までもはれた夏の空のように真っ青な瞳で真っ直ぐに空身を見つめたまま一瞬でその空身との距離を詰める。
「この世にお前の居場所は無い」
月明かりが陰る中、青白く光る刀が空身の胸を深々と貫いた。
* * *
突然の目覚めだった。布団の中でこれほどはっきりと目が覚めたことはない。意識が目覚めた瞬間から身体の感覚も冴え渡っている。しかしそれでも目覚めが最高だったとは到底言えない。喩えるなら眠っていた草食動物が肉食獣から逃れるための生存本能に従ったような目覚め。
時計を見れば朝の六時、目覚ましのなる一時間前だったけどこのまま目を瞑っても眠れそうに無いからそのまま起きて部屋のドアを開けた。
リビングにはいつものように皿に乗ったままラップで包まれた朝ごはんが並んでいる。見慣れすぎて今更特別な感情なんて浮かんで来ない。ため息一つが口から出てしまうぐらいだ。
母は看護師で家にいること自体が少ないし、父も医者だから似たようなものだ。社会の標準に合わせた授業時間を取っている高校に通う私と生活時間が合わないのは当然のことだろう。
既に冷め切った朝ごはんを黙々と電子レンジで暖め、朝食の準備をしながらふと昨日の夜の夢を思い出していた。いつもの夢なら記憶に残ってもかなりおぼろげなはずのその夢が今でも鮮烈に思い出せる。そっくりな自分、そこに現れた和服の『あの人』。妖しくて美しい蒼い残光に浮かぶ人達が切り裂かれていく。
そしてその光に胸を貫かれた。
経験したことが無いはずなのに、まるで実際に刺されたことがあるかのような冷たい感触。あまりにも現実離れしすぎていているのに現実だったかもしれない、と錯覚するほどリアルな夢だった。
恐る恐る自分の胸に手を当ててみてもそこには当然傷なんて無い。当たり前の事実を確認した私は電子レンジから最後に暖めていたご飯を取り出して飲み込むように味気のない不機嫌な食事を取る。その後は流れるように食器洗いと着替えを済ませて時計を見るといつも学校に行く時間が迫ってきていた。
引越しをしたといっても学区が変わる程度のものだったが少しでも通いやすいようにと一年間通っていた高校から鞠池高校への転入を決めた。もともと居た高校には特に仲の良かった友達もいなかったから別に後悔はしていない。ただ『転校生』と呼ばれる居心地の悪さはどうしても慣れない。
「やっぱり行かなくちゃいけないよね」
一人憂鬱に呟いて玄関のドアを開ける。しかしいつもなら重い足取りで進むはずの足が何故か前に進まなかった。いや、何故かは分かっている。ただ、ありえないはずの人物が玄関前に立っていた、それだけだ。しかしその人物は着物ではなくTシャツ、チノパンといった姿であるものの、昨日の夜、夢で私の胸を刀で貫いた人に違いなかった。
「なにボーっと突っ立っている。ほら、学校に行くぞ」
その人物はため息をつきながら私に背を向けた。
「何であなたがこんなところに居るの?」
思わず声に棘が混じる。昨日の夢の所為か、知らないうちに警戒してしまったのかもしれない。
「その質問は個人情報保護法とやらを知らない『情報屋』にしてくれ、安藤さん」
唖然とした私はさっさと進む赤根雫の背中を無意識のうちに追いかけていた。
学校に着くまでの間、まるで子供の頃に好きだった線香花火を見つめているときのような緊張感と奇妙な沈黙が流れていた。他の学生も通っているはずの時間なのに何故か話し声の一つすら聞こえない。いや、みんなはいつも通り楽しく話をしながら登校しているのだろう。ただ私が緊張してしまい周りを気にする余裕が無くなってしまっているだけのはずだ。
下駄箱で靴を脱ぎ上履きに履き替えた後も私の教室までずっと一緒に歩いていった。その間に交わされた言葉はゼロ。一体この人間は何を考えているのかと疑いたくもなる。
「だんまりだけどあなたは一体何のつもりで私を迎えにきたの?」
教室がある階に着いたとき、人との関わりを避けたがる私もいい加減沈黙に耐えられなくなってしまった。その所為か、気がつけば芸のない質問を口にしてしまった。
「役割を与えられたから、だ」
「役割?」
「そう役割だ」
私はこうも簡単に赤根さんが話し出すとは思わなかったので拍子抜けだった。さぞかし私は鳩が豆鉄砲をくらったような間抜けな表情をしていただろう、と思う。
「その役割って、何?」
「説教」
「説教?」
素っ頓狂な返事が返ってきてより一層面食らった。
「自分と言う存在の希薄さを嘆くものは……。」
足が止まった。この人は、赤根さんは唐突に何を言っている? いや、それよりも……。
「己の存在を維持しようと他者とのかかわりを避けたがった」
これは一体何の話だろう?
「他者と交われば己の性格、考え方を周りに合わせようとカメレオンのように変わってしまい、自分がもともとどんな人間だったか分からなくなってしまったから」
答は聞かなくても分かっている。これは『私』の話だ。そう知るとそら恐ろしい物がある。何故この赤根さんはこんなことを言っている、何故私のこんな心の内を知っている?
「俺が託された役割はそんな愚か者の過ちや認識を改めさせることだ。……もっともかなり不本意で偶然の賜物だがな」
そう言って赤根さんは私の教室の前に立ち止まる。
そしてわけが分からない私のほうを向いてこう言った。
「悲しき存在を生み出した罪滅ぼしはこの扉を開けてから考えろ。そして一言教えてやる」
赤根さんは話についていけない私を置き去りにして背を向けたままぶっきらぼうに言い放った。
「存在なんてものは所詮関連でしかない」
わけが分からない私をおいて赤根さんはさっさと来た道を戻り、屋上への階段を登っていった。授業の開始までまだかなりの時間があるけど彼の行動は周囲の評判通り『ミステリアス』だ。なんか授業がこれから始まるというのに疲れてしまったため息をついて教室の扉を開ける。
入った瞬間複数のパンッという破裂音と共に紙テープが私に何本も絡みついてきた。なんか今日は驚かされっぱなしな気がする。でもこれ以上驚くことはないとこのときは思っていた。
「お誕生日おめでとー!」
また虚を衝かれたようにクラッカーを手にしたクラスメイト達を見て呆然としてしまう。そんな私の目の前には今度は白い鈴蘭の小さな花束が差し出されていた。
「受け取って!」
「大崎さんなんでここに?」
違うクラスの人間が教室に居るだけでかなり不思議な気分にはなる。
「実は大崎美紀は『安藤さんに早くこのクラスに馴染んで欲しいんだけど何か良い案は無いか?』と相談された訳で……」
芝居が掛かった語り口で話す大崎さんはずっと笑顔だ。
「で、鞠池高校の『情報屋』と呼ばれる私は安藤眞子さんの誕生日のお祝いをしたらどうかと提案したわけです。その計画の首謀者として、そしてあなたと仲よくなりたい者の一員として私はここに居るのであります!」
大崎さんはこぼれそうな笑顔で敬礼し私に微笑みかける。
クラスメイト達は苦笑している人や大笑いしている人、笑顔の人、何か期待を込めて見つめている人。みんながみんな違う表情でここに居る。
クラスを見渡していたら大崎さんは不意に花束を持っている私の手ごと握手をして簡単でありふれた言葉を言った。しかしそれは絶対死ぬまで忘れることは無いという自信があった。
「眞子、仲良くしようね!」
「私もよろしく!」うちのクラスの学級委員長も握手を求めて手を伸ばしてきた。
方々で「私も!」、「俺もー」と騒がしく感じるほどにざわめきだした。
足元に何かが落ちる音がした。何度も何度も繰り返し落ちる音がした。
それが自分の涙だと気がつくまでそう長い時間は掛からなかった。
「嬉し泣き? なら泣きなさい、泣きなさい。好きなだけ泣いてからでいいから笑顔になるんだよ、眞子」
大崎さんは私を優しく抱きしめた。その胸の中で私は嬉しさと自分の情けなさで泣いているのだと知ったときにはもう何も言葉に出来なかった。
同時に自分は何故か取り返しのつかないことをしてしまったような気がして怖くなった。
でも今はこの温もりに許しを請う子供のように嗚咽をこぼし続けた。
何度も何度も心の中で「ごめんなさい」と謝りながら。
* * *
重く錆付いた音を響かせ、ペンキの剥れた扉が埃まみれの踊り場に光を導いた。雫は眩しそうに目を細め、雲ひとつない真っ青な空を恨めしそうに見つめている。既に梅雨に入っていてもおかしくは無い季節だというのに快晴の上、恐ろしく蒸し暑い。せっかちなアブラゼミはもう鳴き出し、暑さをより際立たせている。
雫はドアを閉め、学校の屋上に立つ。
屋上はまるで白骨化した骨が敷き詰められているように真っ白で、塗り固められたコンクリートは鉄板のように暑い。そんな学校に生まれた白い砂漠には雫以外誰もいないはずだった。しかし雫は誰かがその場に居ることを知っているように、左手にある給水タンクに真っ直ぐ歩いていった。
「今の見てどんな気分になった?」
雫は給水タンクの鉄骨で組まれた足に寄りかかり、いつも通り素っ気無く言う。
「……最悪な気分よ、しかも何で花束がよりによって鈴蘭なのよ」
「そうか『最悪』、か」
雫と給水タンクを挟んで立っている安藤眞子の姿をした『空身』は心底悔しそうに唇をかみ締めている。
「何で『私』があいつから生まれたのか理解も出来ない。なによ? 私はただの生まれ損?」
「さあな」
「あんたに出遭って殺されるような思いまでしたのに?」
「それはお前が悪い」
雫は肩をすくめる。
「お前が何もしなければ俺だって刀を振ることも無かった」
「まあ、それはそうだろうけれど……」
傍目から聞いていても落ち込んでいる様子が手に取るように分かるような沈んだ声で空身は尻すぼみに呟く。
「今は反省しているみたいだから許す。その証拠に今の俺はお前に敵意すら向けていない」
一言呆れたようにため息をついて雫は立ち上がり、一歩だけ給水タンクから離れる。
「お前、これからどうしたい?」
「私? さあ、どうしたいのかしら……」
一瞬の静寂を包んだ季節はずれのセミの鳴き声が埋め尽くした。雫は空身が答える前にその静寂を凛とした声で破った。
「俺は会話できる空身に三つの選択肢を与えている。一つは自分を生み出した宿主の心の一部として戻ること。もともと宿主の一部であった空身は本来、これが一番望ましい。ただ、これを選べばその人間は特別な力を持ってしまうこともある」
「特別な力?」
空身は興味深そうに耳を傾ける。
「一般的に言われる超能力みたいなものだ。もっともそんな力がこの世界で受け入れられるかは言わずもがな……だな」
「……二つ目は?」
「一人の自我としてこの世で生きること」
「それは無理ね」
空身は両手を太陽に透かすように手を伸ばす。その手は透き通り、青い大空が見えていた。
「私の存在自体が、もう、持たないみたい」
自嘲するように空身は笑った。
「きっとあいつが仲間で満たされた所為ね、あいつが満たされれば私の存在を作っていた想いも消えるから当然といえば当然のことだけど……。人を遠ざけていたのは自分だったくせに友達が出来たと思った瞬間に悩んでいたことなんてすっかり忘れるからよ」
空身は一転、口を膨らませる。
「大体あいつが一人で悩んでいなければ私も生まれないで済んだのよ。勘違いから生まれて、しかもすぐにこの世を去ることになるなんてとばっちりもいいところじゃない」
「三つ目は……」
雫は文句をだらだらという空身を無視して言葉を続ける。
「俺に……」
「『殺されること』でしょ。言われなくてもなんとなくは分かっていたわよ」
一瞬の沈黙。セミの鳴き声すらも既に耳に届かない。世界に空白が生まれたかと錯覚するかのような静寂があった。
「……いいのか、それで?」
「どうせこのまま消えるなら生きるも死ぬも一緒でしょ。仮に、あいつに戻っても拒絶されて終わりだし、そもそも戻るべき想いの還る場所が無いわ」
給水タンクの影から出た空身は諦めきった笑顔で笑う。
雫はその顔を見て何も言わなかった。代わりに雫はTシャツに隠れた黒いジーパンの腰から赤い飾り紐のついた短い刀を抜いた。夜は妖しい輝きを放っているように見えたその刀は、今も昇り続けている太陽の光で眩しすぎるほど銀色の刀身を露にしている。
「お前が消える前に一言」
雫は刀を空身の胸の真ん中に突き立てたまま口を開く。
「人間と言う生き物は他者がいなければ自己を確立させることが出来ない生き物だ。自己を確立させる過程で自己の希薄さに気が付き、他者を遠ざけることは変化を拒んでいるだけに過ぎない」
空身は眉をひそめる。
「……随分偉そうにいうわね。ただそういうことは安藤眞子に直接言うべきじゃない?」
「お前に言うべき言葉だと思ったからだ。それにあいつはもう同じことを繰り返さない。だから本人に言う必要は無い」
五月蝿いとでも言いたげな顔で空身はあからさまに顔を歪めた。
「まあいいか、さようなら」
「……黙って逝って来い」
雫は刀を空身の身体に深く突き刺し、引き抜いた。
空身は刺されたところから霧散していく。その様はまるで身体そのものが黄金色の光で出来ていたかのように輝いている。
最期に顔だけが残ったとき、空身のその表情はその光に負けず劣らず輝いていた。
雫はそのときの口の動きを見ていた。
雫はいつものように見ない。
しかしその口は確かにこう言っていた
「ありがとう」と
『希薄・了』
「……なあ、稲穂」
「なに?」
「鈴蘭が嫌いな奴がいるんだが何でだと思う?」
学校が臨時休校になり暇になった土曜日。雨も梅雨の名に恥じないように、かなり強く降っている。雫と稲穂は自分の家の中でゆっくりするという選択肢を選んでいた。
雫はくすんだ鏡のようになっているコーヒーの表面を見ながら、いつの間にかポツリと聞いていた。そもそも雫は過去のことは振り返りたがらない。雫は一度済んだ事柄についての興味は捨てている。だから雫自身がこの行為自体、奇特なことだと思っている。もっとも、今がそれだけ平和だという証拠に他ならないことも事実である。
「兄さんにしては珍しい質問だね? そうね……。一応鈴蘭は根っこに毒があるけど昔から薬として使われてるしそれだったら別に嫌いになる理由もないし」
稲穂の言うとおりだった。ただ毒をもっているという理由だけで嫌いになるということはないだろう。それならアジサイも、赤くて丸い実のなる南天も嫌がることになる。この世の中には意外と身近に毒をもった植物は多いものだ。
「花言葉も結構いい意味だしなぁ」
「花言葉?」
稲穂は自分のコーヒーカップ、もとい丼のようなカプチーノカップに、砂糖とミルクをたっぷり混ぜている。雫は糖質と脂質の取りすぎになるから止めろ、といっているが稲穂はコーヒーを飲むときには頑なにこのスタイルを崩さない。
「鈴蘭の花言葉は確か……」
稲穂は何処からどう見ても重そうなカプチーノカップから一口飲んで思案する。
「『幸せが戻ってくる』だったと思うけど……」
雫はそれを聞いて「なるほど」とコーヒーを飲み干した。
確かにこれから消え行く覚悟をしたあの空身には少々度が過ぎる冗談だ。
「あいつが鈴蘭を嫌いになるわけだ」
「……? 変な兄さん」
雫は視界の隅で心底わけが分からないと目を白黒させている稲穂を尻目に、カップに半分くらいになったコーヒーを飲み干した。
「何、気にすることはない。何時ものどうでもいい『衝動』だ」
雫は空になったコーヒーカップを流しにおき、自分の部屋の扉を閉めた。
『過剰・了』