第壱帳:【■】
命は2種類ある。
生と死である。
命の鼓動。
薄まる色彩。
灰色の世界。
洗面台の鏡に映る自分と目が合う。
……誰だ、こいつ。
二十歳にも満たないはずの顔は、使い古された雑巾みたいに生気がない。
一番目障りなのは、無造作に伸びた髪だ。所々に色が抜け落ちたような白が混じっている。ストレスで剥げたのか、それとも僕という存在そのものが、この世界からフェードアウトしたがっているのか。
指先で自分の頬を強めに叩いてみる。
乾いた音が響き、叩いた場所がじわりと熱を持つ。けれど、脳に届くはずの「痛み」は、どこか知らない国のニュースを聞いているみたいに他人事だった。
悲しいとか、苦しいとか。
そういう人間らしい機能は、もうとっくに摩耗して、粉々になって、排水溝にでも流れていったんだろう。
今、残っているのはただ「肉体がそこに在る」という事実だけだ。
空っぽの胃袋が、不規則に胃酸をせり上げてくる。
吐き出すものなんて何もないのに、体だけが生きようと無駄な抵抗を繰り返しているのが滑稽だった。
「……あ」
確信した。心臓はまだ律儀に脈を打っているけれど、中身はとっくに清算を終えている。
「そろそろ行くか」
病院の廊下を歩く足音は、驚くほど軽かった。
すれ違う看護師の悲痛な顔も、消毒液の刺すような臭いも、今の僕には極彩色のパレードのように心地よい。
鼻歌が漏れる。世界は灰色のままだが、心だけが不自然に、真っ白に発光していた。
病室の白いベッドで眠る幼馴染、ゆきの手を握る。その体温は低く綺麗な瑪瑙色の目はもう過去の記憶、その肌は雪よりも白く生気を感じられない、意識は置き去りにされたままだ。
「じゃあね、ゆき」
一ヶ月前、彼女が事故で植物状態になってから、世界は色彩を失った。
中学の時、両親を失った僕を実の息子のように迎えてくれた彼女の両親には感謝している。だからこそ、これ以上彼らを苦しめたくはなかった。
僕が死ねば、父さんの残した遺産や保険金が彼らに渡る。そのお金で僕一人の命で、彼女の未来が買えるのなら。
病室を後にし、夜の帳が降り始めた山へ向かった。
XX県XX市の古びた社。そこは、僕が自分という存在を「清算」するために選んだ場所だった。死ぬ直前なのに、僕の顔は恐ろしいほどに幸福に満ちていた。
「……父さん、母さん、今そっちに行くよ」
古びた祠の前に立ち、一礼。なぜ一礼したのかわからないがもうどうでもいい。木々に持ってきた縄をかける。覚悟などいらない、逃げられるのなら喜んで鼓動を止める。
――影が浮く。
喉を焼くような苦痛を覚悟して、俺は意識を手放した。
…だが。
訪れたのは、期待していた暗闇ではなかった。不意に、あらゆる感覚から「苦痛」だけが抜け落ちた。
耳を劈く静寂。霧が立ち込める異様な光景。
――――――は?
胸に手を当てる。鼓動を感じられないが息はできる。
「な...んで.......死んで......ない?」
唖然と立ち尽くす僕の前に、儚げで、揺らめく影が現れた。
それは、顔の見えない半透明で見覚えがある少女。
「(……頼くん)」
聞き間違えるはずのない、愛しい声。
彼女はハスキー混じりの美しく、しかし消え入るような声でこう告げた。
「死なないで……頼くん」
立ち尽くしていた俺を尻目に彼女の姿は霧散した。
何が起きたか理解できないがその言葉が脳内を支配する。なんて残酷な願いか。現実から逃げようとした奴には、重すぎる。
「あぁ...ぅあぁぁ…」
目から何かが溢れる。久しく忘れていた感情。
「ぃい...きる……」
「生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる!」
「生きて…見せるッッ」
僕は心の底から感じていた。生への願望、彼女のために生きる願い。
彼女は僕の死ぬ理由であり、生きる理由でもあった。僕は――――彼女を愛している。
彼女にまた会いたい。一緒に話したい。項を香りたい。膝枕をされたい。あの美しい髪を味わいたい。
脇を吸いたい。耳を舐めたい。
(まだ、死ねない)
「ウッ...!」
嗚咽から始まり、胃が捻転したと勘違いするほどの嘔吐感。
「げふっ」
「オエッ!」
死のうとした気持ちの反動だろうかとてつもないほどの悪心とめまいが襲い意識が再び落ちかける。 ――瞬間。
その気配が僕の甘い考えが後悔させる。殺意を煮詰めたような、圧倒的な死の匂い。僕は本能的に近くの木々の陰へ身を隠した。いきなり放り投げられた非日常に困惑する。
(これはヤバい……)
ふと、足元の水たまりに目を落としたが次の瞬間、自分の好奇心に後悔した。そこに映っていたのは、巨大な異形。無数の人間の顔が張り付いた、鳥居をぎりぎりくぐれるほどの大きさの怪物。
「ハッ……」
この世のものだとは思えない禍々しさに思わず喉の奥で、短い悲鳴が引き攣った。
水面に映る怪物は、僕が隠れる木々のすぐ側まで迫っていた。
張り付いた無数の顔が、それぞれ勝手に、泣き、笑い、喚いている。胃の底からせり上がる不快感が止まらない。
こわいこわいこわいこわいこわい。恐怖が体を支配する。
巨大な目が、ぎょろりと動いた。
水たまり越しに、その「眼球」と視線が合う。
「見つかっ――」
刹那、爆音とともに背後の木々が粉砕された。
逃げ場を失った僕のすぐ横を、丸太のように太い『腕』のようなものがかすめていく。地面が抉れ、この世のどの生物でも出せないような出力が僕の体を弾き飛ばした。
死にたくないと叫ぶ心臓が、彼女のために生きたいと決めた心が、すべての快楽物質が脳を激しく叩き僕を奮い立たせる。上がらないはずの太ももに鞭を打ち転がりながら立ち上がる。灰色の森をがむしゃらに駆け出した。
背後からは、重苦しい肉の塊が地面を打つ音と、この世のどこの地獄を浚っても聞こえないような咆哮が迫る。
それは、ひとつの生き物が出せる音ではなかった。
『あ゛あ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛あ゛』『お゛お゛い゛う゛、お゛ぉ゛ぉ゛お゛……!』
幼子の泣き声、老人の恨み言、事故の犠牲者が最期に発したであろう断末魔。
数百の喉が、重なり、捩れ、ひとつの巨大な殺意となって鼓膜を蹂躙する。
「……ああ、ぁぁぁぁあああッ!」
ありえない声量に鼓膜は破れ三半規管が狂う。
(バランスが取れないッ)
肺は焼け、血反吐を吐き、脚がもつれる。
(息がッ――――)
あれだ!、目の前に見える一点の「■」――異様なほどに雰囲気とあっていない「■」
「ぐあぁああ!」
最後の力を振り絞る。生きたいという本能があそこへ向かわなければやばいと警告を鳴らしている。
指先が届きかけたその瞬間。
――――背後の空間が、捻じれるような音を立てた。
残酷なことに死の気配は僕よりも遥かに速かった。
後ろにいるはずの化け物が放ったの爪が、僕の退路を断つように振り下ろされる。
――ッ。
自分の体から出たとは思えない、硬いものが砕ける音が骨を通じて脳に響いた。
「が、ぁ……っ!?」
熱い、と思った直後には、右足首から下の感覚が無くなっていた。
あまりの激痛に脳が麻痺し、視界が真っ白に染まる。
(生き...る......)
僕は光の縁に倒れ込み、引きずられるようにして奈落を見上げた。
絶体絶命。
化け物の口が、僕のすべてを飲み込もうと大きく開かれる。
真っ暗な口腔の隅で、ふわりと漂う「■」が、僕の瞳に映った――――。
これは......
「――――記憶?」
お読みいただきありがとうございました。




