第9話(平和) 囲い
会社の入口で、僕――そらは足を止めた。
警備員が増えている。
制服が新品っぽい。立ち方が硬い。
視線が、僕の顔で止まる。
嫌な予感は、だいたい当たる。
「おはようございます、そらさん」
声をかけてきたのは、みずほ。
丁寧な口調なのに、距離が近い。逃げ道を塞ぐ距離。
隣にはさえ。タブレットを抱えたまま、僕の右腕を見る。
「右腕。見せて」
「……何でですか」
「照合」
短い。切り捨てるみたいに。
僕は入館証をかざそうとして、手を止めた。
この状況で中に入ると、戻れない気がする。
「遅れます」
みずほが笑った。目だけが笑っていない。
「遅れません。今日は出社扱いにしてあります」
勝手に、という言葉が喉まで上がって消えた。
代わりに胃が沈む。
その瞬間、胸の奥が――冷たく撫でられた。
慣れてる。
慣れてるのに、毎回気分は悪い。
【カゲ】(触るな)
【カゲ】(触らせるな。囲うな。近づくな。息が臭い。やめろ)
僕は表情を動かさない。
返事もしない。
ただ指先が、微かに熱を持つ。
(また始まった)
みずほが僕の顔を見て、ほんの少し眉を動かした。
「……体調、悪い?」
「普通です」
嘘じゃない。
普通が壊れてるだけだ。
◇
みずほが手を上げた。
左右から男が寄ってくる。警備員の格好。
でも動きが職人みたいに無駄がない。
「抵抗しないでください」
みずほの声は最後まで丁寧だった。
「安全に移動するだけです」
移動。
囲い。
言葉を選ぶ余裕がある相手は、もう準備が終わってる。
身体が固まる。
固まる前に、胸の奥が先に動く。
【カゲ】(手を出すな。触らせるな。折れ。潰せ。止めろ)
僕の左腕が伸びる。
左の男の手首を掴む。
掴んだだけで、相手の動きが止まる。
右の男が肩を押す。
押されても、僕は動かない。
男の目が一瞬だけ揺れた。
「……何だこいつ」
(やめろ、ここ会社だ)
心の中で言って、終わりにする。
声にはしない。
掴んだ手首をひねる。
関節が鳴る直前で止める。
男が膝から崩れ落ちる。痛みで息が詰まる音。
右の男が膝を入れてくる。
僕は腹で受けた。
痛い。
なのに倒れない。
男の方が足を引いて、顔色を変えた。
みずほが小さく息を吐く。
「……報告通りだ」
さえがタブレットを見たまま言う。
「耐性、想定より上」
物みたいな言い方。
腹の底が冷える。
【カゲ】(撃つ)
【カゲ】(撃たれる前に潰せ。潰せ。潰せ。音を止めろ。手を止めろ)
みずほが指を動かした。
「距離を取れ」
一人が後ろへ引き、腰に手をやった。
銃。
会社の入口で?
現実が一段ずれる。
僕の喉が鳴る。
でも足は止まらない。
【カゲ】(遅らせろ)
【カゲ】(一拍でいい。半拍でいい。止めろ。止まれ。そこで固まれ)
僕は何もしてない感覚なのに、空気が引っかかった。
銃を構えた男の動きが、一瞬だけ遅れる。
引き金を引く指が、最後まで落ちない。
「……っ?!」
男が目を見開く。
さえが淡々と言う。
「反応遅延。原因不明」
みずほの声が低くなる。
「近づくな」
遅い。
僕の足が勝手に前へ出る。
銃口の内側へ。
手首を叩く。
銃が床に落ちる。乾いた音。
僕はそれを蹴って遠くへ滑らせた。
みずほの目が一瞬だけ鋭くなる。
【カゲ】(次)
【カゲ】(次は誰だ。誰が触る。誰が縛る。出てこい。全部止めろ)
僕の心臓がうるさい。
このまま続けたら、社会が終わる。僕の。
(逃げる)
その判断だけは、僕がした。
半歩下がるふりをして、身体の向きを変える。
出口へ。
◇
「そこまでです」
声が割り込んだ。
くろえだった。
スーツ。丁寧な顔。場違いな落ち着き。
くろえはみずほに頭を下げた。
「初めまして。くろえと申します。社内の安全担当です」
みずほが笑う。
「名簿にない」
「載せない枠です」
「そんな枠、ない」
さえの声は冷たい。
「あります」
くろえは即答した。根拠を出さないのに、言い切る。
くろえは僕の横に立ち、囁く。
「……今は退きましょう」
僕は頷いた。
口に出すと余計な情報になる気がした。
みずほが一歩前に出る。
「連れていくのか」
くろえが微笑む。
「本日は体調不良として帰宅させます。会社で倒れられると困りますので」
「誰が困る?」
「全員です」
くろえの嘘は滑らかすぎる。
みずほは視線を僕に戻した。
「そらさん。君は――」
言い終わる前に、くろえが僕の袖を引いた。
「こちらへ」
僕は従った。
従った方が、今は生き残る。
◇
車の中。
街はいつも通りだ。
信号も、コンビニも、歩く人も。
なのに僕の手のひらだけが、熱を残している。
くろえが運転しながら言った。
「あなたは目立てば目立つほど、囲われます」
僕は窓の外を見たまま、短く返した。
「……嫌です」
「でしょうね」
くろえは淡々と続ける。
「彼らはあなたを“管理”したい。
管理できないなら、生活を壊してでも従わせる」
その言い方が、現実的すぎて腹が立つ。
胸の奥で、声がざわつく。
【カゲ】(壊すな)
【カゲ】(壊される前に壊せ。囲いを潰せ。手を折れ。足を折れ。息を止めろ)
僕は目を閉じた。
返事はしない。
相手をすると増えるから。
(黙ってろ)
心の中でだけ言って、飲み込む。
くろえが、ちらりと僕を見る。
「……疲れますね」
「はい」
「しかし、慣れてもください。今後、似た状況は増えます」
増える。
最悪だ。
でも、否定できない。
車窓に映る自分の顔は、普通の社畜のままだ。
普通のまま、普通じゃないものに囲われていく。
胸の奥で、低い笑いが鳴った。
【カゲ】(もっと)
僕は返さない。
ただ、指先の熱だけが、なかなか消えなかった。




