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第8話(平和) 社畜は魔王でも定時に追われる

朝のホームは、人間で詰まっていた。


 押される。

 詰められる。

 息が浅くなる。


 いつも通りの地獄。


 ――なのに、今日は少しだけ違う。


 僕――そらの背中側に、視線が貼り付いている。

 じっとりしている。熱がない。感情がない。


 監視って、こういう匂いがする。


 電車に乗る。

 つり革を掴む。

 スマホを見るふりをして、窓の反射で後ろを確認する。


 スーツ。

 髪型は普通。

 でも、目だけが“仕事”をしてる。


 改札を抜けても同じ人がいる。

 会社のビルに入っても、似た匂いが増える。


 なんだこれ。

 僕、芸能人にでもなった?


 なってない。

 平社員だ。


 ◇


 デスクに座ると、上司がすぐ来た。


「そらくん。ちょっといい?」


 やけに柔らかい声。

 昨日まで、こんな声色は存在しなかった。


「……何ですか」


「最近、体調どう?」


 その問いが、心配じゃないのが分かる。

 確認だ。点検だ。


「普通です」


「そう。……ならいいんだけどね」


 上司は笑い、机の端に封筒を置いた。


 見た瞬間、胃が沈む。


 人事部の封筒。

 何もしてないのに、こういう紙は人の人生を削る。


「……これ何ですか」


「面談の案内。形式的なやつ」


 形式的。

 便利な言葉だ。


 上司は続けた。


「あと、念のため、今後しばらく外部への連絡は……」


「仕事で必要ですけど」


「社内で完結できるようにして」


 “管理”が始まっている。


 僕は頷いた。

 頷くしかない。


 ◇


 昼休み、社外に出ようとしたら止められた。


「そらさん、ちょっと」


 声をかけてきたのは、知らない男だった。

 社員証を首から下げている。

 でもデザインが微妙に違う。


 男は軽く頭を下げた。


「初めまして。みずほと申します。

 今日からこちらのフロアの“安全確認”を担当します」


「安全確認?」


 言葉が丁寧なのに、圧がある。


 みずほは僕の顔を見て、微笑んだ。

 目だけが笑っていない。


「外出は控えてください。念のためです」


「念のためって、何の念ですか」


「……いろいろです」


 ふわっと濁した。

 濁す時点で黒い。


 僕は乾いた笑いを漏らした。


「僕、何かしました?」


「してません。だから困ってます」


 みずほは本音を出した。

 本音を出される方が怖い。


 背後から、淡々とした声がした。


「みずほ。会話が長い」


 女だった。冷たい声。


 女は名乗った。


「さえ。解析担当。

 あなたの“周辺の異常”を確認しています」


「周辺の異常って……僕の周辺って、会社ですけど」


「会社も周辺」


 さえは当たり前みたいに言った。


 みずほが肩をすくめる。


「ということで、昼は社内で。

 あなたが逃げると、こっちも面倒になる」


「逃げませんよ。社畜ですし」


「社畜は信用できる」


 褒められてない。


 ◇


 午後。


 仕事をしているだけなのに、PCが時々引っかかる。

 社内チャットが一瞬遅れる。

 ファイルの更新が勝手にログに残る。


 全部、偶然だと言い聞かせるのが難しいくらい、丁寧だ。


 僕の机の近くを、みずほが何度も通る。

 さえは遠くで画面を見ている。視線は動かない。


 なんだよこれ。

 職場が水槽になったみたいだ。


 僕は、右腕の内側をそっと撫でた。


 もう腫れていない。

 傷はほぼ消えている。


 治りが早すぎる。

 でも病院に行ったら、もっと面倒になる。

 だから行かない。


 僕は現実逃避が得意だ。

 社畜の才能はそこにある。


 ◇


 終業のチャイム。


 本当ならここで帰れる。

 でも今日は帰れない。


 人事面談の部屋に呼ばれた。


 室内には三人。


 人事の女性。

 上司。

 そして――知らない男。


 知らない男が立ち上がって、丁寧に頭を下げた。


「初めまして。くろえと申します」


 昨日の“常連”だ。

 でも、会社で見ると違和感がすごい。


「……なんでここに」


 くろえは穏やかに微笑んだ。


「私も“社内の安全確認”でして」


 嘘が上手すぎる。

 人事の女性が普通に頷いているのが怖い。


 みずほとさえの匂い。

 くろえの匂い。

 同じ部屋にいるのに、向いてる方向が違う。


 人事の女性が言った。


「そらさん、最近お疲れですか? 何か困ってることは――」


 困ってる。

 世界が困ってる。


 僕は笑顔を作って答えた。


「大丈夫です」


 大丈夫じゃない時に言う言葉、それが「大丈夫です」。


 ◇


 面談が終わって廊下に出た瞬間、くろえが僕の横に並んだ。


 声は小さい。

 でも耳に刺さる。


「本日から、監視が“社内”に入りました」


「見れば分かります」


「では理解も早い」


 くろえは淡々と言った。


「彼らはあなたを囲いたい。

 囲えないなら、仕事から奪う。社会から奪う。――生活から奪う」


 言葉が現実的で、腹が立つ。


「……僕、何もしてないのに」


 くろえは一瞬だけ、目を細めた。


「何もしない者ほど、利用しやすい」


 ひどい。


 でも、否定できない。


 僕は小さく呟いた。


「世界、滅べ」


 その言葉に反応したのは、くろえじゃなかった。


 ――胸の奥。


 遠くで、笑い声がした気がした。


 ここじゃないどこかで、誰かが楽しんでる笑い。


 そして僕は、なぜか確信した。


 あいつは今、別の世界で暴れている。


 僕は、ただ取り残されている。


 ◇


 帰宅。


 ドアを閉めた瞬間、部屋の静けさが痛かった。


 スマホを置く。

 ネクタイを外す。

 ソファに沈む。


 ――何も変わってない。


 仕事がある。

 上司がいる。

 面談がある。

 明日も電車に乗る。


 でも確実に、薄い膜が一枚増えた。

 監視という膜。

 管理という膜。


 僕は目を閉じて、息を吐いた。


「……早く終わってくれ」


 何が、とは言わない。

 言ったら終わる気がするから。


 そして、胸の奥の“遠い笑い”だけが、微かに残っていた。

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