第3話 社畜は今日も出社する
朝。
目が覚めた瞬間、僕――そらは思った。
……昨日の件、夢だったらいいのに。
師範が黒い目をして「殺す」とか言い出して。
僕の腕に黒い欠片が刺さって。
よく分からないのに勝って。
外でスーツの男が膝をついて「魔王様」とか言って。
――全部、疲れてるから見た幻覚。
そう思いたかったのに。
右腕の内側。
昨日刺さった場所が、赤く腫れてるのに傷口が塞がっている。
「……治り早くない?」
怖いより先に、会社員としての感想が出た。
こういうの、病院行くのも面倒なんだよな。
スマホを見る。
いつも通りの通知。
『【至急】見積修正お願いします』
『そらさん、例のファイルどこでしたっけ?』
『本日10時、会議室Aで』
世界は滅びてない。
残念ながら。
◇
出勤した。
改札を抜ける。
ビルに入る。
エレベーターに乗る。
席に着く。
全部いつも通り。
なのに、ひとつだけ違う。
――視線が多い。
同じフロアの誰かが、僕の腕を一瞬だけ見て、すぐ目を逸らす。
自意識過剰? いや、違う。
受付に置かれた来客名簿が、僕の方を向いている気がする。
コピー機の横に、知らない男が立っている。
社員証のストラップがやけに新品で、目だけが冷たい。
そして上司が、やけに優しい。
「そらくん、体調は大丈夫?」
昨日まで、そんな言葉は一度もなかった。
「大丈夫です」
「そう。……無理はしないでね」
上司は笑って、僕の机の横に資料を置いていった。
置き方が丁寧すぎて、逆に怖い。
――これ、監視だ。
僕がそれに気づいた瞬間。
胸の奥が、いつもみたいに騒がなかった。
あの、うるさい“声”がいない。
「……静かだ」
僕は独り言を落として、ふっと笑った。
いないといないで、落ち着く。
だけど、落ち着きすぎて――自分が急に薄っぺらくなった気がする。
◇
昼休み。
僕は会社の裏口から出て、コンビニへ向かった。
少し遠回りする。
理由はない。……ある。尾行がいる気がするから。
背後の足音が、一定の距離でついてくる。
止まると止まる。
歩くと歩く。
確定だ。
僕はコンビニに入って、レジ前のガムを眺めるフリをした。
鏡になっている商品棚に、後ろの人物が映る。
スーツ。
普通の顔。
でも、目が仕事してる。
僕は心の中で叫んだ。
やめろよ。
僕はただの平社員だぞ。
平社員を監視して何が楽しいんだ。
レジに向かう。
会計。
外に出る。
――同じタイミングで、背後の足音が消えた。
代わりに、会社のビルの影から別の足音が近づいてくる。
「お疲れ様です、そら様」
聞き覚えのある声。
やけに丁寧な常連の声。
僕は振り返って、ため息をついた。
「……その呼び方、会社の近くでやめて」
「承知いたしました。最大限、努力いたします」
努力って言った。
この人、言葉選びがいちいち怖い。
彼は、雨でもないのに傘を差し出してきた。
盾にする気だ。視線を遮るための。
「自己紹介がまだでしたね」
そう言って、彼は深々と頭を下げた。
「私はくろえ。旧魔王に仕えていた者の末席にございます。
現在は、そら様の……“保護担当”を拝命しております」
「拝命って誰に」
「魔王様に、です」
「だから僕は魔王じゃない」
僕が言うと、くろえは一切表情を変えずに頷いた。
「はい。現時点では“魔王ではない”という認識で差し支えございません」
「差し支えないんだ……」
くろえは僕の右腕をちらりと見た。
「……因子が定着していますね」
その言い方が、病院の検査結果みたいで嫌だった。
「因子って、あの黒い欠片?」
「魔王残滓の一部です。滅ぼせません。封じるか、散らすか、誰かが抱えるか――そのいずれかです」
「抱えるって、僕が?」
「はい」
あっさり言うな。
くろえは、さらに声を落とした。
「そら様。国家が動き始めています。あなたは“管理対象”です」
「管理対象って……なに、僕、野生動物?」
「ええ。いえ、失礼。分類上は“資産”に近いかと」
資産。
急に現代に引き戻される単語。
「国に取られるってこと?」
「正確には、国に“囲われる”ということです」
くろえは、僕の目をまっすぐ見て言った。
「そして囲えないなら――壊します」
「壊す……?」
「排除。あるいは、事故。あるいは、世論誘導」
声が丁寧なのが余計に怖い。
僕は乾いた笑いを漏らした。
「……国って、怖いね」
「はい。魔王よりも」
くろえは、本気でそう言った。
◇
同じ頃。
少し離れたビルの屋上。
双眼鏡を覗いている男がいた。
スーツ。無地。癖のない顔。癖のない声。
「対象、接触確認。相手は……第三勢力っぽいな」
男は名乗った。
「みずほ。内閣系“特務調整室”の現場担当だ」
隣でタブレットを操作している女が、淡々と言った。
「さえ。解析担当。……道場事件のログ、きれいに抜かれてる。消し方がプロ」
「内部か外部か、どっちだ?」
「外部寄り。内部ならもっと雑に隠す。……映像だけじゃなく、目撃者の記憶も“整ってる”」
みずほは舌打ちした。
「オカルト嫌いなんだよ、俺は」
「でも来たのはオカルト」
さえの声は感情が薄い。
だから逆に、結論が重い。
みずほは無線に言った。
「監視継続。まだ確保はしない。
……相手が何者か、先に割る」
◇
僕は、くろえに連れられる形で、会社に戻った。
戻らされた、が正しい。
「仕事、あるので」
「承知しました。社畜生活の維持は重要です」
「社畜って言った?」
「はい。現代の“偽装”です」
偽装。
僕の人生が偽装扱いされた。
席に戻ると、同僚が言った。
「そらさん、午後イチの会議、資料お願い」
「……了解」
いつも通りに返事をする。
いつも通りにパワポをいじる。
いつも通りに、誰かの尻拭いをする。
日常は変わらない。
でも、変わってる。
会議室の入口の横に、さっきの“目が仕事してる男”が立っている。
名札はないのに、誰も気にしない。
そして会議中、僕の咳払いのタイミングすら記録されている気がした。
――息が詰まる。
胸の奥は、静かだ。
【カゲ】がいない。
いつもならここで、あの声が「敵だ」「潰せ」って笑っていたはずなのに。
いない。
僕は初めて、少しだけ不安になった。
あいつがうるさいのは嫌だった。
でも、いないと――僕はただの社畜だ。
国家に勝てない。絶対に。
会議が終わる。
上司が言った。
「そらくん、ちょっとこの後、面談いい?」
面談。
普通の会社員の言葉なのに、今は“取り調べ”にしか聞こえない。
「……はい」
僕は笑顔を作って頷いた。
社畜は笑顔が得意だ。死んでるから。
◇
帰宅。
玄関の前に、くろえが立っていた。
朝と同じ顔で、同じ丁寧さで。
「本日も、お疲れ様でございました」
「……ずっといたの?」
「はい。そら様の生活圏を守るのが仕事です」
「守るっていうか監視では」
「監視も守りの一種です」
くろえは微笑んだ。怖い。
部屋に入る。
鍵を閉める。
カーテンを引く。
くろえが言った。
「今夜から、少しずつ“魔王の作法”を教えます」
「作法ってなに」
「目立たず、しかし支配する方法です」
僕は即答した。
「そんなの要らない。僕は世界を壊したいだけ」
くろえは、少しだけ目を細めた。
「……壊すなら、順番がございます」
「順番?」
「まずは、“敵の仕組み”からです。
国家は、銃で撃つ前に、あなたの人生を撃ちます」
ぞっとした。
「仕事、家、信用、人間関係。
それらを失えば、あなたは勝手に囲われます」
くろえの声は淡々としていた。
だから、真実っぽい。
その瞬間。
胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
……戻る?
いや、違う。
戻らない。
代わりに、遠くから笑い声が聞こえた気がした。
この世界じゃない、どこかで。
そして僕の中に、妙な“空白”が生まれた。
あいつは今、別の場所にいる。
僕は、初めてはっきり理解した。
【カゲ】は、僕の中に“住んでる”んじゃない。
――出入りしてる。
◇
その夜。
くろえが帰ったあと。
僕は一人で、ベッドに倒れ込んだ。
「……明日も仕事か」
世界は滅びない。
日常は変わらない。
でも、確実に、何かが侵食している。
――その侵食の中心に、僕がいる。
僕は笑った。乾いた笑いだ。
「いいよ。壊してやる」
何を壊すのか、まだ分からない。
でも分からないまま壊すのが、一番それっぽい。
そして。
遠い世界で、誰かが戦っている気配だけが、薄く胸を撫でた。




