第11話(平和) 夜の仕事
残業を終えて、ビルの外に出た瞬間。
空気が軽かった。
監視の視線はまだある。
でも、昨日みたいに刺さってこない。
薄く伸びた糸みたいに、遠くで揺れてるだけ。
……油断させるやつだ。
僕――そらはコートの襟を立てて歩いた。
コンビニの灯りが眩しい。
平和って、こういう無駄な光のことだと思う。
駅へ向かう途中、スマホが一度だけ震えた。
知らない番号。
出ない。
出ると面倒が増える。
でも、すぐにもう一度震えた。
今度はメッセージ。
『今夜、少しだけ外してください。
迎えを出します。
――くろえ』
短い。
敬語でもない。いつものくろえじゃない。
嫌な予感が、すぐに確信に変わった。
◇
路地裏に入ると、黒い車が止まっていた。
窓が少しだけ開き、くろえが顔を出す。
スーツ。いつもの丁寧すぎる顔。
「お疲れ様でございます、そら様」
いつも通りの口調に戻っている。
逆に怖い。
「……何ですか」
「少々、仕事です」
「あなたの仕事、ろくなことじゃない」
「はい」
肯定するな。
くろえは後部座席のドアを開けた。
「短時間で終わります。
そら様は“立っているだけ”で結構です」
立ってるだけ。
そう言う時ほど、立ってるだけで済まない。
僕は車に乗った。
◇
車は街を抜け、倉庫街へ向かった。
コンビニが減り、街灯もまばらになる。
こういう場所は、夜になると別の国みたいだ。
くろえが静かに言った。
「今夜、回収します」
「何を」
「残り香の強い物」
物。
言い方が曖昧なのに、嫌な確信だけがある。
「……それ、僕と関係ある?」
「あなたがいると、楽になります」
「最悪」
くろえは微笑んだ。
「最適です」
◇
車が止まった。
古い物流倉庫。
入口にチェーンが張られている。監視カメラが二つ。
そして、建物の周りに人がいない。
静かすぎる。
くろえが外へ出て、僕にも降りるよう手で示した。
「そら様。こちらへ」
「僕、普通の会社員ですけど」
「存じております。ですので、普通に歩いてください」
普通に歩けと言われると、普通が一番難しい。
建物の脇、鉄の扉の前に立つ。
くろえが鍵を取り出す……が、鍵穴に差し込まない。
くろえは首を振った。
「鍵が変えられています」
「じゃあ帰ろう」
「帰れません」
即答かよ。
くろえは僕を見た。
「そら様。扉に触れてください」
「……何で」
「反応を見るだけです」
反応。
僕は嫌々、扉に手を当てた。
冷たい鉄。
でもその奥に、ぞわっとした“熱”がある。
その瞬間。
胸の奥が、薄く動いた。
カゲみたいな明確な声じゃない。
ただの、嫌な鼓動。
扉の継ぎ目が、かすかに鳴った。
「……開きます」
くろえの声が静かに上がる。
「は?」
「押してください」
「押すって……」
僕が押すと、鉄扉が、重い音を立てて動いた。
鍵が掛かっていたはずなのに、掛かっていなかったみたいに。
くろえが一歩だけ目を細めた。
「……やはり」
嫌な言い方だ。
◇
倉庫の中は暗い。
照明は落ちているのに、床だけが妙に見える。
薄い白線が引かれている。
箱が並び、封印みたいな札が貼られている。
くろえが小声で言った。
「ここは“保管庫”です。表の組織が持っている。
ですが、扱い方を知りません」
くろえが箱の一つに近づく。
札を剥がすのではなく、指でなぞる。
その手つきが、丁寧すぎて気持ち悪い。
「……あ、いた」
くろえが呟いた。
箱の中から、微かに“匂い”が漏れている気がする。
焦げたような、鉄のような、嫌な匂い。
くろえが振り返った。
「そら様。ここに立ってください」
「また立つだけ?」
「はい。立つだけです」
僕は箱の横に立った。
その瞬間。
足元が、ほんの少しだけ軽くなった。
倉庫の空気が、薄く揺れる。
くろえが短く息を吐いた。
「……良い」
良いって言うな。
くろえが箱を開ける。
中には、黒い欠片が入っていた。
ガラスみたいで、でもガラスじゃない。
見てるだけで嫌になる。
僕の右腕が、勝手に疼いた。
くろえが欠片を布で包んで、懐に入れた。
「回収完了です」
「それ、持ってて大丈夫なの?」
「大丈夫ではありません」
「じゃあなんで持つの」
くろえは平然と言った。
「放置すれば、もっと大丈夫ではなくなります」
正論が腹立つ。
◇
その時。
倉庫の外で、車のエンジン音がした。
複数。ライトが走る。
くろえが即座に言った。
「来ました」
「誰が」
「奪いに来る者です」
当たり前みたいに言うな。
くろえが僕の腕を掴む。
「出口は先ほどの扉のみ。走ります」
「走るって、会社帰りなんだけど」
「今は仕事です」
勝手に副業に巻き込むな。
◇
扉の前に着く。
外の足音が近い。
扉が叩かれる。
「開けろ!」
男の声。荒い。
少なくとも“普通の警備”じゃない。
くろえが僕を見た。
「そら様。もう一度、触れてください」
僕が扉に手を当てる。
冷たい鉄の奥が、また熱を持つ。
今度はさっきより強い。
扉が、音もなく開いた。
くろえが僕を押し出すように外へ出す。
「走れますか」
「走れますよ。社畜だから」
「頼もしい」
褒めてない。
外へ出ると、男が二人、懐中電灯を向けてきた。
顔は見えない。
でも目が獣みたいに光って見えた。
「そこだ!」
くろえが低い声で言った。
「目を合わせないでください」
僕は言われた通り、目線を落として走った。
不自然なくらい、身体が軽い。
追手が距離を詰める。
その瞬間、胸の奥が、薄く笑った気がした。
【カゲ】(……ふん)
声は短い。
機嫌が悪い時の音だけ。
僕は返事をしない。
返事をすると、余計なことになる。
くろえが僕の背中を押す。
「そら様。左へ」
左へ曲がった瞬間、背後で金属音。
追手の足が、何かに取られて滑った音。
僕は振り返らない。
振り返ると、見えたものが頭に残る。
走る。
ただ走る。
くろえが言った。
「十分です」
車に飛び乗る。
ドアが閉まる。
ライトが遠ざかる。
ようやく息を吐いた。
◇
車内で、くろえが布包みを見下ろした。
「……良い回収でした」
「良い回収って言うな」
「事実です」
僕は窓の外を見た。
街灯が戻ってくる。コンビニが戻ってくる。
日常に戻ってくるだけで、安心してしまう自分が腹立つ。
「……僕、何手伝ったんですか」
くろえが答える。
「危険物の移送」
危険物。
そんな言葉で片付けるな。
「それ、誰のため」
くろえは一瞬だけ沈黙した。
そして、いつもの丁寧さで言った。
「あなたのためでもありますし、あなたが壊したい“世界”のためでもあります」
僕は鼻で笑った。
「世界なんて滅べばいいのに」
くろえは微笑んだ。
「滅びる前に、整えましょう」
整える。
魔王軍残党が言う言葉じゃない。
でも今夜の僕は確かに、彼らを手伝った。
世界を壊すつもりで。
でも結果は多分、違う。
その違いが、少しだけ気持ち悪かった




