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第1話 道場に魔王が落ちていた

世界が滅べばいいのに。

 いや、正確には――仕事が滅べばいいのに。


 月曜の朝、満員電車の中で肩を押されながら、僕――そらはそんなことを考えていた。

 会社に着けば着いたで、上司は機嫌が悪い。

 同僚は忙しいフリをして、人の仕事を「それ、お願いできます?」で押し付けてくる。

 取引先は「すぐお願いします」と言いながら、返事は三日後。

 帰り道にはコンビニのレジで電子マネーがエラーになって、店員に申し訳なさそうな顔をされる。


 全員が悪いわけじゃない。

 でも、全員が面倒だ。


 僕は平社員だ。

 特別な才能も、野心も、ない。

 あるのは疲労と、何もかも壊してしまいたい衝動だけだ。


 だから格闘教室に通っている。


 世界を壊せないなら、せめてサンドバッグくらい壊したい。

 そういう理由で始めた。


 ◇


 夜の道場は、古い畳と汗の匂いがする。

 壁にはボクシングミット、キック用のサンドバッグ、そしてやたら重そうな鉄アレイ。


「お疲れ様です」


 受付の前に立っていた男が、丁寧に頭を下げた。

 常連だ。スーツ姿で来ることもあるのに、礼儀が異様に正しい。


「……どうも」


 僕が会釈すると、男は少しだけ目を細めた。

 初対面のはずなのに、観察されている気がした。


 その時、奥の方から師範の怒鳴り声が聞こえた。


「集中しろ! 甘い!」


 いつも厳しい人だが、今日は特に刺々しい。

 生徒が萎縮しているのが分かる。


 師範はこの道場で一番強い。

 実戦経験もあるらしく、動きがやたら“現場”っぽい。

 僕みたいな素人がどれだけ頑張っても、手が届かない距離にいる。


 ――なのに。


 今日は、何かがおかしい。


 空気が重い。

 呼吸がしにくい。

 道場の照明が、ほんの少しだけ暗く見える。


「……停電でもした?」


 呟いた瞬間、胸の奥がざわついた。

 いつもの“厨二病”の発作みたいなやつだ。


 僕は時々、変な衝動に駆られる。

 自分が世界の裏側に関わっている気がする。

 誰かに監視されている気がする。

 強い敵と戦うべきだと思ってしまう。


 当然、ただの妄想だ。

 疲れてるから。

 そう結論づけて生きてきた。


 でも――今日は、妄想が現実に擦れている感じがした。


「そらさん、今日は……気を付けてくださいね」


 さっきの常連が、妙なことを言った。

 笑っているのに、目が笑っていない。


「え?」


「いえ。なんとなく、です」


 なんとなくでそんな顔するかよ。

 僕は突っ込みたかったが、口に出せなかった。


 ◇


 スパーの時間になった。


 僕は相手の生徒とグローブを合わせ、軽く距離を取る。

 いつも通り、だ。


 ……いつも通り、のはずだった。


 視界の端で師範がこちらを見た。

 いや、睨んだ。


 次の瞬間、師範が道場の中央に出てきて、僕の前に立った。


「お前」


 低い声。

 背筋が冷える。


「最近、調子に乗ってないか?」


「……え?」


 調子に乗ってるのは社会の方だ。

 僕はただ耐えてるだけだ。


 師範の手が震えている。

 汗でもない。痙攣でもない。

 何かを押さえつけている震えだ。


 師範の帯の結び目――その奥で、小さな金属片が光った。

 黒い、ガラスみたいな欠片。

 見た瞬間、目が離せなくなる。


 あれは、まずい。


 何がまずいのか説明できないのに、分かる。


 胸の奥の“厨二病”が、笑った気がした。


(近い)


 誰かの声。

 いや、僕の中の声。


【カゲ】(ようやく、近いのが来た)


 身体の感覚が変わる。

 心臓の音が遠くなって、代わりに世界が鮮明になる。


「……そらさん?」


 誰かが呼んだ気がするが、どうでもよかった。


 師範が拳を握った。

 空気が歪む。

 畳の上の埃が、ふわっと浮いた。


 師範の目が――黒く濁った。


「……殺す」


 師範の口から、ありえない言葉が出た。


 次の瞬間、師範が踏み込んだ。

 速い。

 ミット打ちの速度じゃない。人を壊す速度だ。


 僕は避けられない。


 ……なのに、身体が勝手に動いた。


 受けた。

 真正面から。


 拳が頬を掠める。痛い。

 でも、折れない。

 倒れない。


 師範が一瞬だけ目を見開いた。

 その驚きが、なぜか楽しかった。


【カゲ】(いいね)


 胸の奥の声が笑う。


【カゲ】(師範。強い。最高)


 僕は、世界を壊したい。

 それだけのはずなのに。


 今は――強い相手と戦いたい。


 師範が連打してくる。

 僕は受ける。

 受けて、耐えて、間合いを詰める。


 師範の帯の奥の欠片が光り、亀裂が走った。


「……ッ」


 師範が苦しそうに呻く。

 欠片が砕けた。


 破片が宙に舞い――


 その一つが、僕の腕に刺さった。


 熱い。

 焼けるように熱い。


 血が滲む。

 刺さった破片が、溶けるように消えていく。


 同時に、頭の奥で“カチッ”と音がした。


 世界が、二重に見えた。


 ここじゃないどこか。

 灰色の空。

 崩れた街。

 遠くで響く咆哮。


【カゲ】(繋がった)


 胸の奥の声――【カゲ】が、嬉しそうに言った。


【カゲ】(やっと、繋がった)


 師範が叫ぶ。

 黒い濁りが濃くなり、師範の動きが乱暴になる。


 僕は、踏み込んだ。


 拳を当てるのではなく、崩す。

 受け流すのではなく、倒す。


 師範の足がもつれる。

 僕の掌底が鳩尾に入る。

 師範の息が止まり、その場に膝をついた。


 ……勝った。


 師範が倒れる直前、ほんの一瞬だけ目の濁りが薄くなった。


「……残滓を……離せ……」


 師範の唇が、そう動いた気がした。


 僕は息を吐いて、笑った。


 やった。

 壊した。

 気持ちいい。


 世界を壊す。

 その第一歩だ。


 ――そう、僕は本気で思った。


 ◇


 その夜。


 道場の外で、あの常連が静かに膝をついた。

 誰も見ていない場所で。


「……お帰りなさいませ」


 彼の声は震えていた。歓喜で。


「魔王様」


 ◇


 同じ瞬間。


 もう一つの世界。

 灰色の空の下。


 瓦礫の隙間で、若い男――ソラが息を切らしていた。

 ただの一般人だ。何の因縁も知らない。

 今日も食うために走って、隠れて、生きているだけの男。


「……なんだ、今の」


 胸が冷たくなった。

 知らない感覚が、心臓の奥を撫でた。


 遠くで、獣の鳴き声がする。

 そして、誰かの足音。


 ソラが振り向くと、そこには人の形をした影が立っていた。

 瞳だけが、妙に強い光を宿している。


「見つけた」


 影が言う。


「勇者の器」


 ソラは理解できなかった。

 意味が分からない。

 でも――なぜか分かってしまった。


 自分の人生が、今から壊れるのだと。


【カゲ】(強い敵?)


 どこからか、楽しそうな声がした。


 ソラの背筋が凍る。


 その声は、ソラのものじゃない

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