運命の一日
コーヒーを「カーヒー」と呼ぶ文化圏が舞台です。(誤字ではありません)
目の前にカーヒーが置かれた。
湯気が立ちのぼり、本来なら優雅なひと時を演出するはずだった。
馴染みのメイドが、卵白を泡立てて甘くしたメランジェを、わたくしのカーヒーにだけ乗せる。
いつもなら、親友のカタリンにもたっぷりと乗せるのに。
ここはカタリンの屋敷だ。
貴族学園の帰りに、どちらかの家に寄るのはよくあること。
だが、わたくしは手を伸ばさない。
焦れた「親友」が、飲まないのかと急かしてきた。
「どうして飲まないの? ほら、メランジェが溶けてしまうわ」
「どうして、そんなに飲ませたいの?」
「喉が渇いたろうと思って」
「それはあなたも同じでしょう?」
前回は、疑いもしないで飲んでしまった。
それを思い出しただけで、口の中が酸っぱくなる気がする。
「……そうね、飲むわ」
そう言いながら、彼女はわたくしの顔をじっと見ている。
彼女は一口飲んで見せた。
「ほら、なんともないでしょう」
「変な言い草ね。なんだか怪しいわ」
カーヒーは同じモカポットから注いでいたから、きっとメランジェに毒が仕込まれているのね。
「し、失礼ね!」
「それなら、わたくしのカップからも一口飲んでくださる?
無理してブラックを飲むことないわよ」
わたくしの前に置かれたカップをソーサーごと持ち上げて、彼女の目の前に突きつける。
「ど、どうして……」
「さぁ? あなたの協力者が寝返ったのかもね」
親友がメイドを睨みつける。
――そう、その女が共犯者なのね。
貴族学園で出会って、仲良くしてきた三年間。何度、あなたとそのメイドに、わたくしは笑われていたのでしょう。
婚約者を寝取られた間抜けな女?
「誤解よ。あなたの話を訊かれただけ」という言葉を信じた、愚か者?
もう、たわいない話で笑い合った、あの日々は二度と来ないのね。
受け取ってもらえなかったカップをテーブルに戻す。ささやかな未練が手元に伝わったのか、ガチャと無作法な音を立てた。
カタリンは失敗を悟ったようで、青ざめている。
詫びの言葉も言い訳も聞くことができなかった。
「残念だわ」
誰に言うともなく、つぶやく。
そして、わたくしは胸元から笛を取り出し、ピィーと吹いた。
馬車に隠れていた騎士と魔術師、御者のふりをしていた警備兵が応接室に駆けつけてくれる。
止めようとする使用人は、気絶させるか魔法で拘束するかして、無力化された。
騎士がカタリンを、警備兵がメイドを取り押える。
魔術師がティーカップに呪文をかけて調べていく。
「あ~あ、致死量の毒だね」
親友が悔しそうに顔を歪めた。
「それで? あなたの単独犯? それともわたくしの婚約者と共謀しているの?」
拘束されているカタリンと少し距離を開けたところから、訊いてみた。
「わたくしたちは愛し合っているのよ!」
「それなら、わたくしと彼が婚約する前に動くべきだったわね。
幼なじみなんだから、いくらでも時間があったでしょうに。こんな姑息なことをして」
これは嫌味だ。
彼の母親である伯爵夫人は、新興の男爵令嬢など認めないだろう。
けれど、莫大な資産を背景に、説得する努力をすればよかったのだ。もしくは、今、抱えている醜聞を盾にして……。
「馬鹿な女。
どうせ殺すなら、伯爵夫人を殺せばいいのに。わたくしがいなくなっても、別の婚約者を捜してくるわよ」
「な……ど、そんな」
カタリンが目を丸くしている。
わたくしの口調に驚いたのかしら。
それとも、言っている内容に「そういう手があったか」と賛同しているのかしらね。
ふと思いついて、メランジェが入ったボウルから一匙スプーンですくった。シルバーではなく陶器のスプーン。わざわざ、毒で反応しないスプーンを用意したのね。
拘束されているカタリンの顎をつかみ、顔を上向かせた。その額にぼたりと垂らしてみる。
「うぎゃああああ~」
すごい悲鳴があがった。
「熱い? 痛い? ……飲んだ時は、熱くて喉が焼けて苦しかったわ」
そう、前回のわたくしは疑わずに飲んでしまい、あっけなく殺されたのだ。
死んだはずなのに、気がついたらこの日の一ヶ月前に戻っていた。
おかしな夢でも見たのかと思ったが、記憶にある同じ出来事をなぞるような日々が続く。
そして、今日、決定的なできごとで、夢でないことが証明されてしまった。
立派な体格の騎士が、全力になるくらいの暴れっぷり。
「これ、肌からも吸収されますの?」
「ゼロではないけど、粘膜から摂取したときのように命に別状はないはずだ。少しシミになるくらいかな」
魔術師が答えた。
あらあら、顔の真ん中に垂らしてしまったわ。
でも、謝らないわ。死ぬのとどちらがマシかしら、と思ってしまったもの。
わたくしは最終的に呼吸ができなくなって、死んだと思う。
涙だけでなく、鼻水やよだれで見るも無惨な姿で這いつくばった記憶がある。
苦しくて、悔しくて……悲しかった。
一月前に巻き戻ってから、気をつけて観察してみれば、怪しいことはたくさんあった。
前回、気がつかなかったのが不思議なほど。
自分が邪魔者で、憎まれているとは思わずに、ぽわぽわと過ごしていた。なんて呑気に生きていたのかと、自己嫌悪に陥った。
あまりにうるさいので、この家の主が登場した。彼女の父親だ。
「ここで何をしているんだね」
一代で巨万の富を築いた男爵は、流石の迫力だ。
「毒殺未遂の現行犯逮捕です」きっぱりと騎士が答えた。
「君たちの勘違いじゃないかね?」
驚く様子もない。娘が何をしようとしているか知っていたのか。
「勘違いかどうかは、お話を訊いてから判断しますので。お嬢様をお借りしますよ」
父親は、自分の横をすり抜けようとした騎士の腕を掴んだ。
「勘違いだろう、そうでなければ……」
父親の体から靄のようなものが滲みでた。
「はい、父親も現行犯逮捕」
魔術師が魔術で出した紐で父親を縛る。
「精神に働きかける禁術、このブレスレットか。どこで買ったのか、じっくり聞かせてもらうよ」
魔術師が魔術で信号弾を打ち上げ、屋敷の外に待機していた増援がなだれ込んできた。
「ご令嬢の妄想じゃなかったのか……」そんなつぶやきが聞こえた。
彼らと一緒に騎士団の詰め所に行き、調書を取られた。
騎士団の馬車で家に送ってもらう。
カタリンの家に置いてきた馬車を取りに行かなければ、と気が重くなる。
出迎えてくれた執事にそれを話すと、婚約者が来ているという。
「もうそろそろ夕食の時間だというのに、まだいるの?」
約束もないのに晩餐にありつこうとしていると、誤解されるような行動だ。普通は避ける、マナー違反だ。
「無事だったんだね」
ソファから腰を浮かせて、婚約者のマールトンは心配していたかのように振る舞った。
「何がでしょう?」
疲れもあるし、この男が元凶だと思うと苛ついた声音になった。
「だから、彼女の誘いに乗らないでと言ったのに。仕方のない子だなぁ。
解毒薬を持っているんだ、ほら」
この人は、彼女が凶行に及ぼうとしていると知っていて黙っていたのか?
「駄目だ」と口で言うだけで、理由を説明したり、乱入して防いだりする気は微塵もない、ということ?
「『彼女』で通じると思うなんて、特別な存在だと言っているようなものね」
感じるのは、落胆と怒り。知っていたのに、ただ成り行きに任せていたのかという失望。
目の前で慌てている男の、なんと滑稽なこと。
一度目の私なら、「どうして力尽くで止めてくれなかったの?」と泣いて縋っていたでしょう。
体と一緒に心まで死んでしまったみたい。
……いえ、巻き戻ってからの一ヶ月で、少しずつ心が枯れていったのかも。
「何をおっしゃっているのか、わかりかねます」
きっぱりと拒絶する。
気持ち悪い。何を考えているんだか。そんな嫌悪感が勝った。
ことが起きてから後出しで言われても、遅いのだ。ありがたいともなんとも思わない。
この二度目だって、わたくしが事前に対策していなければ、今頃は死んでいた。またしても、間に合わなかった――それで済ますつもりか。
「君を助けるために、僕が時間を巻き戻したんだよ!」
間抜けなマールトンが胸を張る。
ああ、そういうこと……今、切り札として使うのね。
だから? 恩に着せて、どうしようというのか。
今回も見殺しにしようとしていたんじゃないか、という疑いが消えない。
「……」
無言で佇むわたくしを、もどかしげに見つめる。
彼の中では、ここで感激して飛びつく愚かな女が生きているんでしょうね。
その女は、親友の「誤解よ」という言葉を信じたせいで、死んだわ。
いえ、信じたかったのでしょうね。
婚約者からの愛も、親友との友情も。
浮気をしていると教えてくれた人たちを、遠ざけるほどに。
「僕は君を愛しているんだ」
突然言われた言葉が、とても寒々しい。
あの親友がお茶会やデートに乱入してきたとき、デレデレと鼻の下を伸ばしていたではないか。
舌っ足らずなしゃべり方、勢いのある新興貴族。彼女を射止めたいという殿方は多数いた。
だから、彼女に選ばれたと言うことが自慢で、でも浮気だから自慢できなくて……自尊心がねじ曲がっていったのよね。
いい人ぶろうとしないで、婚約解消してくれればよかったのに。傷物と言われても、殺されるよりマシだったわ。
「あの女が、僕を騙していたんだ」
自ら甘い毒にふらふらと寄っていったくせに、何を今更。
お腹でお湯が沸く……へそで茶を沸かす? とにかく、それだわ、異国のことわざ。
「前回は結婚してしまったんだけど、君を毒殺したと言うから殴ってやった。
それで、君とやり直すために……」
時間を遡るのも禁術だ。
魔術師に借りた魔導具を起動した。自白を録音しておかなきゃ。
「今、あなた、時間を巻き戻したと言ったの?」
信じられない、という演技をする。
ちょっと、棒読みかしら。
大根役者と言われるかもしれないが、大事なのはわたくしの演技力じゃないわ。
そこまでして取り戻したいほど、いい関係は築いていなかったじゃない。あんな女と結婚できるような男に、未練はないわ。
――他に何を、隠しているのかしら。
「そうだ。君も記憶があるんじゃないのか? 最近、少し変わったよ。冷たくなったんじゃないか」
もう一人、巻き戻った記憶がある人が、色々と教えてくれたのよ。あなたたちの裏切りを。
あなたのことは幼くて気が回らないだけだと思っていたの。だから、教えてあげようと、色々と口を出した。
まさか、婚約者用の予算でカタリンにだけプレゼントして、できないフリをして仕事をわたくしに押しつけようとしていたなんてね。
だからもう、あなたのために何一つやりたくないし、微笑むのすら苦痛なの。
「お友達が、あなたマールトン・ヘーデルヴァーリとカタリン・ヴァッシュが浮気していると忠告してくださったんです」
「それは……。ちょっと気が合うだけだと言っておいたじゃないか」
「それなら、なぜ、今日、わたくしが彼女の家に行くと知っていたの? 示し合わせていたんじゃなくて?」
これを聞いた人たちは、彼らが共犯だと思うだろう。
「違う! 前回は知らなかったし、今回は君を止めようとしただろ!」
「理由もおっしゃらず、一言『行かない方がいい』とだけ。それは『止めようとした』うちに入るのかしら?」
「君は! 何もわかっていない!」
なんて大きな声でしょう。こうやって威嚇して、わたくしを言いなりにしようとするの、大嫌い。
「急いで飲まないと」と強く腕を掴んできたので、もみ合いになり、その解毒薬とやらの瓶が落ちて割れた。
本当に毒を飲んでいたら、こんな悠長に話していられる状態じゃないわ。即効性があったもの。
本当に間抜けな男。
「なんてことを! 君を死なせたくないんだ」
嘘だとは思えないくらい、迫真の演技だわ。これなら、一回目のわたくしが騙されても仕方ないかしら。
「マールトン様が錯乱なさっているわ。助けて!」
困惑しているふうを装って叫ぶ。
控えていた侍女が、従僕たちを呼び、彼を取り押えてもらう。
侍女がわたくしの乱れてしまった髪を整えながら、「『助けてと言うまで黙って見ていろ』などと……肝が冷えました」と小言を言う。
マールトンは「どうしてわかってくれないんだ」と、もがいている。
彼の家の馬車を待機場所から入り口に移動させ、彼を馬車に押し込んだ。
「落ち着いてください。今日はもうお帰りになったほうがいいと思いますわ」
御者も何かを察したようで、急いで帰っていった。
それから父の執務室に行き「婚約者が、わたくしが毒殺されるはずだったと言った。親友と共謀しているに違いない」と伝える。
父は急いで騎士団に通報してくれた。禁術を行ったという自白を録音した魔道具も持っていってもらう。
親友はもう捕まっているから、これで婚約者を捕まえてもらえば、一安心ね。
一月の間に、わたくしから婚約解消を申し出ることも考えた。
だが、それでは「わたくしは殺されない」けれど、犯人たちの思うつぼになってしまう気がしたのだ。
やり返さなかったら、モヤモヤというかムカムカというか、未消化の感情を抱え込んでしまうのではないだろうか。
被害者のわたくしだけが、不快な思いを抱えるなんて、嫌だわ。
婚約破棄するよりも、犯罪者になった方が彼にとって痛手だろう。
わたくしの命を軽んじて、弄ぶなど、絶対に許さない。




