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ただ神は見ているだけ  作者: kuro
一章
9/20

第8話 悪者じゃ救えない

夜明けの水の都は、まだ白い靄に沈んでいた。

石畳の隙間から冷えた空気が立ち上り、川面には舟の影が細長く映っている。

パン職人が窯に薪を投じ、油商人が瓶を並べ、衛兵の靴音が橋の上を渡っていく。


その喧噪の端に、ひとりの痩せた少年が立っていた。

黒い瞳をぎらつかせ、ポケットの奥に小さな銀貨を握りしめている。


…トオヤ。

昨夜、偶然拾った一枚の銀貨。

彼にとっては人生で初めての「まともな通貨」だった。


(今日は……盗まない。だってさぁ〜、買うんだよ。オレの銀貨で!)


胸をどん、と叩く。

空っぽの腹がぐうと鳴ったが、それも決意の拍子に聞こえた。


目当ては、橋のたもとにあるパン屋の屋台。

焼き立ての匂いが風に乗って漂ってくる。

腹をすかせた仲間たちの顔が頭をよぎった。

泣きそうな小さな子、空腹を我慢して強がる兄貴分。


「オレが買うんだ。盗むんじゃない。堂々と!」


トオヤは屋台に歩み寄り、銀貨を卓上に置いた。

硬貨が石の上で乾いた音を立てる。

店主が顔を上げた。丸太のような腕をした、口ひげの太い男だ。


「おや……? 坊主、お前……銀貨なんかどこで手に入れた?」


声は低く、疑いに満ちていた。

トオヤは一瞬言葉に詰まる。だが、すぐ胸を張った。


「だってさぁ〜……拾ったんだよ! でも今日は、これでパンを買う!」


店主の目が細くなる。

やがて周囲の商人たちも耳を傾け、ざわつきが広がった。


「拾っただと? 嘘つけ、どっかから盗んだんだろ!」

「昨日も屋台荒らしてたガキじゃねえか!」


怒声が重なる。

パンの香りが急に遠くなり、代わりに冷たい汗が背筋を伝った。


(違う、違う!今日は盗んでないんだ!)


「違うんだってば!」

トオヤは声を張り上げた。

「今日は買うんだ! オレは……オレは義賊なんだ! 悪者でいいけど、誰かを助けるために——」


その叫びを遮るように、硬い靴音が近づいた。

青い外套の衛兵たち。昨日も追いかけ回した顔ぶれだ。

彼らは橋の両端から歩み寄り、屋台を半円に囲むように立った。


「こいつか。組合から正式に訴えが来てる」

「銀貨も証拠だ。盗んだに違いない」


棒の先端が、子供の小さな胸に向けられる。

市場のざわめきがすっと引き、周囲の視線が一斉に突き刺さった。


トオヤは喉を鳴らし、必死に叫んだ。

「違う! 今日は盗んでない! 仲間のために……買おうとしたんだ!」


声が靄の中に響く。

だが衛兵たちの目は冷たいままだった。


橋の上に緊張が張り詰め、朝の鐘が一度鳴った。

その音は、少年の運命を刻む合図のように重く響いた。


衛兵の棒が振り上げられた、その瞬間。

「待って」

涼やかな声が、橋の向こうから響いた。


視線がそちらに集まる。

朝靄を裂くように現れたのは、灰色の外套を羽織った女。

栗色の髪を束ね、布袋を手に提げている。


「ナディアさん……!」

ざわめきが走る。商人組合に名を連ねる若き商人、その名は街でも通っていた。


彼女は衛兵の前に歩み出て、布袋を開けて見せた。

中には銀貨がぎっしり。

「この子は盗んでいない。少なくとも今は“買おうとした”。それだけは事実よ」


衛兵たちは顔を見合わせ、躊躇した。

だがすぐに、ひとりが鋭く言い放つ。

「その銀貨自体が盗品なら、話は別だ」


ナディアは頷いた。

「そうね。その可能性は否めない」

そして、振り返りざまトオヤを射抜くように見据える。


「拾ったの? それとも、奪ったの?」


喉が詰まる。

仲間たちにパンを持ち帰りたかった——その気持ちは本物だ。

でも、この銀貨は……落とし物。正しくは“自分のものじゃない”。


「……だってさぁ〜……」

トオヤは苦笑いを浮かべ、声を震わせた。

「オレは悪者でいいんだ。悪者だから、誰かを助けるために動けるんだ!」


その言葉に、ナディアの瞳が一瞬だけ揺れた。

だがすぐに冷ややかに返す。

「悪者のままじゃ、救えない人がいる」


沈黙が落ちる。

パン屋も商人も、衛兵たちすら言葉を失った。


そのやり取りを、観察者は上空から見つめていた。

——少年、盗人を自称。

——だが“買おうとした”行為は、帳簿に記せる取引。

——女、矛盾を突き、真実を映す。


ペン先が紙を擦る。

だが次の瞬間、黒い文字がにじんだ。

帳簿の行が揺れ、余白に赤い火点が瞬く。


(これは……救済か? 堕落か? どちらにも記せない……!)


観察者の声に、かすかな震えが混じった。

少年の行動は、ただの盗みでも救いでもない。

その曖昧さが、帳簿を歪ませ、記録の形そのものを揺さぶっていた。


ナディアは布袋を衛兵の前に突き出す。

「この子の銀貨がどこから来たかはともかく、取引は成立している。帳簿は清算済み…そうでしょ?」


衛兵たちは渋い顔をしたが、やがて棒を下ろした。

「……ナディアさんがそう言うなら」

「本当に次はないぞ、盗人」


青い外套が翻り、足音が遠ざかっていく。


トオヤは銀貨を握りしめたまま、呆然と立ち尽くしていた。

心臓は激しく打ち、ナディアの言葉が頭の奥に残響している。


“悪者のままじゃ、救えない人がいる”


それは痛烈で、けれど確かに——胸の奥を温めるものでもあった。


夜の水の都。

細い路地裏に、焚き火の小さな灯がともっていた。

割れた壺を囲いにして、枝と木屑を燃やす。

炎は心許なく揺れるが、孤児の子供たちにとっては唯一の暖かさだった。


輪になって座る仲間たち。

年下の子がすすり泣き、年上が硬い干し肉を噛み切って分け与える。

だが、それだけでは全員の腹は満たされない。

空気は重く、火の音ばかりが耳に残る。


そんな中、トオヤが立ち上がった。

腕の中には、昼間どうにか手に入れたパンの袋。

ぎこちなく胸を張り、仲間の前に置いた。


「ほらよ。今日は“買った”んだ。オレの銀貨で!」


一瞬、沈黙。

やがて、子供たちの目が丸くなり、歓声が弾けた。


「ほんとに? 買ったの?」

「すげえ! トオヤがパンを買った!」


小さな手が袋に伸び、パンをちぎって分け合う。

その香りが路地に広がり、泣いていた子も口をほころばせた。


トオヤは腕を組み、にやりと笑った。

「だってさぁ〜……オレが悪者になれば、みんな笑えるんだ。

 でもな、今日は“買った悪者”だぜ? ちょっとすげえだろ」


子供たちの笑い声が夜空に跳ねた。

焚き火の光に頬が赤く染まり、硬いパンさえご馳走に変わっていく。


その光景を、観察者は見つめていた。

——少年、誇りを覚える。

——盗みではなく、買ったと胸を張る。

——だが誤解は残る。“金さえあれば救える”という、幼い思い違い。


帳簿の文字がまたにじんだ。

黒い線の隙間に、赤い火のような点が灯る。

それは記録不能の曖昧さ。救済か、堕落か。

だが確かに、そこに「生きる力」が息づいていた。


焚き火の輪の中で、トオヤは空を仰いだ。

煙に滲む星々を見上げながら、小さな拳を握りしめる。


「……オレもいつか、ほんとの義賊に絶対なる! 金さえあれば、全部救えるんだ!」


その声は夜風に溶け、星のきらめきと混ざって消えていった。

だが焚き火の残り火は、胸の奥で確かに燃え続けていた。


観察者の声が、帳簿の余白にかすれた文字を刻む。

——少年、悪を誇る。

——しかし、“買おうとした”事実は帳簿を歪ませる。

——救済か、堕落か……いや、これは……?


黒い文字がにじみ、赤い火点がぱちぱちと弾ける。

それはまるで、子供の勘違いにさえ命の力が宿っているかのようだった。


観察者は筆を止め、ほんのわずかに戸惑いを滲ませた。


「……金で、全部救えるだと?」


帳簿には答えがない。

ただ、少年の笑みだけが夜空に焼き付いていた。

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