第7話 水の都の小さな盗人
観察者の声が、世界の天蓋に薄く響く。
…次に観測するのは、孤児の少年。
食べるために盗む者は珍しくない。だがこの子は“負債”の記録を、笑いで上書きしようとする。
水の都の朝は、船の櫂と橋の靴音で始まる。
小舟が水面を切り、橋上では商人たちが呼び声を張った。
「朝摘み果実! 甘いよー!」「燻し肉、量り売り!」
その喧噪の下、屋台の布陰から黒い瞳がきょろりと覗く。
泥と日差しで焦げた頬。背の低い、痩せっぽち。
少年は喉を鳴らし、腹をさすり、屋台の山盛りのパンに視線を釘づけにした。
(……一個。たった一個。だってさぁ〜、腹減ったんだもん)
少年…トオヤは、鼻で自分を励ます癖をやってから、靴紐をきゅっと結び直した。
片膝を沈め、風の流れと人の動線を読む。
橋の上、鐘が一度鳴る。市場が最もざわつく瞬間。
「今だ!」
ぬるり、と手が伸び、パンが一つ、山から消える。
同時にトオヤは体をひねって橋の欄干をくぐり、小舟の縁へひょいと飛び移る。
「おいコラぁぁぁぁ!!」
「またあのチビだ! 衛兵! 衛兵呼べ!」
怒号が飛ぶ。
パン屋の親父が太鼓腹を震わせて追うより早く、街角の笛がピュウッと鳴った。
青い外套の衛兵が二人、橋の上に姿を見せる。
トオヤは小舟の縁をバランスよく走り抜け、船頭の「おい危ねえぞ!」を背に受け流しながら、反対岸の杭へぴょんと跳ねた。
着地と同時にパンにかじりつく。
「……っめぇ……! はぁぁぁ、沁みるぅ……!」
幸せの吐息は一秒。
二秒目で肩をひょいと掴まれた。
「捕まえたぞ、泥棒坊主」
振り返れば、外套の裾を水で濡らした衛兵。
トオヤは笑って肩を竦める。
「だってさぁ〜、先に掴んだのはパンの方だよ? 先着順ってやつ!」
「屁理屈言うな!」
掴まれた手首を回し、身を落としてくるりと抜ける。
小さな体はするりと空を滑り、衛兵の足をまたいで裏路地へ。
「待てッ!」
路地は狭く、洗濯物と香草が風に踊る。
鼻をくすぐる匂いに腹がさらに鳴ったが、足は止めない。
角を二つ、段差を一つ、桶の上を一歩だけ踏んでから、石壁に両手をかけ、身を引き上げる。
屋根の縁に指が届く。腕がちぎれそうでも、歯を食いしばって。
「んしょっ……!」
ぎりぎりで屋根の上。
瓦の熱が足裏を焦がすが、風が背を押す。
下から衛兵の怒鳴り声。
「降りろ! 怪我するぞ!」
「怪我するのは降りた時でしょ!」
返事と同時に、屋根から対岸の庇へ跳ぶ。
空中で一口、パンをかじる余裕まで見せた。
噛むたびに粉が舞い、喉に張り付く。水、ほしい。水、だけど…
(飲んだら終わり。逃げ切ってから)
足場が切れる先、網を干す空き地が見えた。
干し網の木枠をトランポリンにして落下の勢いを殺し、地面に転がって…
「いたぞッ、囲め!」
……囲まれていた。
空き地の四方、いつの間にか外套の青が増えている。
背の高い衛兵が、柄の長い棒(先端は鈍い、安全なやつ)を肩に担ぎ、子供を見る目をしていない目で睨んだ。
「観念しろ。商人組合から正式な訴えが来てる。今日で終わりだ」
喉が鳴った。
パンの残りを握る手に汗が滲む。
逃げ道は、網と木枠の隙間…狭い。
風の向き、足の数、棒の間合い。全部、いつも通りに数えるのに、今日は胸が妙にざわつく。
(……今日で、終わり?)
観察者の声が、乾いた紙にペン先を落とすように記す。
——少年、包囲。
——出口、三。体格差、甚だしい。
——助けは、来ない。
「だったら——」
トオヤはパンをぐっと噛み切り、頬張った。
腹に入れたら、もう後悔しない。
靴の泥を払い、膝を屈伸。笑う準備。
「だってさぁ〜、腹減ってんだよ!」
叫んで、自分に勢いをつける儀式だ。
棒が振り下ろされる。
木が風を裂く音。頬を掠め、耳鳴り。
一歩、二歩——網枠を蹴って、角の衛兵の死角へ潜り込む。
「こっちだ!」
飛びつく腕。
避けきれない。胸が詰まる。
(ここまで、か——)
その瞬間、乾いた硬貨の音が空気を割った。
ちゃりん、ちゃりり…と、布袋が網枠の上に落ち、銀色が朝日を弾く。
「その子の分、私が払うわ」
涼やかな声が、背中から降ってきた。
衛兵たちの視線が一斉に揺れる。
トオヤは、半分ちぎったパンを握ったまま、そろりと振り返った。
橋の影から、薄い外套をまとった女が歩み出る。
濡れた石畳でも足音を立てない歩き方。
手は細く、しかし躊躇なく布袋を差し出していた。
観察者は記す。
——支払者、現る。
——声の質、落ち着き。手の震え、ゼロ。
——交渉の手つきは、熟練。
トオヤの喉が乾いた音で鳴った。
助けだ。けれど…ただの慈善には見えない目。
それは腹の音では満たせない、もっと面倒くさい大人の世界の匂い。
女は衛兵に向き直る。
「私の名は必要かしら? それとも、数があれば足りる?」
衛兵の視線が、布袋の口に集まる。
銀貨の縁が、朝の光で冷たく光った——。
一人が小さく舌打ちし、仲間に目配せする。
「……チッ。ナディアさんがそうするなら、こっちは文句は言えねえ」
別の衛兵も渋々頷いた。
「商人組合の一員にまで楯突くわけにはいかんからな」
「いいだろう。だが次はないぞ、盗人」
商人組合の圧力と、目の前の銀貨の重み。どちらを優先するかは明白だった。
青い外套が翻り、衛兵たちは散っていく。
残されたのは、布袋の主と、口いっぱいにパンを押し込んだトオヤだった。
「……あ、あんた……」
トオヤはもごもごと咀嚼しながら、助け舟を出した女を見上げた。
艶のない栗色の髪を束ね、灰色の外套に袖を通した姿。
ナディアと呼ばれた女性。歳は……二十代か三十代か、商人にしては若い。
だが眼差しは、値踏みする商人のそれと変わらない鋭さを持っていた。
ナディアは小さく肩をすくめた。
「食べたいなら、店で買いなさい」
「だってさぁ〜……金なんて無いんだもん」
トオヤは即答した。
ナディアはため息をひとつ落とし、足元の石畳をつま先で叩いた。
「無いなら働きなさい。盗んで食うのは、いずれ命を削るわ」
「……へへ。命、もうちょっと余ってるし」
強がって笑ったが、腹の虫が裏切るようにぐぅと鳴った。
ナディアは眉を寄せ、それでも手を差し伸べたりはしない。
ただ、肩越しに一言だけ投げる。
「二度と同じ真似をするなら、私が許さない」
そう言い残し、石畳の向こうに消えていった。
残されたのは、半分食べかけのパンと、喉の奥に残る苦いもの。
観察者の声が淡々と記す。
——女、立ち去る。
——少年、救われる。だが代償を払ったのは他者。
——記録に残るのは、“負の帳簿”。
トオヤはポケットの奥に何かを押し込んだ。
ナディアが落とした銀貨を一枚。
返すべきか迷ったが……手は動かなかった。
「……拾っちゃったんだもん」
口では軽く言いながら、胸の奥で小さな火が灯っていた。
あの眼差し。叱られた感覚。
誰かが真剣に「許さない」と言ってくれたのは、いつ以来だろう。
観察者は、記録に小さな疑問符を添える。
——少年、拾った銀貨を隠す。
——笑いながらも、心に火。
——これは……救済か、堕落か。
瓦の隙間から差し込む陽光が、銀貨の縁をきらりと照らした。
トオヤはそれを見つめ、ぎゅっと握りしめた。
「……オレだって、いつか……」
声は小さかった。
でも、その胸の奥には確かな芽が息づいていた。
トオヤは銀貨を握ったまま、石畳の上にしゃがみ込んでいた。
パンの残りを口に押し込み、ゆっくりと噛みしめる。
喉を通る温もりが、少しだけ胸を楽にした。
でも、心はざわざわしていた。
(だってさぁ〜……助けてくれたのに。オレ、結局また盗んでるじゃん)
手の中の銀貨が、やけに重い。
拾っただけのはずなのに、まるで心を見透かすように冷たく光っていた。
その夜、裏路地の焚き火に集まる子供たちの輪の中に、トオヤの姿があった。
同じ孤児の仲間たち。
小さな子がすすり泣き、年上が硬い干し肉を分けている。
「腹減ったよ……」
「もうちょっとで、誰かが見つけてくれるって……」
誰かが見つけてくれる。
その言葉に、トオヤは鼻で笑った。
「待ってても腹は膨れないんだぜ」
そう言いながら、握った銀貨を炎にかざした。
小さな光が、仲間たちの瞳に反射する。
「これで……明日のパン、買えるかもな」
驚いた顔が並ぶ。
「えっ、トオヤ……盗んだの?」
「ち、違う! 拾ったんだってば!」
慌てて否定しながらも、胸の奥で別の声が響く。
(でも、オレ……またやるんだろうな)
次の瞬間、彼は拳を握りしめて立ち上がった。
焚き火の影が、背を大きく見せた。
「いいか、オレが盗んだら、みんなの分も持ってくる!
だってさぁ〜、オレだけじゃなく、誰かを助ける盗人になれるだろ?」
子供たちの顔が揺れる。
涙が、笑いに変わる。
「なにそれ……義賊ってやつ?」
「かっけー! トオヤ!」
歓声と笑い声が、暗い路地に弾んだ。
火がぱちぱちと弾け、夜空に小さな火花を散らす。
観察者はその光景を冷ややかに見つめていた。
——少年、盗みを肯定。
——仲間のためと称し、罪を誇りに変える。
——これは救済か、それともさらなる堕落か。
けれど、その声には微かな揺らぎがあった。
笑う子供たちの顔。
拳を握りしめたトオヤの瞳の奥に——
確かに「誰かのため」という火が燃えているのを、記録者であるはずの存在も否定できなかった。
トオヤは夜空を見上げ、ひとり呟いた。
「……オレが悪者になれば、みんなは笑える。…オレは、誰かを助ける盗人、義賊ってやつになるんだ!」
その声は焚き火の煙に溶け、星の瞬きと混ざって消えていった。