第6話 止まっていた時が動き出す
視界が反転し、光の奔流に呑まれたあと。
アオイナは、ごうごうと響く音の中に立っていた。
「……ここは……?」
見上げれば、夜空を切り裂くように高層の建物が林立している。
ガラスの窓が無数の光を返し、まるで星々が地上に降りたかのようだった。
鉄と油の匂い。見知らぬ人々のざわめき。
地面を走り抜ける鋼の車輪の音が、胸を震わせる。
——地球。
父が生まれ育った世界。
震える指先に、冷たい感触があった。
止まったままだった懐中時計。
その時計が、不意に「カチリ」と音を立てた。
「え……?」
小さな針が、ほんのわずかに動いた。
胸の奥が熱くなる。
そして、視線の先——
雑踏の中で、一人の青年が立っていた。
まだ若い。背は高くない。
けれど、不器用に背筋を伸ばし、少し頼りなげに歩く姿に。
アオイナは、息を止めた。
「……父さん……」
口から零れた声は、誰にも届かないほどか細かった。
それでも、彼の面影を見た瞬間、心臓が跳ね上がる。
だが、その隣に。
黒髪の若い女性がいて、笑い合いながら歩いていた。
二人の距離は近く、肩が触れるほど。
アオイナの胸に、冷たい棘が刺さる。
「……もし、あの人と結ばれたら……」
呟いた声が震える。
母とは出会わない。
自分は生まれない。
頭ではそんなはずないと分かっていても、恐怖が喉を締めつけた。
時計の針が、再び「カチリ」と鳴る。
——これは、未来を変える音なのか。
アオイナは拳を握った。
「……止めなきゃ」
アオイナは物陰から青年と黒髪の女性をじっと見つめていた。
胸の奥はぐらぐらと煮え立つように落ち着かない。
「もしあの人とくっついたら……母さんとは出会わない。
そしたら私、ここにいなくなる……!」
頭ではあり得ないと思っても、心がそう叫んでいた。
止まったままだった時計は、彼女の不安をあざ笑うように「カチ、カチ」と刻んでいる。
「よし、こうなったら——」
アオイナは立ち上がった。
⸻
最初の作戦は、カフェ。
青年と女性が並んで座ったテーブルに、こっそり近づく。
給仕の真似をして、グラスを二人の前に置いた。
「どうぞお水です!」
がしゃんっ!
次の瞬間、水が豪快にこぼれ、二人とも服を濡らしてしまう。
「ひゃあああっ、ご、ごめんなさい!」
アオイナは慌ててハンカチを押し付ける。
女性は驚いていたが、青年はむしろ心配そうに笑った。
「大丈夫? ケガはない?」
女性は顔を赤らめて、青年に「優しいのね」と囁いた。
アオイナ「……ち、違う! なんで好感度上がってるのよ!」
⸻
第二の作戦、公園。
ベンチに並んで座る二人の間に、すかさず割り込む。
「ここ、空いてますよね!」
狭いベンチに三人並び、ぎゅうぎゅう詰め。
青年と女性の肩がさらに密着してしまう。
女性「……ふふ、なんだか学生みたい」
青年「ほんとだな」
アオイナ(……逆効果じゃん!!)
⸻
第三の作戦、路上。
アオイナは小石につまずいてわざと転び、派手に倒れ込んだ。
「きゃああああ!」
すかさず青年が手を差し伸べる。
「大丈夫? 立てる?」
女性は微笑んで、青年に寄り添う。
「あなたって、ほんと放っておけない人ね」
アオイナは涙目で地面に突っ伏した。
「なんで……なんで邪魔するほどラブラブになっていくのよ……!」
観察者の声が頭に響いた。
「……馬鹿な。こんな行動は観測対象の枠を逸脱している……!」
その声音は焦りを隠しきれなかった。
上位者のくすくす笑う声が、その上から重なる。
「面白いね。記録者が揺らいでる。——もっとやらせてみようか」
アオイナは息を荒げながら、街の雑踏を駆けていた。
青年と女性を追いかけ、妨害を繰り返したものの——結果は逆効果。
二人の距離はむしろ縮まっていくばかりだった。
「……もう、どうしたらいいの……!」
胸が締め付けられる。
母と出会わなければ、自分は生まれない——その恐怖が理性を凌駕していた。
「直接……止めるしかない!」
自分でも無茶だと分かっていた。
けれど足は勝手に動いていた。
青年と女性が横断歩道に差しかかった時。
アオイナは思わず二人の前に飛び出した。
「待って!!」
その叫びが響いた瞬間。
強烈なライトに視界が白く弾けた。
世界がひしゃげ、地面が引き裂かれるような感覚。
アオイナは思わず息を呑む。これは……異界に呑まれる時の——。
「危ない!」
青年が飛び出した。
光の奔流の中で彼の腕がアオイナを抱き寄せ、車の衝撃を逸らす。
その瞬間——胸元の懐中時計が「カチリ」と音を立てた。
止まっていた針が、ゆっくりと動き始める。
青年の視線が時計に吸い寄せられる。
「その時計……」
彼の表情が変わった。驚き、確信、そして深い優しさへ。
異界に呑まれる光景を目にしながら、彼の瞳にはむしろ確信の光が宿っていた。
「……そうか。君は……」
光の中で、彼の声が震える。
「大きくなったんだな、アオイナ」
堰を切ったように、アオイナの目から涙があふれた。
「……パパ、ごめんね……! わたし、ずっと勘違いしてて……」
青年は首を振る。
「いいんだ。全部わかった。これで良いんだよ」
その言葉は、アオイナの胸に深く刻まれた。
父に認められた。父に抱きしめられた。
それだけで、どんな孤独にも勝てる気がした。
懐中時計の針は、静かに時を刻み続けていた。
それはまるで、止まっていた親子の時間が動き出したかのようだった。
やがて父は腕をほどき、優しく背を押した。
「さあ、戻ろうか。……ママのところへ」
懐中時計の音が、ひときわ大きく響いた。
視界が揺らぎ、光が世界を覆っていく。
父の姿が遠ざかり、けれどその微笑みは最後まで消えなかった。
「……ありがとう、パパ」
涙の声が光に溶けた。
——次に目を開けた時。
そこは見慣れた世界。
けれど、父の姿はもうどこにもなかった。
ただ胸の奥には確かな温もりと、懐中時計の針の音だけが残されていた。
アオイナは家に戻り、炉の前に座る母の隣に腰を下ろした。
懐中時計は胸元で小さく時を刻み続けている。
母が気づいて、静かに尋ねた。
「……どうしたの、アオイナ。泣いていたの?」
アオイナは首を振った。
頬にはまだ涙の跡が残っていたが、瞳は澄んでいた。
「ううん……母さんに伝えたいことがあるの」
母は首を傾げ、娘を見つめる。
アオイナは動き出した時計を握りしめ、微笑んだ。
「——父さんはね。頼り甲斐があって、優しくて、勇気のある人だったよ」
母の目が揺れる。
次の瞬間、堪えていた涙が頬を伝った。
「……そう。やっぱり、あの人は……そうだったね。……私も、もう一度会いたかった」
アオイナは頷き、母の肩に寄り添った。
二人の間に、炉の炎が柔らかく揺れていた。
懐中時計の針は、止まることなく刻み続けていた。
それは確かに、父の勇気が受け継がれた証だった。