第5話 異界への扉
観察者の声が、低く響いた。
「次に観測するのは、凡人とエルフの間に生まれた娘。
父を知らずに育った彼女アオイナは、残された言葉と影を追おうとしている」
母は火を灯した炉の前で、静かに髪を梳いていた。
アオイナは膝を抱えて、その横顔を見つめていた。
「ねえ、母さん。父さんって……どんな人だったの?」
問いかけに、母は少し目を伏せ、炎を映した瞳を細めた。
「……頼りない人だったよ。剣も魔法も使えない。ただの人間だった」
アオイナは唇を噛んだ。
胸の奥で、父の姿を思い描こうとした。
けれど浮かぶのは母の言葉だけ。
「それじゃ、どうして母さんを守れたの?」
母は柔らかく笑った。
「勇気ってね、強さとは違うの。弱い人が、それでも誰かのために立つこと……あの人は、そういう人だった」
母の手が棚の奥を探り、小さな箱を取り出す。
中には古びた懐中時計が収められていた。
銀の縁は擦れて光を失い、針は止まったままだ。
「これを持っていなさい。父さんが若い頃から肌身離さず持っていたもの。……でもね、もう動かないの」
アオイナはそれを両手で受け取った。
冷たい重みが、胸の奥に沈む。
「どうして止まったままなの?」
「きっと……あの人の時間が終わったから」
その声は淡々としていた。
だが瞳の奥には、深い哀しみが沈んでいた。
アオイナは唇を噛み、拳を握った。
「……そんなの、嫌だ」
母は首を振る。
「私もそう思った。でも、彼が残してくれたものがある。私を守ってくれたこと。あなたをこの世に託してくれたこと。それがすべて」
夜が更ける。炉の火が小さくなる頃、母はアオイナを抱き寄せ、髪に口づけた。
「会いたいな……父さんに」
その言葉は静かに宙に溶けた。
夜明け前、家の裏手にある石畳の広場。
アオイナはひとり立っていた。
白い息を吐きながら、止まった時計を強く握る。
「……父さんの生まれ育った世界を見てみたい」
小さく呟き、石畳に指で〇を描いた。
母から聞いた伝承——命の危機に瀕した時、異界の扉が開き、異なる世界へ。父はこの世界へ、そうやってやってきた。
「それならわたしだって行けるかも…」
母から聞いた話にすがるように、アオイナは挑戦を始めた。
「火に飛び込めば……開くかもしれない!」
アオイナは焚き火に手を突っ込んだ。
「ぎゃあっっつ!!」
指先をじゅっと焦がし、涙目で転げ回る。
…もちろん、狭間は開かない。
「なら、この毒草を食べれば……」
青黒い草を口に入れた瞬間——
「おえええええ!!!ムリムリムリ!」
盛大に吐き戻し、地面にうずくまる。
——やはり、異界の扉は開かない。
「じゃあ……高い所から逆さまに落ちれば!」
近くの崖に逆立ちして挑むアオイナ。
バランスを崩し、
「ひゃあああああ!!」
……泥だらけでずっこけただけ。どこにも開いた扉は見当たらない。
「どうして……どうして動かないの!」
アオイナは時計を振り回し、涙声で叫んだ。
「父さんの世界に連れてってよ!!」
返事はない。
ただ時計の針は沈黙したまま。
歯を食いしばり、彼女は立ち上がる。
「……もう、これしかない」
夜明け、滝壺に立つアオイナ。
「……本当にやるつもりなのか……? いや、まさか」
まだ観察者の声は冷静を装っていたが、その響きにはかすかな動揺が滲んでいた。
轟音と水煙の中で、拳を握る。息は白く、手は震えていたが、瞳は強い光を宿していた。
「…たとえ亡くなっていても。…私は、父さんをもっと知りたい!」
足を踏み出した、その瞬間。
「やめろ! それ以上は取り返しがつかない!」
今まで冷ややかに記録するだけだった観察者が、思わず声を張り上げた。
その声には焦りと——確かな恐怖が混じっていた。
ざわり、と世界が揺れる。空気がざらつき、光が滲む。
「……悪い子だね」
低く甘やかな声が響いた。観察者を嗤うような声音。
「記録者が情で介入するなんて、規範違反だよ。——なら、僕から“サービス”してあげよう」
言葉と同時に、石畳に黒い亀裂が走った。光の糸が漏れ、空気そのものが悲鳴を上げる。
亀裂は渦を巻き、眩い白光がアオイナを包み込んだ。
「っ……う、うあああああッ!」
観察者の声が掻き消される中、彼女は光に呑まれ、落ちていった。