第4話 その印は、共にいる
暮れかけた空に、不意に黒煙が立ちのぼった。
遠くの市場から、ざわめきが波のように押し寄せる。
「火だ! 火が出たぞ!」
「水を! 早く水を!」
叫びが街を駆け抜ける。
振り返った時、赤い舌が屋根を舐めていた。
乾いた木材が爆ぜ、炎は風に煽られて次々と家々へ飛び移る。
「嘘……」
足が竦んだ。
せっかく根を張ろうと決めた場所が、瞬く間に火に呑まれていく。
人々の叫びが渦を巻いた。
隣の屋台の老婆が桶を持ち上げるが、震える腕から水がこぼれ落ちる。
泣き叫ぶ子どもを抱いた母親が、橋を渡ろうとして人波に押され、転びそうになった。
果実を抱えた商人は荷を守ろうとするが、炎に追われ、山のように積んだ実が川に転がり落ちる。
「水だ! 水を運べ!」
市場の人々は必死に桶を回し、川から水を汲む。
だが炎は大河のように広がり、止める術を持たなかった。
観察者が囁く。
「人の営みは、火一つで崩れ去る。帳簿に記す間もなく」
咽せる煙に目を潤ませながら、私は必死に周囲を見渡した。
その時だった。
炎が轟き、空気が震えた瞬間…
水路から吹き上がるように、雨が降り始めた。
最初は霧のような細かな滴。
やがて大粒となり、炎を打ち据える。
赤は黒に変わり、煙が空へ逃げていく。
「……雨だ」
私の頬も濡れていた。
涙か雨か分からなかった。
火が鎮まる中、水路の向こう岸に「幻影のような女性」が立っていた。
波間の幻影のように、白光を帯びた輪郭。
炎に照らされながらも、彼女は穏やかに手を伸ばし、空に大きな「〇」を描いた。
その動きはゆるやかで、揺るぎない。
胸が跳ねた。
あの浜で交わした印。
…そう、わたしはあの女性を知っている。
震える指で、私は歪んだ「〇」を描き返した。
線は震え、形も不格好だった。
けれど確かに「〇」だった。
幻想的な慈悲に溢れる女性は微笑んだ。
その姿は雨に溶け、やがて水煙と共に消えていった。
残されたのは、濡れた石畳と、心臓の奥に残る鼓動だけ。
観察者が静かに囁く。
「彼女は気づかぬままに印を返した。
その意味を知るのは、まだ先のことだ」
雨に洗われた街は、静まり返っていた。
石畳には水が流れ、黒く煤けた壁の間に人々のすすり泣きが響く。
私は濡れた髪を押さえながら、水路の向こうを見つめた。
さっきまで潮の人の幻影が立っていた場所。
だが今はもう、雨粒だけが波紋を刻んでいる。
背後で、低い声が響いた。
「お前も……見たのか」
振り返ると、褐色の肌に青い刺青を刻んだ男が立っていた。
肩から下げた布は雨で重く濡れ、顔に深い皺が刻まれている。
その後ろに、同じ刺青を持つ数人がひざまずいていた。
私は息を呑んだ。
「あなたたちは……」
彼らは答えなかった。
代わりに、胸の前で静かに手を広げ、空に「〇」を描く。
円は揺るぎなく、雨粒の中に残像を残した。
「……その印」
声が震えた。
「私は……あの浜で……」
男はゆっくりと頷いた。
「それは“共にいる”の印だ」
胸を突かれるようだった。
私が必死に「均等」として刻み続けた〇。
在庫を分け、孤独に耐えるための目印。
だが彼らにとっては違った。
「共に在る者は、決して孤独ではない」
老いた声が、雨の中に沁み渡る。
「我らは潮の人の血を継ぐ者。祈りと共に生き、祈りと共に死ぬ」
私は息を呑み、手を胸の前に上げた。
震える指で〇を描く。
それは不格好だったが、彼らは深く頭を垂れ、祈るように受け止めた。
観察者が囁く。
「彼女は知った。
均等の印が、孤独を越えて“共にいる”ことを示すと」
一瞬、声が途切れた。
そして低く、微かな変化を孕んで続いた。
「……人は、道具なくとも生きられるのかもしれぬ」
胸の奥に、熱が広がった。
孤独ではなかった。
あの浜の記録も、この世界の祈りも、一つの円で繋がっていた。
…私はまだ、生きていける。