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第3話 光の先、新しい世界

「次は、異なる星からこの世界へ落ちるまでの狭間で、乾きと狂気に苦しみ、全てを失った女の話だ。彼女は生きる為に書き続けた帳を封じられ、なお生き延びた。壊れることなく、この世界で生きていけるのか。…観察する価値がある。」


光に呑まれたあと、私は目を開けた。

そこにあったのは、見たことのない空。

砂でも海でもない、乾いた大地。

あの狂った星図の夜は、もうどこにもなかった。


腰に手をやる。……何もない。

帳は消えていた。

かつて私を生かし、狂わせ、最後に封じられた在庫帳は、どこにもない。


観察者の声が、頭の奥に響いた。

「彼女は帳を失った。人は道具なくして生きられぬ」


私は拳を握りしめた。

その震えは恐怖か、悔恨か。

指先は勝手に空をなぞっていた。

一、二、三……数を刻むように。だが記す帳がない。


胸が焼ける。喉が渇き、舌が張りつく。

思わず砂を掬い、口に入れた。乾いたざらつきが舌を裂き、咽せた。

水がない。食もない。

残されたのは、この細い体と、帰れぬ孤独だけ。


それでも私は立ち上がった。

歩かなければ、あの浜で死んだ自分に負けるから。


足を一歩、また一歩。

その度に、指先が数を刻む。石三つ、水一口。

在庫帳は消えても、数える癖は生きている。


「帳は……道具じゃない」

枯れた声で、私は呟いた。


観察者の声が冷ややかにかぶさる。

「錯覚だ。習慣にすがっているだけにすぎぬ」


それでも私は歩いた。

ただ歩いた。

数を数えることでしか、生き延びられないと知っていたから。


太陽は容赦なく頭上にあった。

影は短く、空気は乾き切っている。

唇はひび割れ、皮膚は砂に削られる。


喉が焼ける。

指先が震える。

砂を掬い、口に入れた。

ざらつきが舌を裂き、血の味が広がる。

咽せ、吐き出す。

……それでも私は数えた。


一掬い。

二掬い。

三掬い。

砂は喉を潤さない。

けれど数えることで、私は生き延びている気がした。


「錯覚だ」

観察者の声が響く。

「帳は封じられた。お前がやっているのは、亡霊に縋ることにすぎぬ」


私は首を振った。

視界が揺れ、体がふらつく。

それでも、息を吸って、吐いた。


一。

二。

三。


呼吸を数える。

鼓動を数える。

指が震えながら、砂の上に小石を並べる。


「……帳は道具じゃない」

声は掠れていた。

だが確かに、私の意志だった。


夜が来た。

星は見えない。闇がすべてを覆う。

冷気が肌を裂くように突き刺さる。

火は起こせず、ただ体を抱きしめて震えるしかない。


それでも私は数えた。

呼吸一つ、鼓動一つ。

そのたびに「まだ生きている」と確かめる。


枯れ果てた胸の奥に、小さな灯が残っていた。

それは炎ではなく、数えることそのものだった。


「在庫帳はなくても……私は記せる」


声は夜に溶けた。

だが確かに、自分の中で響いていた。


乾いた大地を歩き続け、三日目の朝。

視界の端に揺れるものを見た。

…車輪だった。


木製の荷車が、一頭の馬に引かれて進んでくる。

油で黒ずんだ布が荷を覆い、御者台に腰を下ろした男が、片目を細めてこちらを見た。


「おい、そこの嬢ちゃん。死にかけか?」


声は乾いていた。

だが腰から下げた水袋が、陽光を受けて眩しく揺れていた。


「わたしはナディア。水が欲しい」


喉が勝手に鳴る。

体が欲望に引きずられそうになる。

だが次の言葉が、それを縛った。


「ただじゃねえ。対価を出せ」


私は足元の石を握りしめた。

三つ。形の揃った小石。

思いを侍らせ磨き続けた、たわいもないただの石。

それを両手に乗せ、差し出す。


男は一瞥し、鼻で笑った。

「ほう……数を揃えやがったか。妙に筋がいい」


彼は袋を投げ渡してきた。

水は命だった。

喉を潤す。体の奥にまで染みわたる。

涙が溢れそうになった。


「お前、取引を知ってるな」

男が言った。

「……取引?」

「そうだ。物と物を比べ、数で釣り合わせる。それが商いの始まりだ」


その言葉が胸を刺した。

在庫帳を失っても、私は「等価」を探していた。

それが…生き延びるための新しい帳。


観察者が低く囁く。

「帳は形を変える。人が生きようとする限り、記録は消えぬ」


荷車に揺られ、道を進む。

やがて遠くに、輝く都が見えた。

無数の水路が街を縫い、石橋が架かり、屋根瓦が陽光を弾く。


「ここなら商いができる」

行商人が呟いた。

「水の都は交易の中心だ。生き延びたいなら、ここに根を張れ」


私は頷いた。

手の中にはまだ三つの石。

荷車の中で加工したお守り。

それが、在庫帳の代わりに私を支えていた。


水路の街は、思っていた以上に喧噪に満ちていた。

小舟が絶え間なく往来し、橋の上では商人たちが声を張り上げる。

香辛料の匂い、果実の甘さ、干物の塩気が入り混じり、鼻腔を刺激する。


「数を揃えろ、対価を示せ!」

あちこちで声が飛び交う。

水路を渡るたび、取引の声が響き、銀貨や銅貨が音を立てた。


私は立ち尽くしていた。

胸の中で、石の重みを思い出す。

震える指で三つのお守りを台に置いた。


「……この果実、一つと交換してほしい」


店主は怪訝そうにこちらを見た。

だがやがて、くっと笑い、果実を差し出す。

「なるほど。ガキの工作だが心はこもってる。気に入った、持ってけ」


果実は重かった。

その重みは数字ではなく、生きている証のようだった。

胸の奥がじんわりと熱くなる。


観察者が囁く。

「帳は失われたのではない。形を変えて受け継がれたのだ」


市場を抜け、水路の縁に腰を下ろす。

川面は夕陽を映し、赤と金に揺れていた。

果実の甘い香りが、未来を示す印のように漂う。


ふと、背筋に気配を感じた。

視線を上げる。

水路の向こうに、褐色の肌を持つ人々が立っていた。

青い刺青が水面に揺れ、無言のまま、こちらを見つめている。


私は息を呑んだ。

「……誰?」


問いかけても返事はない。

彼らはただ静かに頭を垂れ、祈るように手を重ねた。

その姿は、水音に溶けて消える。


「潮の一族さ。さっき祈ってただろ? 昔は雨を呼んだって伝説があるが……今じゃ奴隷同然だ。海に縋って生きてる連中だよ」気怠そうに呟く店主。


残されたのは、果実の甘さと、胸の奥に残るざわめきだけだった。

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