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ただ神は見ているだけ  作者: kuro
二章
39/40

第38話 赦しの残響

夜明けの街は、まるで息を潜めていた。

灰が風に舞い、焦げた木々が黒い影を伸ばしている。

昨日の炎が嘘のように消え、ただ冷たい空気だけが残っていた。


アオイナは、割れた石の上で目を覚ました。

耳の奥がじんじんと痛む。

世界が少し歪んで見え、音が遠い。

巻き戻しの余波…それが彼女の体を蝕んでいた。


カルディスは傍らに座り、煤けた手帳を開いていた。

彼の指は一度、筆を取るが、すぐに止まる。

ゆっくりと紙を破り、掌の中で握りつぶした。


「記すことは、今は違う……」

低い声が灰の風に溶ける。

その声音には、観察者だった頃の冷たさはなかった。


トオヤが駆け寄り、焦ったようにアオイナを覗き込む。

「なぁ、だいじょうぶなのかよ!? 耳、血が出てんぞ!」

アオイナは笑ってみせた。

「だいじょうぶ。……ちょっと、時間の音を聞きすぎただけ」


燈子が包帯を取り出し、手早く巻く。

「これ以上、巻き戻しは使っちゃだめ。あなたの体が“時間”に削られてる」

その声には怒りよりも、哀しみが滲んでいた。


アオイナは黙って頷く。

でも、その指先はまだ震えていた。

助けられなかった人々の顔が、何度も脳裏を過ぎる。


「……それでも、誰かを救えたなら」

呟くように言った彼女の声を、カルディスが遮った。

「救いは、命を削ってまで行うものじゃない」

灰を踏みしめ、彼は立ち上がる。

「代償を払うたびに世界が救われるなら、

この街はとうに神の国になっていたはずだ」


アオイナは息を呑み、目を伏せた。

カルディスの声は厳しかったが、その背中には痛みが滲んでいた。


そのとき…

焼けた壁の陰から、かすれた声がした。


「……理屈は立派だが、まずは立てる奴から立つことだな」


一行が振り向く。

煙の向こうに、右腕を吊った男が立っていた。

焦げた外套。片手に折れた杖。

それでも、笑っていた。


「ガロウ……!」

燈子が目を見開く。


彼は煤けた顔をしかめながら、

「ちょっとな。火の中で昔の借りを返してた」とだけ言った。

何の説明もない。だがそれで十分だった。


カルディスが目を細める。

「……お前は、また立ったんだな」

ガロウは口角を上げた。

「立たなきゃ、灰になっちまうからな」


静かな笑いが、崩れかけた街に響く。

その声は、炎に焼かれた街の中で唯一“生きている”音だった。



灰の風が止んだ。

街を覆っていた煙は薄れ、光の筋が瓦礫の隙間から差し込んでいた。


アオイナは燈子に寄り添われながら眠っている。

その手を握るカルディスの指は、ゆっくりと震えていた。


「……止めたのに、救えなかった」

呟きは誰に向けたものでもない。

焦げた手帳を開き、破ったはずの紙をもう一度取り出す。

灰まみれの文字が滲んでいた。


燈子が静かに言った。

「あなたが止めたから、アオイナは生きてる。それが“赦し”なんじゃないの?」


カルディスはかぶりを振る。

「赦しは……与えることだと思っていた。けれど今は違う。彼女は、自分を削って他人を残した。それは救いじゃない。……罪の延命だ」


燈子は、灰の上にしゃがみ込み、カルディスの手に自分の手を重ねた。

「それでも、アオイナは笑ってた。笑えるなら、それはもう、救われたってことだよ」


カルディスは黙って彼女の瞳を見た。

そこに、炎の中でも消えなかった光があった。

「……お前は、強いな」


「違うよ。まだ怖い。でもね、怖いからこそ、人を赦したいと思えるの」


その言葉に、静かに足音が混じる。

焼けた瓦礫を踏みしめ、ガロウが近づいてきた。


「理屈を言う余裕があるうちは、まだ人間だ。灰になっても、喋れるうちは生きてる証拠だろ」


彼は腰を下ろし、欠けた杖を地面に突き立てた。

焦げた外套の隙間から覗く腕には、まだ火傷の痕が残っている。


カルディスが目を細める。

「……また立ったな」

「立たなきゃ、灰の下で終わっちまう」

ガロウは笑う。

その笑みは痛みを抱えながらも、確かに“生きていた”。


燈子はふっと微笑んだ。

「ガロウさん、やっぱり言うことが違うね」

「褒め言葉ならありがたく受け取るさ。俺は救いも祈りも分からねぇけど…倒れたままじゃ、何も見えねぇ」


カルディスはその言葉に、微かに息を吐いた。

「……観察者も、かつてそう言ったかもしれないな」


「だったら、見とけよ。まだ灰の中に、立つ奴らがいるってことを」



静寂が落ちる。

その沈黙の中で、カルディスは破れた紙を見つめた。


カルディスは破れた紙を見つめた。

光が紙の線を這い、文字が淡く浮かび上がる。

まるで灰が記憶を再び描こうとしているようだった。


「……観察は、終わっていないのか」

呟く声に、燈子が微笑んだ。

「終わらせたくないんでしょ? それなら、続けて」


カルディスは筆を取る。

だがその筆は、記録ではなく“祈り”を綴るためのものだった。


《赦しは罰ではなく、記録でもない。それは、もう一度生きるための選択だ。》


紙の上でインクが震える。

その瞬間、空気が微かに揺れた。


アオイナのまぶたが動く。

燈子が息を呑む。

カルディスが目を上げる。


空の高みから、どこかで声がした。


「次に裁かれるのは、観察を赦した者……」


ルシオンの声。

遠くから響くその残響は、空気そのものを濁らせていた。


灰が再び舞い上がる。

ひとひら、ふたひら…

やがて、それらは円を描くように落ちていった。


燈子がそれを見上げ、呟く。

「……この印、また誰かが見てる」


カルディスは筆を止め、空を見上げた。

「なら、今度は俺たちが“見る”番だ」


風が吹いた。

灰の円がほどけ、朝の光が街を照らした。

その光は冷たくも温かく、

誰もが少しだけ息を整えられるほどの優しさを帯びていた。


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