第36話 声の根(ね)
夜のルメリアは、昼よりも静かだった。
それでも、地の底からは微かな祈りの音が響いていた。
カチ、カチリ……札を刻む歯車の音。
それが絶え間なく街を包み、まるで心臓の鼓動のように続いている。
カルディスは耳を澄ませた。
「音が下から上へ……いや、違う。これは数える音だ」
足元に広がる石畳は温かく、そこからわずかに魔力の流れを感じる。
祈りが通貨のように循環しているのだ。
「この街は、信仰を燃料に動いている」
カルディスの言葉に、アオイナが頷いた。
「札の魔力が脈打ってる……どこかで全部、まとめて計算してるみたい」
トオヤが壁を叩いて耳を当てた。
「こっちだ。下に空洞がある」
彼の手には、昼間こっそり奪った善行庁の回収袋。
中には奉納札と一緒に、鍵束が紛れ込んでいた。
「善行ポイントのおまけつきだな」
燈子が思わず吹き出した。
「盗むのに善行って言葉使うの、やめなさいよ」
「善人の皮を被るのも、時には仕事だよ」
軽口で緊張がほどける。だが、空気は確実に重くなっていった。
古びた鉄扉に鍵を差し込むと、乾いた音がした。
ギィ、と扉が開く。
冷たい風と共に、地下へ続く螺旋階段が現れる。
その底からは、札の反射光が淡く漏れていた。
「行こう。観察のためじゃない、“確かめる”ために」
カルディスの声は低く、だが確固としていた。
彼の後ろ姿に、誰も異を唱えなかった。
階段を降りるにつれ、祈りの音が次第に明確になっていく。
「……善行一点、奉仕三点、偽善一点……」
どこからともなく、札を読み上げる声が流れてくる。
人の声ではない。魔力が反響して作り出した“声の合唱”だ。
アオイナが足を止める。
「声が……合ってる。全部、同じリズムで繰り返してる」
カルディスは目を閉じ、静かに分析した。
「ルシオンは“記録を祈りに変えた”んだ。札に記された行為を再生して、信仰の波を保つ仕組みだ」
「つまり……善行の札を焼かせるのも、声の燃料ってこと?」
燈子の問いに、カルディスは黙って頷いた。
善を記し、燃やし、祈る。
それを繰り返すことで、街全体の信仰を維持しているのだ。
やがて階段の終わりが見えた。
そこには巨大な空洞…まるで地下神殿のような回廊が広がっていた。
壁という壁に札が埋め込まれ、微かな光を放っている。
光は管のように繋がり、中央の円形穴へと流れ落ちていた。
「……ここが、声の根」
カルディスが呟く。
アオイナが唾を飲み込んだ。
「下、真っ暗……どこまで続いてるの?」
「底は見えない。たぶん、街のすべての札がここに集まってる」
カルディスの目に、微かに青い光が宿る。
その光は、観察者としての残滓。
人間になった今も、まだ消えきらない見る力だった。
風が吹き抜けた。
祈りの音と札の光が揺れ、壁の影が生き物のように蠢く。
トオヤが小声で呟く。
「これ……神殿ってより、牢獄だな」
カルディスは短く答えた。
「信仰とは、誰かを閉じ込めてこそ安定する。だが、その檻を作るのは神じゃない。人間だ」
地下回廊の中央に空いた円形の穴。
それは“記録の井戸”と呼ばれるにふさわしい深さだった。
下から、無数の声が泡のように湧き上がる。
善行、奉仕、懺悔、赦し。
それらが混ざり合い、黒い霧のように空へと昇っていく。
アオイナが身を乗り出した。
「……あの光、札が溶けてる。全部、祈りの波になって沈んでる」
燈子は拳を握る。
「この下に、神を名乗る声の根があるのね」
カルディスは静かに頷き、耳を傾けた。
低い唸り声が空気を震わせた。
《記せ。見たものを記せ。赦しとは罰だ。》
その響きは、観察者だった頃に聞いた残響と似ていた。
だが、どこか違う。
もっと粗雑で、感情に満ちている。
「ルシオン……お前は、観察の形を奪ったな」
カルディスが囁いた瞬間、壁の札が一斉に光を増した。
祈りの音が速まり、空間全体が脈打つ。
アオイナが焦り声を上げる。
「このままじゃ見つかる!」
「待て」
カルディスの目が細く光った。
「周期がある……声が一瞬止まる“間”が存在する。そこに割り込めば、声を壊さず干渉できる」
アオイナは息を呑んだ。
「……たった一拍だけ」
「その一拍で、ひとりを救う」
カルディスはポーチから古びた小札を取り出す。
それは旅の途中で、燈子が拾った“無名の祈り”の残片だった。
「これを使うの?」
燈子の問いに、カルディスは小さく頷く。
「観察のためではない。赦しのために」
彼は札を指先で挟み、静かに息を吐く。
祈りの波が一瞬だけ止む。
その間隙に、カルディスは言葉を落とした。
「見ることは、赦すことだ」
札が風にほどけ、光の欠片が井戸へ落ちていく。
その一拍——空気が変わった。
井戸から吹き上がる光が白く反転し、
壁の札のいくつかが、赤から無色へと変わった。
「……成功?」
アオイナが息を詰める。
「まだわからん」
カルディスの声が低く響く。
その瞬間、井戸の奥から逆流するように新たな声が重なった。
《異端の波形、検出。観察者の模倣、確認。》
トオヤが慌てて声を上げる。
「やべぇ、バレた!」
燈子が鎖を振る。壁際の札を叩き落とし、音の反響を乱す。
トオヤは袋から札束を投げ、紙吹雪のように散らす。
「目くらましだ!走れ!」
祈りの声が高鳴り、床が震えた。
ルシオンの声が、まるで生き物のように回廊を這う。
《観察者よ、名を告げよ。誰が赦しを偽った?》
カルディスは振り返らない。
「……名など、もう要らない」
一行は階段を駆け上がる。
背後で井戸が唸り、赤黒い光が天井を舐めた。
外に出る頃には、朝靄が街を包み始めていた。
鐘楼に吊られた旗が、ゆっくりと風に翻る。
《無名の異端、出現》
アオイナが息を整えながら呟いた。
「今の一拍、街が息をした……本当に止まったんだ」
燈子は微笑んだ。
「だったら、次はもっと長く止めてみよう」
トオヤが口笛を吹く。
「やれやれ、異端の旅も忙しいこった」
カルディスは掌を見つめた。
そこには、札の灰が一粒、温もりを残していた。
「観察は、罰の装置を止める手にもなり得る……」
風が吹き抜け、遠くでルシオンの声がまた囁く。
《赦しは欺きだ。記せ。記すことでしか、神は在れない。》
カルディスは顔を上げ、遠くの鐘楼を見つめた。
「……ならば、神のいない観察を見せてやろう」




