第35話 信仰の檻
祈りの鐘が鳴るたびに、人々は足を止め、天を仰いだ。
ルメリアの朝はいつも、その合図から始まる。
石畳の道を覆うほどの行列が、大聖堂の門へと続いていた。
誰もが手に札を握りしめている。そこには昨日の“善行”が刻まれ、奉納の順番を待つ。
その札は、神官の印章が押されて初めて“功績”として認められる。
つまりこの街では……祈りさえも審査対象だった。
「……みんな、点を稼ぐために祈ってるんだね」
列を横目にアオイナが呟いた。
その声はかすかに震えていた。
燈子は無言で頷き、長く息を吐いた。
「信仰が怖いのはね、誰かが正しい祈りを決めた瞬間なの。みんな、間違えるのが怖くて神に従う……そのくせ、自分より下を探すの」
トオヤが唇を尖らせる。
「……オレ、こういう街じゃ秒で減点されるな。義賊ポイントとか、ねぇのかよ」
燈子が小さく笑ったが、その目は冷たい灰のようだった。
カルディスは静かに周囲を観察していた。
祈りの列の中には、笑う者もいれば泣く者もいた。
だが、どの顔にも共通する影がある…恐怖だ。
「この街では、信じない自由が最も重い罪らしいな」
そう呟くと、トオヤが眉をひそめた。
「信じるも信じねぇも自由じゃないの? だってさぁ〜……」
カルディスは首を振った。
「信仰が競技になったとき、それはもう救いではない。記録が祈りを測り出す時点で、人は神より数字を見るようになる」
アオイナが札を凝視した。
「……この札、ただの記録じゃない。何か……繋がってる。魔力の線が見えるの」
燈子が顔を上げた。
「信仰が“魔術”に変わってるってこと?」
カルディスの瞳がわずかに動いた。
「信仰も記録も、形を変えれば同じだ。見られることに縛られ、許されることに依存する。……神がいないのに、神の目だけが残った」
その言葉のあと、街の奥で低い鐘が鳴った。
群衆が一斉にひれ伏す。
「始まるぞ。奉納審問だ」
灰色の法衣を纏った神官たちが大聖堂から現れ、
広場の中央に金の笏を立てた。
その笏の上で光が揺らぎ、やがて“声”が降ってきた。
《善を偽る者は、塵と化せ。》
その瞬間、空気が震えた。
人々は地に伏し、泣きながら赦しを乞う。
トオヤが反射的に耳を塞ぐ。
「な、なんだよこれ……声が、頭の中に……!」
カルディスの表情が険しくなる。
「……ルシオン」
燈子が息を呑んだ。
「やっぱり……この声、間違いない」
その“声”は、彼女にとって処刑台の記憶そのものだった。
燃え盛る炎、群衆の熱狂、そして「偽りの聖女を焼け」という断罪。
…今また、同じ言葉が繰り返されていた。
《善を偽る者は、塵と化せ。》
声は祈りと共鳴し、街全体を包み込む。
カルディスは耳を押さえ、静かに吐き捨てた。
「記録を裁きに変えたのは、あいつだ。神の名を借りて、人を管理する……狂気の信仰国家だ」
アオイナの視線が揺れる。
「止められないの? この声……」
「今は無理だ」
カルディスの声は低かった。
「あの声に抗えば、民が敵になる。だが…いつかは、真実を曝く」
燈子は空を見上げた。
曇天の向こうに、見えない神の瞳がこちらを覗いている気がした。
広場の中心では、ひとりの男が引きずり出されていた。
手には半ば破れた札…「奉仕五点・偽善一点」と記された“善行票”。
周囲の神官が金属棒を掲げ、淡い光を纏わせる。
「神は見ていた。お前は与えるふりをして奪った」
その声を合図に、光が男の足元を這った。
魔法陣のように地面が発光し、熱を帯びていく。
悲鳴。祈り。群衆の涙。
誰も止めようとはしない。
彼らは皆、次に裁かれる側に回ることを恐れていた。
アオイナが震える手で口を覆った。
「これが……神の罰?」
カルディスは首を振った。
「違う。これは人間が作った罰の形だ。神は何も語らない。語るのは、恐怖を売る者だ」
彼は拳を握り、わずかに爪が掌を裂いた。
熱と血の感触が、かつての観察者としての“無力”を思い出させた。
燈子が一歩、前に出た。
「……ねぇ、カルディス。もし私があの時、火刑で死んでたら、この街の人たちは救われたのかな」
カルディスは答えなかった。
ただ、静かに灰の舞う空を見つめた。
その灰は、まるで神の涙のように降り注いでいた。
トオヤが唇を噛みしめる。
「ふざけんなよ……あんなの、ただの見せもんじゃねぇか」
「そうだ。恐怖を見せて、信仰を繋ぎ止めている」
カルディスの声は冷たく落ち着いていたが、
胸の奥では何かが焼けるように疼いていた。
…観察するだけでは、届かない。
彼の中で、微かな決意が生まれ始めていた。
その時だった。
空を切り裂くような“光の声”が再び響いた。
《善を偽る者は、まだこの中にいる》
群衆がざわめき、視線が交錯する。
誰かを指差す手。誰かの震える背。
信仰が恐怖に転じ、祈りが武器になる。
燈子が思わず呟いた。
「……あの声がある限り、誰も救われない」
カルディスは目を細めた。
「なら、まず見る者を見破らねばならない」
彼の瞳に、観察者だった頃の光が一瞬だけ戻る。
灰の中で、鈍く青い魔力が揺らめいた。
アオイナがその光を見て息を呑む。
「……それ、カルディスさん……!」
「まだ完全には消えていない。観察の残滓だ。奴の声が、どこから流れているのか…見えるかもしれない」
彼は目を閉じた。
光が視界に広がり、街の上空を網のように覆う魔力の線が浮かび上がる。
大聖堂の尖塔、鐘楼、そして中央の天蓋。
そこから、幾つもの光の糸が空へと伸びていた。
「……この声は、上から降ってきてるんじゃない。下から、増幅されてるんだ」
カルディスは息を吐き、目を開いた。
「ルシオン……貴様は、神を語るために“声を作った”のか」
遠くの天蓋が光を放ち、街全体が微かに震えた。
それはまるで、カルディスの名を嗤うかのようだった。
…《神は見ている》
ルシオンの声が再び空を満たす。
群衆は歓喜と恐怖の入り混じった声を上げ、
その場に膝をついた。
燈子が小さく呟く。
「……狂ってる」
カルディスは灰を掬い上げた。
「いや。狂っているのは、信じることを手放せない人間の方だ。だからこそ、俺たちは……」
灰が指の隙間から零れ落ちた。
その向こうで、夕陽が鈍く街を照らす。
赤い光がまるで血潮のように壁面を染めた。
「…信じるに値する理性を見せる」
彼の言葉に、誰も答えなかった。
ただ、風が吹き抜けた。
灰と血と祈りの匂いを運ぶその風の中で、
カルディスの影が、ゆっくりと夜に溶けていった。




