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ただ神は見ているだけ  作者: kuro
二章
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第34話 善行の値段

朝靄が街を覆っていた。

白い煙のような祈りが、家々の屋根からゆらゆらと昇っていく。

煙のひと筋ひと筋が、人の善行を記す“証”だという。


「……おかしい」

アオイナが囁いた。

「この街の人たち、ずっと筆を動かしてる。寝ても覚めても……」


カルディスは静かに頷いた。

「彼らにとって、書くことが祈りなんだ。善行を記録すれば天に昇れる。記さなければ“存在しない者”と見なされる」


トオヤが顔をしかめた。

「そんなバカな……字が書けねぇ奴はどうすんだよ」


「代筆屋がいるさ」

ガロウが苦く笑う。

「書けない奴の祈りを“代筆”する。もちろん報酬は善行札で。つまり、善を買うんだ」


その言葉にアオイナが息を呑む。

「……善が、取引されてる」


カルディスは眉を寄せた。

「善が通貨になる時、人は罰を欲しがる。清算される安心にすがるんだ」


通りの角で、鐘が鳴った。

人々が一斉に筆を止め、頭を垂れる。


その瞬間…

空気が、震えた。


《善行を記せ。偽りの者は塵と化せ。》


声だった。

どこからともなく降る。

耳ではなく、骨の奥に響く声。


燈子が顔を上げた。

「……ルシオン?」


その名を口にした瞬間、彼女の肩が震えた。

あの炎の匂い、あの叫び…すべてが記憶の底から甦る。



カルディスの瞳が細く光る。

「“神の声”として、まだ生きているらしいな」


《記されぬ善は、悪に等しい。書かぬ者、祈らぬ者、報いを受けよ。》


街中の人々が同時に動いた。

筆を取り、羊皮紙を広げ、震える手で書き始める。

隣人の行い、家族の言葉、自分の罪と善。

すべてを帳簿に並べて、互いに監視し合う。


広場に立つ神官が声を張る。

「記録を怠る者は、信仰を欠く者!書け! 書け! 神は見ておられるぞ!」


トオヤが堪らず叫ぶ。

「見てねぇよ! 神なんかどこにもいねぇだろ!」


その叫びに、周囲の視線が突き刺さった。

老女が震える声で言う。

「見ておられる……あなたの中にも……」


トオヤの肩が固まる。

その背後で、札が一枚、赤く光った。


《偽りの者、露わとなれ。》


風がざわめき、札の鎖が鳴る。

次の瞬間、赤い光がトオヤの胸元をかすめた。


カルディスが腕を伸ばし、間一髪で彼を引き寄せる。

地面に叩きつけられた札が、灰のように崩れた。


アオイナが駆け寄り、震える声で問う。

「今の……罰? 本当に神がやったの……?」


カルディスは答えず、空を見上げた。

白靄の中に、微かに揺れる文字が見えた。


《帳簿は神に通ず》


誰かが、空そのものを記録板にしていた。

それを操る“声”が、今もこの国を覆っている。


「……ルシオン。君は“観察”を、裁きに変えたんだな」


彼の声は、風に消えた祈りよりも静かだった。



通りを吹き抜ける風が、灰の匂いを運んでいた。

崩れた札の残骸が路面を舞い、人々は息を潜めて見つめている。


アオイナが唇を噛んだ。

「……これ、全部“善行の帳簿”と繋がってる。誰かが嘘をついたり、祈りを怠ったりすると、赤札がそれを検出して燃える……」


「つまり、罰が自動で降るってわけか」

ガロウが唸った。

「まるで神様の監視システムだな」


カルディスはしゃがみ込み、灰を指で摘んだ。

粒は細かく、光を反射していた。

「……灰の成分に、金属片が混ざっている。これは焼けた紙ではない。人間の欠片だ」


アオイナが顔を上げる。

「まさか……人が、帳簿と一体化してるの?」


カルディスは頷いた。

「ルメリアの信徒は信仰の印として、生まれた時に名前を帳簿に記される。それは観察の模倣だ。観察を失った世界が、記録で神を再現しようとしている」


トオヤが震える拳を握った。

「そんなもん、神でもなんでもねぇ!」


だがその瞬間、空から再び声が降った。


《帳簿に逆らう者、記録を剥奪せよ》


街全体がざわめいた。

人々が一斉に筆を止め、トオヤに視線を向ける。

その瞳の奥に、信仰ではなく恐怖が宿っている。


アオイナがとっさに彼の前に立った。

「やめて! この子は何もしてない!」


彼女の掌から淡い光がこぼれた。

時間が、一瞬だけ巻き戻る。

群衆の視線が数秒前に戻り、トオヤを見失う。


「……間に合った」


だがカルディスの眉がわずかに動いた。

「アオイナ、その力を多用するな。時間の再演は、帳簿にも記録される」


「えっ……?」


そのとき、空に浮かぶ帳簿の文字が、ゆっくりと変化した。


《時を弄ぶ者、神の権能に手を伸ばす者》


アオイナの足元に、淡い光の輪が広がる。

空間が歪み、彼女の身体が吸い込まれるように揺らいだ。


「アオイナ!」


カルディスが彼女を抱き寄せ、光の中心に手を差し入れる。

彼の掌が焼けるように熱くなり、白煙が立ち上った。


「……記録を上書きしている。ルシオンは神の帳簿を操作して、現実を書き換えている」


《神は見ている。神は記す。神は裁く。》


声が低く響き、空の帳簿が一斉に赤く染まった。

街中の札が光を放ち、無数の線が天へ伸びる。

祈りではなく、監視の線。


カルディスは立ち上がり、声を張った。

「観察は、罰ではない! 見ることは、赦すことだ!」


しかし群衆は耳を貸さない。

彼らにとって、赦しは帳簿に書かれることでしかなかった。


アオイナが震える声で囁く。

「カルディスさん……もう、この国……」


「まだだ」


カルディスの瞳がわずかに光を帯びた。

その瞳には、もはや“観察者の残響”が宿っている。


「彼らが神を偽るなら……私は、人間として観察する」


風が止まり、灰が舞い上がる。

その灰のひと粒ひと粒が、まるで彼の意思に呼応するように揺れた。


《邪神…いや、元観察者、現れたか》


声が再び降る。

しかし今度は街全体ではなく、カルディスの胸の奥で響いた。


それは、かつてのルシオンの声。

人間だった頃の、僅かな記憶の残滓。


「カルディス……お前が神を見捨てたのだ」


カルディスは目を閉じ、静かに答えた。

「いや。神を信じた人間を、見捨てたのはお前だ」


空の帳簿が、一瞬だけ途切れた。

街に沈黙が訪れる。


風が戻り、灰が静かに地面へ降った。


アオイナが息を詰め、トオヤが拳を握る。

燈子は、灰の降る空を見上げていた。

その瞳に映るのは、炎ではなく…赦しの光。


カルディスは一歩前に出て、燃え尽きた帳簿の灰を拾い上げた。


「この灰は、まだ温かい。ならば……観察は、終わっていない」


彼の言葉が、祈りよりも確かな響きを残した。

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