第34話 善行の値段
朝靄が街を覆っていた。
白い煙のような祈りが、家々の屋根からゆらゆらと昇っていく。
煙のひと筋ひと筋が、人の善行を記す“証”だという。
「……おかしい」
アオイナが囁いた。
「この街の人たち、ずっと筆を動かしてる。寝ても覚めても……」
カルディスは静かに頷いた。
「彼らにとって、書くことが祈りなんだ。善行を記録すれば天に昇れる。記さなければ“存在しない者”と見なされる」
トオヤが顔をしかめた。
「そんなバカな……字が書けねぇ奴はどうすんだよ」
「代筆屋がいるさ」
ガロウが苦く笑う。
「書けない奴の祈りを“代筆”する。もちろん報酬は善行札で。つまり、善を買うんだ」
その言葉にアオイナが息を呑む。
「……善が、取引されてる」
カルディスは眉を寄せた。
「善が通貨になる時、人は罰を欲しがる。清算される安心にすがるんだ」
通りの角で、鐘が鳴った。
人々が一斉に筆を止め、頭を垂れる。
その瞬間…
空気が、震えた。
《善行を記せ。偽りの者は塵と化せ。》
声だった。
どこからともなく降る。
耳ではなく、骨の奥に響く声。
燈子が顔を上げた。
「……ルシオン?」
その名を口にした瞬間、彼女の肩が震えた。
あの炎の匂い、あの叫び…すべてが記憶の底から甦る。
カルディスの瞳が細く光る。
「“神の声”として、まだ生きているらしいな」
《記されぬ善は、悪に等しい。書かぬ者、祈らぬ者、報いを受けよ。》
街中の人々が同時に動いた。
筆を取り、羊皮紙を広げ、震える手で書き始める。
隣人の行い、家族の言葉、自分の罪と善。
すべてを帳簿に並べて、互いに監視し合う。
広場に立つ神官が声を張る。
「記録を怠る者は、信仰を欠く者!書け! 書け! 神は見ておられるぞ!」
トオヤが堪らず叫ぶ。
「見てねぇよ! 神なんかどこにもいねぇだろ!」
その叫びに、周囲の視線が突き刺さった。
老女が震える声で言う。
「見ておられる……あなたの中にも……」
トオヤの肩が固まる。
その背後で、札が一枚、赤く光った。
《偽りの者、露わとなれ。》
風がざわめき、札の鎖が鳴る。
次の瞬間、赤い光がトオヤの胸元をかすめた。
カルディスが腕を伸ばし、間一髪で彼を引き寄せる。
地面に叩きつけられた札が、灰のように崩れた。
アオイナが駆け寄り、震える声で問う。
「今の……罰? 本当に神がやったの……?」
カルディスは答えず、空を見上げた。
白靄の中に、微かに揺れる文字が見えた。
《帳簿は神に通ず》
誰かが、空そのものを記録板にしていた。
それを操る“声”が、今もこの国を覆っている。
「……ルシオン。君は“観察”を、裁きに変えたんだな」
彼の声は、風に消えた祈りよりも静かだった。
通りを吹き抜ける風が、灰の匂いを運んでいた。
崩れた札の残骸が路面を舞い、人々は息を潜めて見つめている。
アオイナが唇を噛んだ。
「……これ、全部“善行の帳簿”と繋がってる。誰かが嘘をついたり、祈りを怠ったりすると、赤札がそれを検出して燃える……」
「つまり、罰が自動で降るってわけか」
ガロウが唸った。
「まるで神様の監視システムだな」
カルディスはしゃがみ込み、灰を指で摘んだ。
粒は細かく、光を反射していた。
「……灰の成分に、金属片が混ざっている。これは焼けた紙ではない。人間の欠片だ」
アオイナが顔を上げる。
「まさか……人が、帳簿と一体化してるの?」
カルディスは頷いた。
「ルメリアの信徒は信仰の印として、生まれた時に名前を帳簿に記される。それは観察の模倣だ。観察を失った世界が、記録で神を再現しようとしている」
トオヤが震える拳を握った。
「そんなもん、神でもなんでもねぇ!」
だがその瞬間、空から再び声が降った。
《帳簿に逆らう者、記録を剥奪せよ》
街全体がざわめいた。
人々が一斉に筆を止め、トオヤに視線を向ける。
その瞳の奥に、信仰ではなく恐怖が宿っている。
アオイナがとっさに彼の前に立った。
「やめて! この子は何もしてない!」
彼女の掌から淡い光がこぼれた。
時間が、一瞬だけ巻き戻る。
群衆の視線が数秒前に戻り、トオヤを見失う。
「……間に合った」
だがカルディスの眉がわずかに動いた。
「アオイナ、その力を多用するな。時間の再演は、帳簿にも記録される」
「えっ……?」
そのとき、空に浮かぶ帳簿の文字が、ゆっくりと変化した。
《時を弄ぶ者、神の権能に手を伸ばす者》
アオイナの足元に、淡い光の輪が広がる。
空間が歪み、彼女の身体が吸い込まれるように揺らいだ。
「アオイナ!」
カルディスが彼女を抱き寄せ、光の中心に手を差し入れる。
彼の掌が焼けるように熱くなり、白煙が立ち上った。
「……記録を上書きしている。ルシオンは神の帳簿を操作して、現実を書き換えている」
《神は見ている。神は記す。神は裁く。》
声が低く響き、空の帳簿が一斉に赤く染まった。
街中の札が光を放ち、無数の線が天へ伸びる。
祈りではなく、監視の線。
カルディスは立ち上がり、声を張った。
「観察は、罰ではない! 見ることは、赦すことだ!」
しかし群衆は耳を貸さない。
彼らにとって、赦しは帳簿に書かれることでしかなかった。
アオイナが震える声で囁く。
「カルディスさん……もう、この国……」
「まだだ」
カルディスの瞳がわずかに光を帯びた。
その瞳には、もはや“観察者の残響”が宿っている。
「彼らが神を偽るなら……私は、人間として観察する」
風が止まり、灰が舞い上がる。
その灰のひと粒ひと粒が、まるで彼の意思に呼応するように揺れた。
《邪神…いや、元観察者、現れたか》
声が再び降る。
しかし今度は街全体ではなく、カルディスの胸の奥で響いた。
それは、かつてのルシオンの声。
人間だった頃の、僅かな記憶の残滓。
「カルディス……お前が神を見捨てたのだ」
カルディスは目を閉じ、静かに答えた。
「いや。神を信じた人間を、見捨てたのはお前だ」
空の帳簿が、一瞬だけ途切れた。
街に沈黙が訪れる。
風が戻り、灰が静かに地面へ降った。
アオイナが息を詰め、トオヤが拳を握る。
燈子は、灰の降る空を見上げていた。
その瞳に映るのは、炎ではなく…赦しの光。
カルディスは一歩前に出て、燃え尽きた帳簿の灰を拾い上げた。
「この灰は、まだ温かい。ならば……観察は、終わっていない」
彼の言葉が、祈りよりも確かな響きを残した。




