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ただ神は見ているだけ  作者: kuro
一章
33/40

第32話 潮の誓い

港に薄陽が差し、黒い煤煙はようやく白へとほどけていった。

水面を渡る風が塩と灰の匂いを運び、桟橋の板は湿って冷たい。

ナディア商会の帆は降ろされ、船腹は静かに呼吸している。


「なぁ、ナディアねえちゃん。」

トオヤが手すりにもたれて、にんまり笑った。

「一緒に来てくれない? だってさぁ〜、船とねえちゃんがいれば百人力!」


「百人どころか、千人力ね」ナディアは肩で笑う。

その横からアオイナがすっと割って入った。

「ダメです。そんなことしたら、団長の座が奪われます。義賊団の」

「えっ、オレの椅子、もうグラグラなの!?」

「もともと板一枚です」

「だってさぁ〜、薄っ!」


二人のやりとりに、ガロウが杖で桟橋をコツと鳴らす。

「商船の方が義賊より稼ぎは出るぜ。腹も安心だ」

「おいガロウさん! 裏切りは重罪!」

「腹の罪は軽くないぞ」


燈子が苦笑して鎖を手拭で拭い、カルディスは黙って様子を見ていた。

ナディアは皆の顔を順に見、それから海の方へ顎をしゃくった。

「“信仰”より金を信じる男たちね。……でも、嫌いじゃないわ」

「だってさぁ〜、金は裏切らないし!」

「裏切るのは持ち主の方です」アオイナが即答し、トオヤが肩を落とす。


笑いが一巡して、港にふと静けさが戻った。

海鳥が低く鳴き、どこかで綱が軋んだ。


ナディアは桟橋の端まで歩き、焼け跡の街を振り返る。

風が吹き抜け、外套の裾がわずかに鳴った。

「……でも、私は行けないの」

トオヤの笑顔が止まる。

「え?」


「焼けた街を見て気づいたの。まだ、やることがある」

ナディアは指を折っていった。

「商会の立て直し。生き残った人たちの保護。途切れた取引路の結び直し。

 祈りが命令に変わりはじめた今、物が動かないと、人は簡単に死ぬ」


声は穏やかだったが、芯には炎のような決意があった。

港の風がその言葉を運び、帆の影がゆっくり揺れる。


カルディスが一歩近づいた。

「あなたが残るなら、この街は持ち直す」

「私ひとりじゃ無理よ。でも、始める人間は要る」

ナディアは目を伏せ、わずかに笑う。

「“取引を絶やさないこと”。それが、私の祈りの形だから」


燈子がそっと小瓶を差し出した。

アオイナが昨夜のうちに拵えた、薄い香草の回復薬だ。

「あなたの分も、祈りを分けて」

ナディアは小瓶を掌に受け、頬を緩める。

「いい取引ね。ありがたく頂くわ」


トオヤは唇を噛んでから、ぐいと顔を上げた。

「じゃあ……絶対また会おうな! だってさぁ〜、オレ、団長だし!」

「その椅子、板一枚でしたよね」アオイナが真顔で刺す。

「補強工事、今度頼む!」

「見積り出します」

二人のやりとりに、ガロウが「相場は厳しいぞ」と笑う。


その横で、燈子は海を見ていた。

焦げた匂いの向こうに、青い線が見える。

「ナディアさん、この街を……どうか、お願い」

「任せて。私は“数”で世界を測る女よ。損得の勘は、もう狂わない」


カルディスは静かに頷いた。

「北の嵐を見に行く。……彼女が止めようとしたものを、見届けたい」

「観察者として?」

「いいや。同行者として」


ナディアはその言葉に一瞬だけ目を見張り、

すぐに微笑んだ。

「なら、取引成立ね。……あなたたちの旅が、世界を動かすことを祈ってる」


潮の音が一拍遅れて届き、空には白い光が滲み始めた。

遠くで鐘楼がきしむ音がしたが、それは誰の祈りでもなく、

ただ新しい朝の合図のようだった。


船員たちが縄を外し、帆を引き上げ始めた。

白布が音を立てて膨らみ、桟橋に潮風が押し寄せる。

港の水面が揺れ、ナディアの姿がかすかに歪んだ。


トオヤが両手で口をすぼめて叫ぶ。

「ナディアねえちゃーん! パン焼けたらまた持ってくからなー!」

「焦がさないでね!」

アオイナが笑い、トオヤが「だってさぁ〜焦げても味は同じ!」と返す。


笑い声が波に溶けていく。

ガロウは杖を船縁に立てかけ、低く呟いた。

「……あいつ、やっぱ商売の方が性に合ってるな」

燈子が頷く。

「でも、“信じること”の形を見せてくれた。

 祈りでも、取引でも、誰かを繋ぐのは同じなんだね」


ナディアは岸に立ったまま、右手を胸の前で合わせて〇を描いた。

それに気づいたアオイナが微笑み、同じように〇を返す。

「共に在る……か」

カルディスは小さく呟いた。

その目に映るのは、遠ざかる港と、かつて彼が観察した“人の営み”だった。


船が離岸する。

波が船体を叩き、甲板を濡らす。

ナディアの姿は次第に小さくなり、やがて白い帆の向こうに滲んだ。


燈子が風に髪をなびかせながら言った。

「……また会えるよね」

カルディスは短く答えた。

「取引が続く限り、世界は繋がる」


船が北の方角へ舵を切る。

風が甲板を抜け、帆を鳴らした。

トオヤが舳先に立ち、叫ぶ。

「行くぞー! 義賊団、北の嵐へ出発ー!」

「だってさぁ〜、船の団長って響き、悪くないだろ?」

「沈めたら減俸ですよ」アオイナが笑い、ガロウが肩をすくめた。


潮の香りが濃くなり、遠くの空に黒い雲が走る。

カルディスはその先を見据え、低く呟いた。

「……どこかで、まだ祈り続ける者がいる。

 その声が、誰かを導くのか……あるいは狂わせるのか」


彼の視線の先、波間の果てには、

焼けた鐘楼の影が一瞬だけ揺らめいた。

そこに……“神の声”を信じ続ける男の影があることを、

彼はまだ知らなかった。


帆が鳴り、風が唸る。

その音の中に、誰も知らない祈りの残響が混ざっていた。


カルディスは目を閉じ、静かに呟く。

「理性の灯は、信仰を照らす側にもある」


北の空が、わずかに光った。

船は進む。

それぞれの祈りと罪を乗せて。



——ただ神は見ているだけ 第一部・了。

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