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ただ神は見ているだけ  作者: kuro
一章
32/40

第31話 北への航路

灰の匂いが、まだ風の底に残っていた。

夜明けの港は静まり返り、波の音さえ浅く聞こえる。

焦げた板材の隙間を、かすかに光が縫っていた。


カルディスは、黒ずんだ岸壁の縁に立っていた。

朝靄の向こう、灰色の海の水平線を見つめている。

その頬には、昨夜の炎の赤がまだわずかに映っていた。


「……行ったんだな。北へ」

彼の呟きに、背後で砂を踏む音がした。


燈子が鎖付きのモーニングスターを肩に担ぎ、煤のついた鎖を布で拭いていた。

「ナディアさんの商会、ほんとに全部焼けちゃったね」


「“燃え尽きる”って、言葉がある。だが本当に燃え尽きる者は少ない。灰になっても、火はどこかで息をしている」

カルディスの言葉は、どこか自分自身に向けられているようでもあった。


燈子は微笑んで頷く。

「……じゃあ、まだ息してるね。みんな」


その会話の横で、何やらごそごそと動く音。

振り向くと、トオヤが破れた箱をひっくり返しながら、何かを探していた。


「……腹、減ったぁ〜。だってさぁ〜、祈りとか信仰とか言う前に、オレの腹が一番の信仰対象だよ……」

「またそれ?」

アオイナが苦笑して、布包みを差し出した。

「はい。海藻と貝を干したやつ。栄養ありますよ」

「見た目、もう“海の呪い”じゃん!」

トオヤは鼻をつまんで後ずさる。


ガロウが近くの流木に腰を下ろし、笑い声を漏らした。

「食え。命は腹から動くもんだ」

「だったら、もうちょいマシなもん食わせてよぉ!」

「義賊の団長がそんな泣き言言うな」

アオイナが眉を吊り上げると、トオヤは肩をすくめた。


「だってさぁ〜、薬師の飯って全部まず……」

アオイナの杵が頭上をかすめる。

「言わせません!」

「ひぃっ!」


燈子が笑いながら鍋の方へ寄る。

「でも、いい匂いだよ。少し香草入れてるでしょ?」

「はい、少しだけ。体力回復に効きます」

「ほんと、頼りになるね」

その言葉にアオイナは照れたように笑い、顔を逸らした。


トオヤは地面にしゃがみ込み、海を見ながら呟く。

「……なぁ、カルディス」

「なんだ」

「祈りってさ、人を救うもんなの?」

カルディスは少し考え、海の先を見たまま答えた。

「祈りは……誰かを“救おうとした証”だ。

 救えなかったとしても、証は残る。灰みたいにな」

トオヤは目を丸くして言った。

「つまり、オレの腹の祈りも証拠ってこと?」

「……そういう解釈をするのはお前だけだ」

その言葉に、皆が吹き出した。


焚き火の代わりに、朝の光が波を照らす。

港の片隅では、アオイナが小さな金属片を拾い集めていた。

焦げた聖印のかけら。

それをそっと掌で合わせると、胸の時計がわずかに鳴った。


「……やっぱり、生きてるんですね」

「誰が?」燈子が尋ねる。

「ナディアさんが。この欠片、焦げてるけど、温かいんです。

 昨日の幻、あれはただの残響じゃない」


カルディスが振り返る。

「感じ取れるのか」

「わかりません。でも……きっとまだどこかで、取引してます。

 “祈りと、理性を等価に”って顔で」


ガロウが立ち上がった。

「そいつぁ、生きてる商人だ。なら、また会える」

トオヤが頷き、「じゃあ腹ごしらえ終わったら、追いかけよう!」と叫ぶ。

アオイナが咳払いする。

「ちゃんと食べ終わってからにしてください」

「はいはい、薬師さま〜」

二人の声が、港に風のように響いた。



海が、低く鳴った。

トオヤが顔を上げる。「……いま、鳴いた?」

カルディスが指先で風向きを測る。「東からの返し波。……来る」


朝靄の帳の向こう、灰色の幕に白い三角が現れた。

やがて帆は二、三、四……列を成し、港の外で風を受けて円を描く。

先頭の帆柱に、二つの手が握り合う商会旗。


「ナディア……?」燈子の声が小さく落ちる。

ガロウは杖の石突きを一度鳴らした。「拾い上げに来たな」


岸にロープが投げられ、機敏な水夫たちが桟橋に飛び降りる。

最後に、灰色の外套の女が軽やかに跳び、焼け跡の教会を一瞥した。

「また燃えていたのね、人の祈りが」

振り返ったその眼差しに、笑みはなかったが、温度はあった。


「ナディアさん!」

トオヤが手を振る。アオイナが慌てて袖を引く。「子供みたいに振らないの」

「だってさぁ〜、会えたじゃん!」

「だからって騒がないの」

「はいはい、薬師さま〜」

ふたりのやり取りが、硬い空気に小さな穴を開けた。


「港が沈黙したから、生き残りを探しに来たの。教会筋の“裁き”が各地で走ってる。

 祈りが命令に変わると、交易は止まり、人が焼ける」


彼女は水夫に短く指示を飛ばし、積荷の一部を下ろさせた。

干し肉、硬いパン、真水の樽。

トオヤの目が輝く。「うおお……神の恵み……!」

アオイナが腕を組む。「“ナディアさんの取引”の恵みです」

「だってさぁ〜、尊っ……!」

ナディアが吹き出しそうになって喉を鳴らす。「トオヤ。尊ぶなら“対価”も覚えなさい」


カルディスが視線を北へ投げる。「嵐は、まだ続いているのか」


「北の航路で渦が生まれてる。祈りを吸って膨らむ渦。観察者が消えたあたりから顕著になった…そう皆が噂してる」


ナディアが答えると彼はわずかに目を伏せる。「……責任は、ここにある」


燈子が言葉を継いだ。「見届けるだけじゃ、間に合わない。止められるなら、止めたい」

ガロウが笑う。「棒の勇者は船でも役に立つさ」

トオヤは胸を張る。「義賊団、海上支部! だってさぁ〜、困ってる奴の味方だし!」

アオイナは時計を押さえ、「時間が許す限り、手を貸します」とまっすぐ言った。


ナディアは一行の顔を順に見て、小さく息を吐く。

「……船に乗りなさい。話は、海の上で」



甲板に上がると、風の音が陸より澄んで聞こえた。

帆が鳴り、綱が歌い、舵が低く応える。

リューネの黒い煙は、もう遠い。


トオヤは樽の横で跳ねるように歩き回り、海鳥に手を振る。

「おーい! ……お前も腹減ってんのか?」

「鳥に話しかけないの」アオイナが眉をひそめる。

「だってさぁ〜、仲間だろ? 空の義賊」

「分類が雑です」

言い合いながらも、アオイナはトオヤの喉に水袋を押し当てた。

「飲んで。熱、出しかけ」

「……ありがと」彼は小さく呟き、すぐ照れ隠しに肩をすくめた。

「だってさぁ〜、これは取引じゃないの?」

「取引です。“ありがとう”で支払いました」

「うわ、安っ!」

「値上げしますよ」

甲板に笑いが走り、帆影の下の空気が少しだけ軽くなる。


ナディアは舷側に肘を置き、海図を広げた。

「渦は三つ。北東の礁湖、外洋の十字潮、そして“灯のない湾”。

 どれも祈りが集まる巡礼路に乗っている。交易は寸断、街は飢えはじめてる」

ガロウが海図を覗き込む。「どこから叩く」

「一番近いのは礁湖。でも渦の核に“教会の旗”が見えたって報告もある。

 祈りを焚いてるのは人……火を使えるのも、人」


カルディスは短く頷く。

「なら、なおさらに見届ける。“誰の祈りが、誰を焼いているのか”を」

燈子が鎖の輪を掴み直し、穏やかな声で言う。

「誰かの祈りが、誰かの灯りになりますように。……燃やさないで、照らす灯りに」

ナディアが目を細める。「その言葉、好きよ」


舵が切られ、船首が北を向いた。

風が一段と強くなる。帆が膨らみ、海面の白が走る。

トオヤが甲板の中央で腕を組み、「出航の挨拶やるか!」と胸を張る。

「義賊団・海上支部、目標——腹いっぱい!」

「違う」アオイナが即答した。

「“救える限り救う”。腹いっぱいは副目標です」

「だってさぁ〜、副目標が一番大事なんだよ!」

「……それは否定できません」

ふたりの声に、操舵手も水夫も笑った。


カルディスは静かに空を仰いだ。

雲の筋が、北へ伸びる一本の線になる。

彼は胸の内で、短く言葉を結ぶ。

(観察者ではなく、同行者として)


アオイナの時計が“コツ、コツ”と規則正しく鳴る。

止まりかけた針は、いまはよく動く。

トオヤが耳を寄せ、「いいテンポだな。……腹も鳴るけど」

「団長のは“コツ、コツ”じゃなくて“コク、コク”」

「なんで飲み物みたいなんだよ!」

笑い声が風に混じり、海の色を少しだけ明るくした。


ナディアが最後に、黒く霞む港へ視線を戻す。

「……取引は続ける。祈りと理性を等価に、ね」

カルディスが応える。「それを、記す」

燈子は手すりに額を預け、目を閉じた。

「行こう。燃え残った灰の上にも、きっと芽が出るから」


船は北へ滑り出した。

風が帆を鳴らし、波が舷を叩く。

リューネの鐘は、もう聞こえない。

それでも、胸のどこかで小さな音が鳴り続けていた。

……出航の合図。生きていく音。


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