第31話 北への航路
灰の匂いが、まだ風の底に残っていた。
夜明けの港は静まり返り、波の音さえ浅く聞こえる。
焦げた板材の隙間を、かすかに光が縫っていた。
カルディスは、黒ずんだ岸壁の縁に立っていた。
朝靄の向こう、灰色の海の水平線を見つめている。
その頬には、昨夜の炎の赤がまだわずかに映っていた。
「……行ったんだな。北へ」
彼の呟きに、背後で砂を踏む音がした。
燈子が鎖付きのモーニングスターを肩に担ぎ、煤のついた鎖を布で拭いていた。
「ナディアさんの商会、ほんとに全部焼けちゃったね」
「“燃え尽きる”って、言葉がある。だが本当に燃え尽きる者は少ない。灰になっても、火はどこかで息をしている」
カルディスの言葉は、どこか自分自身に向けられているようでもあった。
燈子は微笑んで頷く。
「……じゃあ、まだ息してるね。みんな」
その会話の横で、何やらごそごそと動く音。
振り向くと、トオヤが破れた箱をひっくり返しながら、何かを探していた。
「……腹、減ったぁ〜。だってさぁ〜、祈りとか信仰とか言う前に、オレの腹が一番の信仰対象だよ……」
「またそれ?」
アオイナが苦笑して、布包みを差し出した。
「はい。海藻と貝を干したやつ。栄養ありますよ」
「見た目、もう“海の呪い”じゃん!」
トオヤは鼻をつまんで後ずさる。
ガロウが近くの流木に腰を下ろし、笑い声を漏らした。
「食え。命は腹から動くもんだ」
「だったら、もうちょいマシなもん食わせてよぉ!」
「義賊の団長がそんな泣き言言うな」
アオイナが眉を吊り上げると、トオヤは肩をすくめた。
「だってさぁ〜、薬師の飯って全部まず……」
アオイナの杵が頭上をかすめる。
「言わせません!」
「ひぃっ!」
燈子が笑いながら鍋の方へ寄る。
「でも、いい匂いだよ。少し香草入れてるでしょ?」
「はい、少しだけ。体力回復に効きます」
「ほんと、頼りになるね」
その言葉にアオイナは照れたように笑い、顔を逸らした。
トオヤは地面にしゃがみ込み、海を見ながら呟く。
「……なぁ、カルディス」
「なんだ」
「祈りってさ、人を救うもんなの?」
カルディスは少し考え、海の先を見たまま答えた。
「祈りは……誰かを“救おうとした証”だ。
救えなかったとしても、証は残る。灰みたいにな」
トオヤは目を丸くして言った。
「つまり、オレの腹の祈りも証拠ってこと?」
「……そういう解釈をするのはお前だけだ」
その言葉に、皆が吹き出した。
焚き火の代わりに、朝の光が波を照らす。
港の片隅では、アオイナが小さな金属片を拾い集めていた。
焦げた聖印のかけら。
それをそっと掌で合わせると、胸の時計がわずかに鳴った。
「……やっぱり、生きてるんですね」
「誰が?」燈子が尋ねる。
「ナディアさんが。この欠片、焦げてるけど、温かいんです。
昨日の幻、あれはただの残響じゃない」
カルディスが振り返る。
「感じ取れるのか」
「わかりません。でも……きっとまだどこかで、取引してます。
“祈りと、理性を等価に”って顔で」
ガロウが立ち上がった。
「そいつぁ、生きてる商人だ。なら、また会える」
トオヤが頷き、「じゃあ腹ごしらえ終わったら、追いかけよう!」と叫ぶ。
アオイナが咳払いする。
「ちゃんと食べ終わってからにしてください」
「はいはい、薬師さま〜」
二人の声が、港に風のように響いた。
海が、低く鳴った。
トオヤが顔を上げる。「……いま、鳴いた?」
カルディスが指先で風向きを測る。「東からの返し波。……来る」
朝靄の帳の向こう、灰色の幕に白い三角が現れた。
やがて帆は二、三、四……列を成し、港の外で風を受けて円を描く。
先頭の帆柱に、二つの手が握り合う商会旗。
「ナディア……?」燈子の声が小さく落ちる。
ガロウは杖の石突きを一度鳴らした。「拾い上げに来たな」
岸にロープが投げられ、機敏な水夫たちが桟橋に飛び降りる。
最後に、灰色の外套の女が軽やかに跳び、焼け跡の教会を一瞥した。
「また燃えていたのね、人の祈りが」
振り返ったその眼差しに、笑みはなかったが、温度はあった。
「ナディアさん!」
トオヤが手を振る。アオイナが慌てて袖を引く。「子供みたいに振らないの」
「だってさぁ〜、会えたじゃん!」
「だからって騒がないの」
「はいはい、薬師さま〜」
ふたりのやり取りが、硬い空気に小さな穴を開けた。
「港が沈黙したから、生き残りを探しに来たの。教会筋の“裁き”が各地で走ってる。
祈りが命令に変わると、交易は止まり、人が焼ける」
彼女は水夫に短く指示を飛ばし、積荷の一部を下ろさせた。
干し肉、硬いパン、真水の樽。
トオヤの目が輝く。「うおお……神の恵み……!」
アオイナが腕を組む。「“ナディアさんの取引”の恵みです」
「だってさぁ〜、尊っ……!」
ナディアが吹き出しそうになって喉を鳴らす。「トオヤ。尊ぶなら“対価”も覚えなさい」
カルディスが視線を北へ投げる。「嵐は、まだ続いているのか」
「北の航路で渦が生まれてる。祈りを吸って膨らむ渦。観察者が消えたあたりから顕著になった…そう皆が噂してる」
ナディアが答えると彼はわずかに目を伏せる。「……責任は、ここにある」
燈子が言葉を継いだ。「見届けるだけじゃ、間に合わない。止められるなら、止めたい」
ガロウが笑う。「棒の勇者は船でも役に立つさ」
トオヤは胸を張る。「義賊団、海上支部! だってさぁ〜、困ってる奴の味方だし!」
アオイナは時計を押さえ、「時間が許す限り、手を貸します」とまっすぐ言った。
ナディアは一行の顔を順に見て、小さく息を吐く。
「……船に乗りなさい。話は、海の上で」
甲板に上がると、風の音が陸より澄んで聞こえた。
帆が鳴り、綱が歌い、舵が低く応える。
リューネの黒い煙は、もう遠い。
トオヤは樽の横で跳ねるように歩き回り、海鳥に手を振る。
「おーい! ……お前も腹減ってんのか?」
「鳥に話しかけないの」アオイナが眉をひそめる。
「だってさぁ〜、仲間だろ? 空の義賊」
「分類が雑です」
言い合いながらも、アオイナはトオヤの喉に水袋を押し当てた。
「飲んで。熱、出しかけ」
「……ありがと」彼は小さく呟き、すぐ照れ隠しに肩をすくめた。
「だってさぁ〜、これは取引じゃないの?」
「取引です。“ありがとう”で支払いました」
「うわ、安っ!」
「値上げしますよ」
甲板に笑いが走り、帆影の下の空気が少しだけ軽くなる。
ナディアは舷側に肘を置き、海図を広げた。
「渦は三つ。北東の礁湖、外洋の十字潮、そして“灯のない湾”。
どれも祈りが集まる巡礼路に乗っている。交易は寸断、街は飢えはじめてる」
ガロウが海図を覗き込む。「どこから叩く」
「一番近いのは礁湖。でも渦の核に“教会の旗”が見えたって報告もある。
祈りを焚いてるのは人……火を使えるのも、人」
カルディスは短く頷く。
「なら、なおさらに見届ける。“誰の祈りが、誰を焼いているのか”を」
燈子が鎖の輪を掴み直し、穏やかな声で言う。
「誰かの祈りが、誰かの灯りになりますように。……燃やさないで、照らす灯りに」
ナディアが目を細める。「その言葉、好きよ」
舵が切られ、船首が北を向いた。
風が一段と強くなる。帆が膨らみ、海面の白が走る。
トオヤが甲板の中央で腕を組み、「出航の挨拶やるか!」と胸を張る。
「義賊団・海上支部、目標——腹いっぱい!」
「違う」アオイナが即答した。
「“救える限り救う”。腹いっぱいは副目標です」
「だってさぁ〜、副目標が一番大事なんだよ!」
「……それは否定できません」
ふたりの声に、操舵手も水夫も笑った。
カルディスは静かに空を仰いだ。
雲の筋が、北へ伸びる一本の線になる。
彼は胸の内で、短く言葉を結ぶ。
(観察者ではなく、同行者として)
アオイナの時計が“コツ、コツ”と規則正しく鳴る。
止まりかけた針は、いまはよく動く。
トオヤが耳を寄せ、「いいテンポだな。……腹も鳴るけど」
「団長のは“コツ、コツ”じゃなくて“コク、コク”」
「なんで飲み物みたいなんだよ!」
笑い声が風に混じり、海の色を少しだけ明るくした。
ナディアが最後に、黒く霞む港へ視線を戻す。
「……取引は続ける。祈りと理性を等価に、ね」
カルディスが応える。「それを、記す」
燈子は手すりに額を預け、目を閉じた。
「行こう。燃え残った灰の上にも、きっと芽が出るから」
船は北へ滑り出した。
風が帆を鳴らし、波が舷を叩く。
リューネの鐘は、もう聞こえない。
それでも、胸のどこかで小さな音が鳴り続けていた。
……出航の合図。生きていく音。




