表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ただ神は見ているだけ  作者: kuro
一章
31/40

第30話 祈りの残滓

灰が舞っていた。

夜明けと呼ぶには淡すぎる光の中、港の北端にある石造りの教会は、ほとんど形を留めていなかった。

屋根は抜け落ち、祭壇は崩れ、海から吹く潮風が焦げた木材を軋ませている。


燈子が足を止めた。

「……ここが、教会跡?」


瓦礫の隙間を縫うように、アオイナが歩を進めた。

床一面に散らばる白い粉は、灰と塩が混ざったものだった。

手で掬えば、すぐにさらさらと指の間からこぼれ落ちる。


「焦げた跡……人の形みたい」

トオヤの声が震える。

壁の一面に、無数の手形が黒く焼きついていた。

それは祈る姿勢のまま、壁と一体化した“跡”だった。


カルディスは静かに近づき、煤に覆われた祭壇の前に立つ。

そこには、崩れ落ちた聖像の残骸が転がっていた。

片腕だけが残り、空を掴むように伸びている。


「……祈りが、燃えたんだな」

ガロウが呟く。

その声には怒りよりも、疲れが滲んでいた。


アオイナは祭壇の脇に残る壺を見つけ、膝をついた。

中には、溶けかけた銀の飾りと、焼け焦げた巻物の欠片がある。

掴んだ指先が黒く染まる。

「“沈む者を裁け”……あの刻印と同じ言葉が書かれてる」


燈子が顔を上げた。

「裁きの祈り……それって、神に許しを乞う祈りじゃなくて……」

「命令だ」カルディスの声が重なる。

「祈りが命令になった時、人は“神の代弁者”になる。そして神は沈黙する」


風が止まった。

音の消えた空気の中で、カルディスの指先から淡い光が漏れる。

それは彼がかつて“観察者”であった名残……

彼の視界に、焼けた教会の“過去”が微かに重なった。

それは死者の影ではない。観察者の残響が拾い上げた、彼女の過去の一片だ。



炎に包まれた祭壇。

泣き叫ぶ人々。

白い衣を纏った者たちが、声を揃えて祈りを叫ぶ。

「光を求めよ、沈む者を裁け」


アオイナが息を呑む。

幻の光景が、壁に焼きついた手形の間から立ち上がっていた。

焦げた壁が震え、音のない祈りが空間を満たす。


「これが……“観察者の残響”?」

燈子の問いに、カルディスは頷いた。

「記録ではない。……彼らの“祈りの記憶”だ」


幻影の中、人々の声が幾重にも重なる。

「救って……」

「裁いて……」

「見ていて……」


アオイナは膝を抱え、耳を塞いだ。

「こんなの、祈りじゃない……叫びだよ……!」


カルディスの表情がわずかに歪む。

観察者だった頃、彼はこうした光景を何度も“見ただけ”で通り過ぎてきた。

けれど今、胸の奥に確かな痛みがあった。


「届かぬ祈りほど、強く燃える。

 だが……その熱は、理性を焼く炎になる」



灰が渦を巻き、焼けた香のような匂いが鼻の奥に刺さった。

トオヤが冗談を探すみたいに口を開きかけ、やめた。

笑いの代わりに、喉の奥で小さな息だけが鳴る。


ガロウは崩れた梁を押し上げ、下を覗き込む。

溶けた硝子が床に固まって、波紋のような模様を作っていた。

「……火だけじゃない。祈りに油を注いだんだ」

独り言のように呟いて、手袋についた煤を払う。


アオイナは割れた洗礼盤の縁に指を置いた。

灰と塩水がぬかるみに溜まり、冷たさと温かさが同時に指先へ上がってくる。

胸元の時計が、いつもより半拍遅れて刻んだ。

“コツ、……コツ”

その間に、誰かが息を吸う音が紛れた気がした。


「祈りは、集まるほど“声”じゃなく“圧”になる」

カルディスの言葉に、燈子が顔を上げる。

彼女は鎖付きのモーニングスターの環を握ったまま、手のひらで冷えを確かめる。

「圧に押されて、神は沈黙する。……だからこそ、人が人に命令してしまう」


祭壇の脇に、小さな黒い線が幾つも残っていた。

煤に描かれた、拙い船。

その下に、二つの手が握り合う落書き。


アオイナがしゃがみ込み、そっと指でなぞる。

「ここにも“商いの手”がある……“人を信じる”印」

燈子は静かに頷いた。

「誰かが、誰かを連れて帰ろうとしてた跡。……間に合わなかったけど」


壁の手形は、祈る形だけでなく、庇う形、抱き寄せる形にも見えた。

光の粒が指先にまとわりつき、カルディスの視界にまた過去が重なる。

泣き腫らした目で笑おうとする女、火の中で帳簿を抱えて走る影、

「パンを分けて」

「この子だけでも」

幾つもの願いが、灰の下でまだ温かい。


カルディスは片膝をつき、砕けた聖像の破片を拾い上げた。

指先にざらりとした感触が残る。

「記録しておく。……この温度を」

観察者の残響は、もう“光景”だけではなく“手触り”を伴って彼に戻ってくる。


アオイナの時計が、今度は早鐘のように“コツコツ”と弾んだ。

「もし、少しだけ時間を戻せたら…」

言いかけて、彼女は言葉を飲み込む。

燈子が肩に触れた。

「戻すより、持っていこう。……この『温度』を、次の場所へ」

アオイナは小さく頷き、震えを押し沈めた。



崩れたアーチの奥、煤の向こうで光が凝り始める。

灰が落ちるたび、粒は集まり、輪郭を持ちはじめた。

白い外套、焦げた裾、腕を広げる仕草。

カルディスの喉が、ごくりと鳴る。

「……彼女だ」


トオヤが無意識に帽子のつばをいじり、ガロウは杖の先を地に軽く打った。

誰も声を出さない。

潮騒も、梁の軋みも、遠い鐘の金属音も…いったん、遠のく。


光は人の形になり、こちらへ振り返る。

笑みとも、悔いともつかない影が、灰の中で揺れた。

カルディスは立ち上がる。

呼ぶ名を、口の中で確かめるように。


光の唇が、わずかに動いた。

…風が、灰を巻き上げた。



灰が舞う中、ナディアの記録は静かに口を開いた。

その声は風のように掠れて、しかし確かにカルディスの胸を打つ。


「あなたはまだ“見る”ことを選ぶのね」


彼は言葉を失った。

光の中の彼女は、炎に焼かれながらも笑っていた。

「見ているだけでは、誰も救えない。けれど、見ることをやめたら……何も残らない」


カルディスは目を閉じる。

「それでも、俺は見届けたい。

 この祈りが、どれほど歪んでも……誰かが記録しなければ、また同じ火が灯る」


ナディアの影は一瞬、柔らかく微笑んだ。

「なら、記して。…人が“信じる”ということを」


光が弾け、灰が舞い、世界が静まり返る。

アオイナの胸元で、懐中時計の針が逆回転を始めた。

彼女は息を呑み、震える手で時計を押さえる。

「これ……時間が……戻ってる……?」


カルディスが振り返る。

「干渉するな、アオイナ。過去は見るためのものじゃない」

「でも、もし戻せたら……この街の人たち、助けられたかもしれない」


その言葉に、燈子がゆっくりと首を振る。

「戻すたびに、誰かの“今”が消える。だからきっと、時間は一人にしか触れさせないんだよ」


アオイナは唇を噛み、時計を胸に抱いた。

針の逆回転が止まり、音が戻る。

波、風、灰が再び流れ始めた。


カルディスは焼けた壁に手を置き、囁く。

「……これが祈りの残滓。神は応えずとも、人は祈りを残す。それが、人である証だ」


燈子は崩れた聖印を拾い上げ、灰を払った。

「なら、わたしも祈るよ。誰かが生き延びられるように」


トオヤが鼻を鳴らす。

「まったく、聖女様らしいや。……でも俺も一応、祈っとくか。飯が食えるように」


ガロウが笑いを漏らす。

「それも立派な祈りだ。火を怖れずに使うこと、それが人間だ」


教会の奥、崩れた鐘楼から微かな音が鳴った。

潮風に揺れる鉄片が、かすかにぶつかり合っている。

それはまるで、誰かが“まだ見ている”と告げるようだった。


カルディスは空を仰いだ。

北の空に、薄く光る雲の筋が見える。

そこに…微かに帆の影。


光は、祈りではなく“記録”の手触りを残して消えた。

焼けた壁に触れた指先に、遠い水路の湿りと、砂の熱が重なる。

それは彼女が歩いてきた道……すでに見た記録が、ここで再び映っただけだ。


カルディスは短く息を吐く。

「……生きている。遠い北で、彼女はまだ動いている」


「行くんだろ?」トオヤが空を仰いで言う。

「……ああ」カルディスは頷いた。「観察じゃない。今度は、同行者として……行こう」

燈子が微笑み、アオイナが時計を握りしめる。

ガロウは杖の石突きを一度だけ鳴らした。


一行は北を見た。

祈りの残滓が、進むべき方角を指していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ