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第2話 情けない男と希望の行

咆哮が、夜空を裂いた。

耳をつんざく低音に、盗賊たちの嘲笑が一瞬で凍りつく。


森の闇をかき分けるように、巨大な影が姿を現した。

月明かりを浴びて鱗が鈍く光る。

尾は大木を容易くへし折り、口からは熱に濡れた息が漏れ出る。


「ば、バジリスク……!」

盗賊の一人が声を裏返らせる。


次の瞬間、遅れて逃げようとした若い盗賊が、尾の一撃で吹き飛んだ。

骨の砕ける音。

砂に広がる黒い染み。

残された者たちは顔を蒼白にし、口々に叫びながら四散していく。


「やべえ! 逃げろ!」

「こいつはもう駄目だ、置いてけ!」


男は短刀を握りしめたまま、その場に釘付けになっていた。

震える足は動かない。

呼吸は乱れ、肺が焼けるように熱い。


「走って!」

縛られたエルフが叫ぶ。必死に縄を振りほどこうとする。


だが、彼は動けなかった。

血で濡れた手が刃を握るだけで精一杯だった。


観察者としての私は、冷ややかに告げる。

…人間は無力だ。

抗っても、世界は容赦しない。


それでも彼は、目の前から視線を逸らさなかった。

女を、そして迫りくる怪物を。


砂煙を割るように、鋭い剣閃が走った。


バジリスクの巨体がたじろぐ。鱗の隙間に食い込んだ一撃が、火花を散らして夜を照らした。


「退けぇッ!」

轟く声とともに現れたのは、白髪の老剣士だった。

背はやや曲がりながらも、その立ち姿には揺るぎがない。

握る長剣が月光を映し、次の一撃でバジリスクの視線を逸らせる。


「こいつは俺が引き受ける! お前ら、援護しろ!」


二人の仲間が駆けてくる。

ひとりは重装の騎士で、銀の盾を構えながら女の縄を断ち切った。

もうひとりは軽装の斥候で、手際よく投げナイフを放ち、怪物の目を牽制する。


「大丈夫か?」

騎士がエルフを抱き上げる。

「もう安全だ、俺たちが守る」


女は驚きに目を見開いたが、抗わず騎士の腕に体を預けた。

その姿を、地に膝をついた男はただ見上げるしかなかった。


胸の奥が、軋む。

自分では救えなかった命を、あっさりと他者が救っていく。

握った短刀が、ひどく軽く感じられた。


…そして、彼の背後で観察者である私は静かに囁く。

「帳簿の行は増えた。だが、救済か請求かは、まだ定まらない」


怪物は老剣士たちに引きつけられ、森の闇へと押し返されていく。

咆哮と剣戟の音が遠ざかる中、残された静寂はやけに重かった。


男は砂に膝をついたまま、浅い呼吸を繰り返す。

握っていた短刀は指の間から滑り落ち、砂に沈んだ。


「……俺は」


声が震え、喉が掠れる。

胸を締めつけるのは痛みだけではなかった。


エルフは騎士の腕の中で守られていた。

彼女の瞳が安堵に潤むのを、ただ見ていることしかできない。

その視線が自分を通り過ぎるたびに、心が深く沈んでいった。


「情けない男でごめんな……」

掠れた声が砂に吸い込まれる。


観察者としての私は告げる。

…人は皆、帳簿の外にある理想を求める。

だが現実に記されるのは、無力と後悔の数字ばかりだ。


それでも、女は彼を見た。

騎士の腕に抱かれながらも、真っ直ぐに彼へ向けて。


「それでも……私はあなたがいい」


静かな声だった。

その一言が、彼の胸を貫いた。


血に濡れ、膝をつく彼の姿が、ただの無力では終わらないことを示していた。


老剣士の咆哮が再び響き、森の奥から怪物の断末魔が応じた。

戦いは続いていたが、街道には一時の静寂が戻っていた。


騎士はなおもエルフを抱いたまま男を見下ろす。

「……よく耐えた。時間を稼いでくれたおかげで、俺たちが間に合った」


その言葉は皮肉のように響いた。

自分はただ震え、刃を取り落としただけではなかったか。

だが、確かに彼は立っていた。

無様でも、逃げなかった。


男は血の滲む唇を開いた。

「……俺には、守りたいものがあるんだ」


その声はか細く、誰に届いたかも分からない。

だが観察者である私は確かに聞いた。

…逃げないと誓う言葉を。


エルフが騎士の腕から身をよじって抜け、彼の傍らに膝をついた。

震える手で男の手を取り、言った。


「あなたがいたから、生き残れた」


男は目を見開く。

無力と思っていた己の行動が、確かに誰かの命に繋がっていたのだ。


観察者としての私は記す。

…帳簿に新たな行が刻まれた。

それは「絶望」ではなく、「希望」の名で。


夜風が砂をさらい、散らばった弁当の残骸を覆い隠していく。

残るのは、傷だらけの男と、彼の隣に座るエルフ。


そして未来。

まだ名も持たぬ小さな命が、遠い地で生まれようとしていた。

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