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ただ神は見ているだけ  作者: kuro
一章
28/40

第27話 漂流の夜

音が、遠い。


どこかで波が砕けているのに、届くのはその“余白”だけだった。

カルディスは闇の中で身を横たえ、ただ音を待っていた。


…かつて、記録の海にも似た場所を知っている。

そこでは、言葉も形も、すべてが“観測の単位”として存在していた。

呼吸も、痛みも、時間すらも。


だが今、何も“記せない”。


体は重く、冷たく、意識だけが浮いている。

波間に散る白い光が、瞼の裏で微かに脈打つ。

その光は、かつて観察者として眺めていた“奇跡の光”と似ていた。


(……誰かが、呼んでいる)


その“呼び声”は、神の声ではなかった。

もっと近くて、震えるように柔らかい。


カルディスはわずかに指を動かそうとした。

……動かない。

波が一度、彼の頬を撫でる。塩と血の匂い。


(観察ではなく……これは、感覚か)


頭の奥で、誰かの声が反響した。


「……まだ、生きてる」


記録ではない、生の言葉。

それが、意識の縁に焼きついた。


…そして、光が消えた。



…雨の匂いがした。


燈子は、顔にかかる髪を払いのけながら目を開けた。

砂。塩。冷たい風。

身体の上に波の泡が流れ込み、足先がじんと痺れている。


「……ここ、どこ……?」


掠れた声が、風に吸い込まれた。

手をついて起き上がると、衣は裂け、鎧の金具が錆び始めている。

周囲に人の気配はない。

ただ、打ち上げられた木片と、濡れたロープ。

夜明け前の灰色の空が、かすかに光を帯びていた。


燈子は息を呑み、叫んだ。


「カルディス! ガロウ! トオヤ――!!」


返事はない。

だが、少し離れた岩陰から、甲高い声が上がった。


「……うぅぅ、うわ、塩っぱ!!」


砂まみれのトオヤが、海藻を頭にぶら下げていた。

顔じゅうに砂を貼りつけたまま、咳き込みながら立ち上がる。


「生きてる! ……燈子姉ちゃんも!」


燈子は安堵の息を漏らし、駆け寄った。

「よかった……!」


二人で周囲を見渡す。

浜は狭く、背後は切り立った岩壁。

木の残骸が散らばり、沖合いには折れたマストが浮かんでいる。


トオヤは唇を噛んだ。


「……ガロウとカルディスは?」


燈子は首を振った。

「わからない。でも、生きてる。きっと」


その言葉に、トオヤは強く頷いた。


「そうだよな! 生きてる奴は探さなきゃ。

 それが……義賊団の、仕事だもんな」


砂に指で〇を描き、拳を握る。

濡れた少年の瞳に、炎が宿っていた。

その小さな覚悟に、燈子は微笑んだ。


「……行こう、団長」


風が吹き、夜明けの光が二人の頬を照らした。

波間に、かすかな影が流れている。


その影の方へ、彼らは歩き出した。



波を越え、岩の裂け目を抜けた先に……

ほのかな灯があった。


夜明け前の浜辺、潮風に滲む橙の光。

揺れる炎の影が、古びた小屋の窓に映っている。


「……誰か、いる?」

燈子が小声で問う。


トオヤは頷き、腰の棒を握りしめた。

「用心して行こうぜ。……もしかしたら、怪我人を運び込んだかもしれない」


二人は足音を殺して近づいた。

波の音に混じって、何かが煮える音がする。

香草の焦げる匂い、湿った木の軋み。


小屋の戸は半ば壊れていた。

隙間から覗くと、奥の部屋で少女が薬草を刻んでいた。


肩までの青い髪が、ランプの灯に透けている。

小さな机の上には、瓶と乾いた薬草、そして……ベッド。

その上には、血に濡れた外套を掛けた男が横たわっていた。


少女が煎じ薬を混ぜながら、独り言のように呟く。

「……動脈までは届いてない。でも、熱が強い……」


火加減を誤り、鍋がぼふっと煙を上げた。

「うわっ、また失敗!? もう、なんでいつも煮すぎるのよ……!」


トオヤが思わず声を上げそうになり、燈子が口を押さえた。

「しっ……誰かを治してるみたい」


二人の視線の先、

ベッドの男の顔が、薄闇の中で見えた。


白くなった頬、浅い呼吸。

それでもその手は、無意識に何かを掴むように僅かに動いた。


燈子が息を呑む。

「カルディス……!」


その胸の上で、懐中時計が静かに鳴った。


チチ……チ。


針が、ほんの一瞬、逆に回る。

音もなく、時間がひと呼吸ぶんだけ“巻き戻った”ように。


ハーフエルフの少女……アオイナは、それに気づかないまま、

煎じた薬を小さな匙で掬い、男の唇にそっと触れさせた。


「……まだ温かい。きっと、助かるよ」


彼女の声が、柔らかく夜を包んだ。


その時、後ろで何かが軋む音がした。

燈子とトオヤが振り返る。

波打ち際で、何かが岩にぶつかっている。


「……誰か、流されてる!」


二人は駆け出した。

夜明けの海。

打ち上げられた板切れに、ひとりの男がしがみついていた。


「ガロウ!」


トオヤが真っ先に飛び込み、腕を掴む。

「しっかりしろ! オレたち、もう地上だ!」


意識のないガロウの手が、杖を離さなかった。

折れかけた木の先に、まだ小さな火が宿っている。

それは彼が最後に掲げた“支点”の灯。


燈子はロープで彼の体を引き上げると、息を詰めて笑った。

「本当に……よく生きてたね」


「……あったりめぇだ」

掠れた声で、ガロウがかすかに笑う。

「俺は“棒士”だ。棒が沈むわけねぇだろ?」


三人は波打ち際で短く笑い合い、

そのまま、光の漏れる小屋へ運び込んだ。


中では、青髪の少女が振り返り、驚いたように目を見開く。


「……えっ、まだ増えるの!?」


その声に、トオヤが思わず吹き出す。

「うわ、ツッコミのテンポいいなこの人!」


だが彼女の手元では、再び光が走っていた。

カルディスの胸元の懐中時計。

チチ……チ。

針が、ほんの一瞬、逆に回る。


そしてアオイナは、誰にも気づかれぬまま呟く。

「……まだ、救える」


波の音が遠ざかる。

朝が来る。

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