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ただ神は見ているだけ  作者: kuro
一章
27/40

第26話 渡河ー嵐の門

雨上がりの空は、まるで息を潜めているように静かだった。

王都を離れ、濁った大河のほとりを歩く四人。

草むらの奥では蛙が鳴き、遠くではまだ燃える街の残光が薄く煙を上げていた。


燈子は足を止め、振り返った。

「……あの光、ずっと見えるね」

その声には、疲労と痛み、そしてどこか名残惜しさが混じっていた。


カルディスは答えず、ただ空を見ていた。

「煙は……祈りの残滓だ。人が信仰を燃やすとき、あれが生まれる」


トオヤは口を尖らせた。

「燃やすもんじゃねぇだろ、信仰ってのは。……ま、俺には関係ねぇけど」

彼は棒を肩に担ぎ、前を向いた。


ガロウが小さく笑う。

「お前、もうすっかり“義賊団団長”だな。口が達者になった」


「だってオレ、もう団長だし!」

トオヤは胸を張る。

燈子が苦笑しながら頷いた。

「そうだね。団員が居なくてもね」


軽口に包まれた一瞬の和やかさ…だが、すぐに風が吹き抜ける。

冷たい潮の匂いを運びながら、遠くの雲がうねり始めていた。



「王都を離れて、どこへ行く?」

ガロウの問いに、カルディスは低く答えた。

「西だ。商会都市リューネ。……そこに“ナディア”という女がいる」


「ナディア?」燈子が首を傾げる。

「彼女は昔、商会を束ねていた。取引と同じくらい人を信じる女だった。

 もし今も無事なら、我々を匿ってくれるはずだ」


トオヤが眉をしかめる。

「ほんとに? ナディアさんにまた会えるかな?」


カルディスの瞳が微かに揺れる。

「……残っていてほしいと思っている。それだけだ」


その時、対岸の村から来た旅商人が通りがかる。

「リューネ? ああ、あのナディア商会ならもう無いよ。

 女主人は船団を率いて北に行った。……嵐が来る前にな」


燈子は息を呑んだ。

「じゃあ、もう会えないの……?」

商人は肩をすくめて去っていった。


カルディスはしばらく黙っていたが、やがて小さく呟いた。

「やはり、そうか。……彼女は止まらない。いつも、動き続ける女だった」


その声には、わずかに懐かしさが滲んでいた。

かつて“観察者”として彼女の生を遠くから見ていた記録が、胸の奥に蘇っていた。

だが今、その記録はもう“過去”ではなかった。

彼の歩む世界と、彼女の生きる現実が、ようやく同じ線の上にあった。



「どうする? このまま西へ?」

ガロウが問うと、カルディスは大河の向こうを見た。

「……橋は落ちている。街道も封鎖された。だが、川の向こうに港町の灯が見える」


「じゃあ、どうやって渡るんだよ」トオヤがぼやく。

燈子は黙って水面を覗き込み、小声で呟いた。

「泳ぐのは……無理だよ。鎧、重いし」


「下流に古い渡し船がある」

トオヤが思い出したように言った。

「孤児仲間が言ってた。昔は川を渡って魚を売りに行ったって。……行ってみようぜ!」


カルディスは頷く。

「案内を頼む」


四人は再び歩き出す。

風が強まり、草がざわめいた。

空には、嵐を孕んだような黒雲が渦を巻き始めていた。



川霧の薄い幕をくぐると、やがて古い渡し場が現れた。

石積みの突堤は欠け、杭は半ば腐っている。

岸に打ち上げられた小舟は、片側の板が剥がれ、綱はところどころ麻の繊維が裂けていた。


「……浮くの、これ?」

燈子が眉を寄せる。


トオヤはもう膝をついて、船底を叩いていた。

「だってさぁ〜、まだいける! 板、ここに差し込めば塞がる」

彼は器用に木片を拾い集め、革紐で縛り、船縁に括りつける。

指先の動きは速く、迷いがない。

(屋根から屋根へ渡ったあの夜と同じだ——“落ちない道”を自分で作っていく)


ガロウが無言で手を貸した。

杖を梃子にして船を起こし、縄の緩みを締め直す。

「結びは二重。流れで解けねぇようにな」

彼の動きも、剣の代わりを得てからは迷わない。

“振り抜く”のではなく、“支える”。右腕の疼きが、今日は少しだけ軽い。


カルディスは川面と空を見比べ、短く告げた。

「出るなら今だ。風が変わる」


四人は乗り込んだ。

トオヤが舳先、カルディスが櫂、ガロウが舵、燈子が中央でロープを抱える。

小舟が突堤を離れた瞬間、水が板を叩く鈍い音がした。

川霧の冷気が頬を撫で、遠くで水鳥が一度だけ鳴いた。


「向こう岸に灯りが見える」

燈子が指さす。

ぼんやりと滲む光点は、確かに港町のそれだった。

トオヤは身を乗り出し、笑う。

「ほら、いけるって! オレの修理、完璧——」


その時、カルディスの掌がわずかに硬くなる。

「匂いが変わった」


鼻腔に、潮と鉄の匂いが混ざる。

上流から来るはずの風が、逆に頬へ押し返してくるようだった。

川面にさざ波が立ち、霧が低く唸る。


ガロウが舵を握り直す。

「……いやな海鳴りだ。ここは川だろうがよ」


カルディスは川の中央、暗く沈む一本の線を見据えた。

(境目が、よれている)

「急げ。——右へ二尺」


櫂が水を掻く。小舟は素直に応え、霧の帯を裂いて進んだ。



最初に鳴ったのは、空ではなく水だった。

底鳴りのように、川そのものが低く唸る。

次いで、空が応じる。雲が渦を巻き、稲光が糸のように走った。


トオヤが舳先で目を細める。

「波、でかくなってる!」

「川なのに……?」燈子の喉が鳴る。


ガロウが舵に体重を預ける。

「横波を食うな、正面から受けろ!」

杖で縁を突いて船の角度を修正し、櫂のテンポに合わせて舵を切る。

剣では救えなかった“間合い”を、今は“支点”で繋いでいく。


風が一段荒れ、霧が破れた。

その裂け目から、黒い背を見た。

…逆巻く波の峰。

大河の皮膚に、海が一瞬だけ顔を出したような、不自然な盛り上がり。


「来る!」カルディスが叫ぶや、

燈子は反射でロープを自分の腰に巻き、船縁のリングへ通した。

(濁流の夜…水路で覚えた“落ちない”やり方)

「わたし、踏ん張る! みんな、掴まって!」


波頭が小舟を持ち上げ、落とす。

骨に響く衝撃。板がきしみ、修理した継ぎ目が悲鳴を上げた。

トオヤが舳先の杭に飛びつき、上体を低くする。

「だってさぁ〜、落ちねぇぞ……!」


二つ目の波が、逆方向から叩きつけた。

風向と水の流れが噛み合っていない。

カルディスは櫂を捨て、即座に姿勢を変える。

「舳先、下げろ! …ガロウ!」


「任せろ!」

ガロウの杖が船縁に渡される。二人の手がその上で重なり、

“てこの芯”ができた。

小舟は一瞬だけ持ち直し、斜めの衝撃を滑らせる。


稲光。

白い線が視界を裂き、すぐに轟音が追いついた。

耳奥が痛む。世界が一拍、遅れる。


「カルディス!」

燈子が叫んだ時には遅かった。

三つ目の波が船腹を打ち、積んだ荷が転げる。

鉄の留め具が跳ね、カルディスの側頭部を掠めた。


視界が白く弾け、膝が折れる。

血が耳を温め、世界の輪郭が遠のく。

(また、見ているだけなのか…)

彼の体が横へ流れ、船縁を越え…


「させない!」

燈子がロープを投げた。

一瞬の“軌道”。

彼女の手は剣ではなく、鎖の重さを覚えている。

輪が空中でほどけ、カルディスの腕にかかる。


重い。

だが、落ちない。

燈子は歯を食いしばり、腰のロープで自分をアンカーにする。

「トオヤ、引っ張って!」

「任された!」


トオヤが素早く結び目を移し替え、滑車のように力を分散させる。

ガロウが片手で舵を押さえ、片手でロープを引く。

「踏ん張れ、踏ん張れぇ!」


波がもう一度、船底を叩いた。

湿った空気が肺を焼き、視界の端に港の灯がにじむ。

(届かない。だが…)

カルディスは自分の体が甲板に戻るのを、遠くで感じた。


「……すまない」

掠れた声が、雨音に紛れた。



風向きが完全に狂った。

上流と下流の差が消え、川は“どちらへも”流れ始める。

羅針のない小舟は、渦の中心へ引きずられるように回った。


「港、消えた……」

燈子の声は小さい。

霧がまた閉じ、灯は薄紙の裏へ退いた。


トオヤが必死に舳先を覗く。

「島影! ……いや、岩場かも!」

次の瞬間、船底が何かに擦れ、嫌な震えが走る。

(船板がもたない——!)


ガロウが決断する声で叫ぶ。

「道具、抱えろ! 命が先だ!」

杖、ロープ、最小限の荷。

余計なものは捨て、体を軽くする。

それでも波は容赦ない。

小舟は一度、高く持ち上げられ…


落ちた。


空と水が入れ替わる。

耳鳴りの向こうで、カルディスの意識が薄れていく。

(観察者なら、ここで“記す”ところだ。だが…)

(私は今、ただ…)


燈子の手の温度だけが、暗闇の中で確かだった。

「生きる!」彼女の声が、波に噛み千切られながらも届く。

「離れないで!」


白い光が一度、世界を満たした。

稲光ではない、もっと柔らかな、どこか懐かしい光。

次いで、音が消える。


……落ちた。


水か、夢か。

境目のない場所へ。


(幕間の先で、誰かが待っている)

カルディスの意識が沈む最中、微かな鼓動の気配…

“誰かの手”が、遠くから、確かにこちらへ伸びてくる。

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