第25話 神の目と群衆の声
朝靄が王都の屋根を包んでいた。
雨は止み、石畳には薄く光が差し込む。
街全体が、嵐の後の静けさに沈んでいる。
燈子は宿の窓を開け、湿った空気を吸い込んだ。
「……少しだけ、空が明るい」
その声に、カルディスが短く頷く。
「嵐の前には、必ず晴れ間がある」
トオヤがパンを頬張りながら顔を上げた。
「それって、いいことの前触れ?」
ガロウが苦笑した。
「いいや、逆さまだ。悪いことの前触れだ」
燈子は小さく息を吐き、手元の聖剣レプリカを撫でた。
子供が遊び道具にしていたそれを、磨きながら。
「……これ、意外と重いね」
「模造とはいえ、鉄は鉄だ」カルディスが言う。
「だが、振るうべきものは“剣”ではない」
燈子が顔を上げると、彼の視線は外を向いていた。
「信じるものを間違えれば、鉄より重いものを背負うことになる」
宿の外から、ざわめきが届く。
人々の声。
最初は商人たちの掛け声のように聞こえた。
だが徐々に、それは不穏な色を帯び始めていく。
「……なんだ?」
ガロウが立ち上がる。
通りの方角から、群衆の声が押し寄せてきた。
「偽聖女が現れた!」
「神が試しておられる!」
「信仰を穢す者を——焼け!」
瞬く間に、街の空気が変わった。
鐘が鳴り響き、信者たちが旗を掲げて走り抜ける。
白布に描かれた金の紋章が、朝日を浴びて眩しく光る。
トオヤが顔を強張らせた。
「ねぇ……“焼け”って、まさか……」
カルディスが剣を取る。
その動作は、静かで、決意に満ちていた。
「……予感は、当たったな」
宿の窓を開け放つと、通りの先に黒い煙が上がっていた。
群衆の中央、縛られた一人の女。
その頭上に掲げられた木札には、大きく刻まれている。
《偽聖女》
燈子の手が震えた。
「……もう、始まってる」
カルディスは一瞬だけ目を閉じ、低く呟いた。
「“観察者”が居た頃の秩序は、もうどこにもない。
人は見られなくなった瞬間、己の神を作る」
炎が上がる。
祈りと狂気の声が、王都を覆っていく。
…静寂の終わりが始まった。
通りは、もう信仰ではなく熱狂に染まっていた。
群衆が炎を掲げ、「赦し」と「断罪」を同じ口で叫ぶ。
「聖女が偽物なら……神は怒る!」
「真なる奇跡を見せろ!」
「この火で試されるのだ!」
燈子の頬を風が撫でる。熱気と灰の匂いが混じっている。
「……どうして……」
カルディスが冷ややかに言う。
「人は“救い”が欲しいのではない。“正しさ”を見せつけたいのだ」
群衆の列の先で、教会の司祭が壇上に立っていた。
濡れた法衣を翻し、金の杖を掲げる。
「見よ、この者は神の御名を騙る偽りの女!
信仰を穢す者に、裁きを!」
その瞬間、群衆の目が一斉に同じ方向を向いた。
…燈子たちの宿。
「……え?」
誰かが叫んだ。
「もう一人いるぞ! 本物を名乗る聖女が!」
「奴だ! あの娘だ!」
一斉に視線が突き刺さる。
ほんの数秒前まで“平穏”だった通りが、
次の瞬間、燃え盛る戦場に変わった。
トオヤが窓を見て叫ぶ。
「もう無理だ! 逃げよう!」
ガロウは肩を庇いながら頷く。
「剣は抜けねぇ……杖だ。行くぞ!」
カルディスは一瞬だけ考え、
燈子の腕を掴んで通りの逆方向を指した。
「裏路地だ。教会兵が来る前に抜ける」
宿を飛び出すと、狭い路地に灰が舞っていた。
人々の怒号、鐘の音、燃え落ちる家々。
まるで信仰そのものが狂気に変わった街だった。
「……これが“神の目”を失った世界か」
カルディスの声は低く、痛みを帯びていた。
燈子が彼を見上げる。
「カルディス……どうしてそんな顔をするの?」
彼は答えず、ただ炎に照らされる街を見ていた。
「本来なら、私はこの光景を“記すだけ”の存在だった。
だが今、私は…見ている」
その声に、燈子は息を呑んだ。
ガロウが先を指す。
「こっちだ! 裏門まで抜ければ川沿いに出られる!」
トオヤが頷き、先導して駆け出す。
その背に、怒号と祈りの声が重なる。
「聖女を捕らえろ!」
「神の裁きを与えよ!」
…それはもはや祈りではなく、呪詛だった。
裏門の石橋が見えた。
だが、門前にはすでに兵の影。
教団の紋章を掲げた男たちが、槍を構えて立ち塞がる。
「逃げるつもりか、偽聖女!」
「神は見ておられるぞ!」
燈子の足が止まる。
その言葉に、どこか懐かしい痛みが刺さった。
カルディスが一歩前に出る。
「神は……見ていない!」
兵たちがざわめいた。
カルディスの声は、炎の中で静かに響いた。
「見ているのは我々だ。神の名を借りて、人を焼くのはお前たち自身だ」
その瞬間、兵の一人が叫び、槍を突き出す。
ガロウが咄嗟に杖を振るい、槍の柄を弾いた。
木と鉄がぶつかり、火花が散る。
「悪ぃな……俺はもう剣は握れねぇが、棒なら別だ!」
彼の一撃が兵の手を弾き飛ばす。
燈子はすぐにモーニングスターを掴んだ。
(本物じゃなくても、守ることはできる!)
鉄球が弧を描き、敵の足元を薙ぐ。
「退けぇええ!」
トオヤがすかさず動く。
倒れた兵の腰袋から鍵束を抜き取り、門の鎖を外す。
「今だ、行け!」
カルディスが全員を押し出すように叫んだ。
「走れ!」
四人は濁流のような怒号を背に、橋を駆け抜けた。
門が閉じる音が背後で響く。
その瞬間、王都の炎が夜空を裂いた。
…外は静かだった。
風が冷たい。
遠くに川の音が聞こえる。
その向こうには、広大な大陸の闇。
燈子は肩で息をしながら振り返った。
王都は、赤い光の海のように燃えていた。
「……あんなに綺麗だった街なのに」
ガロウが口を拭って言う。
「信仰ってのは、火みてぇなもんだ。扱いを間違えりゃ全部焼く」
カルディスは炎を見つめ、低く呟く。
「……観察者が居た頃、私はただ“見て”いた。
でも今、こうして見ているのは……自分の選択だ」
トオヤが言う。
「じゃあさ、これからはどうする?」
カルディスはわずかに微笑んだ。
「……答えはまだ見えない。だが…見届けたい」
その言葉に、燈子も頷く。
「なら、行こう。次の光を探しに」
風が、夜の闇を払いのける。
川の向こうには新しい大地。
彼らの旅は、まだ終わらない。
…そして、観察者のいない世界は静かに揺らぎ始めていた。




